ヨガと煙草 Ⅳ teruchiteruteru40歳、ヨガを始めた頃の話。 人は冷たくなって死ぬんだな。 (全5話)
この物語はわたくしteruchiteruteruの24歳頃から今、現在に渡るお話です。ヨガマスターでもなく仙人でもなく人間ど真ん中なわたくしの在りのままな姿をご覧いただけたらと思います。ではヨガと煙草(全5話)第4話。はじまりはじまり~🧘♂
喧嘩しながらも結婚生活は続いた。煙草は仕事の休憩時間、家に帰ってからは外で吸った。
外で星や月を眺めながら吸う煙草はとても美味しかった。
ぼくはウクレレサークルに参加して友達や知り合いが増えた。音楽に夢中になった。
仕事が終わると毎晩酒を飲みウクレレを弾きまくった。
田舎の仕事は休みが少なく長く続かず、体調も精神も乱れることが大きく乱れることが一年に一度はあった。そのためにまた、仕事を辞めた。
40歳になりたての頃、ぼくはB型障害者支援施設に勤めていた。おでん屋の女将が出来たての支援施設を紹介してくれたのだ。
利用者の皆さんと農作業をしたり、ペットボトルや空き缶の分別をしたりする担当だった。
彼等と自分は紙一重にぼくは思えた。
仕事もまともに続かない社会不適合者のぼくと、社会から精神疾患に認定されている彼等、ぼくはなんとかしてあげたいと思っていた。
この他に利用者の送迎の仕事があった。
ちゃんと約束の時間通りに待っていてくれる人、約束の場所には出てくるが、何処かに行ってしまう人(探し回らなくてはならなかった)、迎えに行っても出てこない人。。。
この迎えに行っても出てこない人は若い娘さんだった。迎えに行けば殺してくれとか私に刺されますよと柱の影から彼女は叫んだ。
支援施設というところは来てもらってなんぼの世界である。来てもらう、作業する、ご飯を食べる、それで点数が付き助成金額が決まる。
施設長や社長はその辺はとてもクールだった。
ぼくは彼女と経営陣の間で苦しんだ。
ある日、起きると嘔吐が止まらなかった。
胃がキリキリと傷んだ。
からだが冷え切り動けなかった。
施設に休むと電話をし、家で横になった。
神奈川に帰りたいと妻に話した。
もう鹿屋の生活はギブアップしたい。
ぼくは2週間動けず、施設にやめる旨を伝えた。
冷え切ったからだと心、ぼくは死ぬときはこうして体温を失っていって死ぬんだなと感じていた。
そんな様子を見て妻は体幹トレーニングの本を買ってきた。
これが自分には合っていた。
サッカー日本代表長友選手の本だった。
DVDに合わせからだを動かしながら、体幹を鍛えた。日増しに元氣が戻ってきて、もう一度、鹿屋でやり直してみようという氣持ちになった。
今勤めている会社にその頃入社した。
そして、長友がやっているヨガを自分もやってみようと思った。
そんな時、地域のイベントで公民館を借りてクリパルヨガを教えていた先生と出会った。
ヨガを始めるに当たって懸念されることがあった。煙草の事である。
煙草を吸ってる人でも教えて貰えるのか。
煙草を辞めなさいと言われるのではないか。取り敢えず、煙草を吸うことは黙っていた。
ヨガは楽しかった。段々とポーズを覚えポーズの流れも覚えていった。練習する中で多幸感を味わうことも多くなっていた。
ぼくはヨガに夢中になっていった。20代の頃挫折した瞑想がヨガにもあった。ヨガ式の瞑想方法でまた瞑想も再開した。ヨガにまつわる沢山の本を読んだ。
絶望の日々から希望の毎日に変わっていった。
ヨガをやり続けたら煙草をやめる日が来るかな。
やめられるかな。
そんな事も考えた。
通い始めて一年が経ちぼくが先生や教室の雰囲気、そしてヨガに慣れてきた頃、先生からウクレレ・ヨガダンスというイベントをしないかと提案を受けた。
ぼくがBGMにウクレレを弾いてそれに合わせて先生がヨガのポーズでみんなを誘導していくというものだった。
イベント当日、ぼくはとても緊張していた。
人前で演奏する時はとても緊張してしまう質なのだ。
先生や参加者から離れて煙草を吸った。
あれっ?とは思われたかもしれないが、特に何も言われなかった。
イベント自体自分は多少ミスった箇所もあったが最後は結構激しく踊って楽しく終わった。
そして、打ち上げ、近くの食堂で飯を食い飲みたい人は飲んだ。酒を飲めば吸いたくなる。帰り際、一本外で吸ってから妻が運転する車に乗り込んだ。
ああ、吸うんだ、と思われたに違いない。しかし、その後何か言われることはなかった。ぼくの懸念はただの懸念に終わった。
《続く》
今回もご一読ありがとうございました!
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(↑noteデビュー記事です🙈 (*´艸`*) )
(上に載せた長友の体幹トレーニングのムーブも入ってます!)
次回、最終回です!!
ナマステ✨