星の時間を生きる 縁と起の世界を あなたの魂の部族は? 〜熊楠のレンマ〜
12月22日に水瓶座0℃起こった木星と土星のグレート・ジャンクションの話を聞いた。
占星術の大御所、鏡リュウジ氏と石井ゆかり氏が楽しそうに「風」の時代を語る中で、石井さんがレヴィー・ストロースの言葉を引用して面白い表現をした。
グレート・コンジャクションは、私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。
私は以前から現在にいたるまで、自分の個人的アイデンティティの実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、「私が」どうするとか「私を」こうするとかはありません。私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。交叉点とはまったく受け身の性質のもので、何かがそこに起こるだけです。ほかの所では別のことが起こりますが、それも同じように有効です。選択はできません。まったく偶然の問題です。
『レヴィー・ストロース 神話と意味』
これは、今、@田原真人さんが提起しようとしている「出現する多層的参加型社会」の中の縁起の話に繋がっているのではないか。
それぞれの星が軌道を描き、その星と星がある場所で交差する。この交差というのはある観測点からその星たちを眺めた場合だ。
”ある人”と”ある人” ある人”と”こと” の関係性の中で、そこに強烈な出会い ”縁”を感じるということはどういうことか。
それは、同じ場所から空を見上げて、木星と土星の交叉(グレートコンジャンクション)をその観測点から、量子力学で波動を観測するかのように、自分自身も含めた現象として確認し、そこに同じ星の重なり、光をお互いが感じ取った場合、「今、星と星が重なったよねー」とお互いで言葉を超えて感じ合う場合に、その縁が立ち上がるのではないか。
そこに星の重なりと光の瞬きを見いだすのは、自己の深層にある知性、夢で感じていたような知性、南方熊楠が華厳経から見つけた心不思議な世界、表層意識のロゴスによる一直線の因果律ではない、全てが相互に関係し合う重々帝網なる融通無碍な原理による世界。
熊楠は、これをレンマの知性と読んでいるが、この自分の無意識化の次元に広がるレンマの知性が星の重なりを感じた時に、
そこに”縁”が生まれ、そこで出会った「ある人とある人」は「我と汝」の関係に、「自分とそれ」は「私と私のもの」の関係に変容し、二つが共鳴する強烈な力が立ち上がる。「縁が出会って、起こる」縁起が現象として立ち上がっていくのだ。
これは、一度、レンマの世界の深層に深く”潜り込み”、そこから表に”湧き上がる”ような運動のことではないか。
そんなことを考えながら、
今、その田原さんのYAMI大学よろめき歩き部の中で、『熊楠の星の時間 中沢新一』を読み、対話をしている。
偶然なことに、この本の中に、レヴィー・ストロースのトーテミズムの話が出てくる。
熊楠は、自分の名前の”熊”と”楠”の字に、自然界との大きな繋がり(トーテミズム)を感じている。
田原さんは、ご自身が熊楠と同じような粘菌の研究をしたり、会社名に”熊”の文字を使っていたり、そこに熊楠との大きな縁を見出している。
そして今、熊楠の思想をベースにした、新しい縁起の構造の理論を表現しようとしている。
これは、偶然を超えてのレンマの働きではないか。
先日、友人の@大島優子さんが、長崎県壱岐のイルカパークを訪ねた時に、イルカと再開したような強烈な体験をしたそうだ。
ここにトーテミズムがあるとしたら、壱岐でイルカ族の仲間同士が懐かしい再会を果たしたのかもしれない。
そして、僕は、昨日の朝に夢を見た。光が降り注いているような夢だ。その時、夢の中で、僕は”光族”だと直感したのだ。
起きた後、どういうわけか書道の栗原先生のことが思い浮かんだタイミングで、その先生からメッセージがあったので、
「先生は、テレパシー送れるの? もしかして光族?」と返信した時に、
「それ、それ。 ある人に、光族、言われたことがあるよ」
これは偶然なる奇妙な会話なのか。 光族というのがあるのか。
あなたは、何族ですか?
さあ、今日も、10時30分から、レンマ不思議な対話の時間がYAMI大学で始まる。