コロナと子どもと私の芸術
コロナ騒動で小学校が休校になり、数日が過ぎたところで、再度学校から「緊急受け入れ」の知らせが。ああ、これでようやく仕事が通常通りできる。と安堵しながら、「さて、明日はランドセルで行けば良いのか?リュックで行けば良いのか?」そんなことを考えながら、こんなことを思った。
30代のファイン系のアーティストで、他に小学生の子どもが居るのは誰だろう?
廻りではほとんど聞かず、子どもが居ても就学前児童だ。
小学生居て、アーティストで、っていう立場からSNSなどでこの特定の立場からの発信を何度かしてきたが、今日ようやく
【子どもが居ても居なくてもアーティストには関係がない】
ことに気がついてしまった。
「アンタそんなこと今更気づいたんかい」と思うひともいるだろう。あなたは恐らく(ここでいいう)芸術への理解がある方だ。
正確には悟ったような言い方ではないかもしれない。また変化するときがくるかもしれないが、違和感だけはあったことは確かだ。
違和感とは何か。
例えばピカソが自分の子どもの絵を描いていたら、嫌だなって思う。私が勝手に思っているだけで、評価をしてみても良いかもしれない。しかし嫌なもんは嫌。興味のないもんは興味がない。
マティスは晩年南仏に礼拝堂を建てた(デザインした)が、デザインとしては素晴らしいと思ったしマティスも最高傑作と自負したほどだ。
しかしアートではない。
いい作品かもしれないが。
少し逸れたかもしれないが、よく似ている。子どもがモチーフになるならないの話と全くと言っていい程同じだ。
慈愛とか、善とか、その類の話である。
ここでコロナ騒動に話は戻ると、私が小学生の娘が居る身で休校措置の話題をしたところで、アーティストと何の関係があるのか。根底に私の今までの作品や活動がある。
かんたんに言うと、建築をテーマにした作品や、保育園での諸々のペイントの作品。これらの活動を作品として提示してきたからこそ、コロナ騒動に限った話じゃなく、娘と芸術活動を共にしている話とかをSNSにアップした話とかが変に繋がってきてしまったのだ。
まず建築は芸術の最終形態という話もあるが、厳密には芸術ではない。おこがましい捉え方だ。建築はただの建築であるし、芸術は芸術だ。最終形態と言うにはずうずうしい。建築は善の思想だぞ。福祉の思想だぞ。確かにザハ建築には希望がある。しかし全く無意味なものを作っているか?
ザハが造ったものが、まったく意味をなさないものだったらわかる。寝られない。使えない。座れない。そして日よけにもならない。これはもう立派な彫刻作品かランドアートであり、芸術だ。
しかし実際に使えている。機能している。中にはトイレもあるし、ベンチも置いてあるだろう。ひどく建築とは無関係のように思える甚だしい造形は、一見芸術のように見えるかも知れない。しかし単なる装飾だ。
建築としては、非常に面白いのではないか。多くの建築家や夢を抱く者にとっては希望であり、一筋の光だ。
ここで、子どもがモチーフになる、ひとりの作家を形成する要素になるのかについて、また話を戻そう。
私はならない派である。
それは単純に、興味がないからだ。ピカソが子どもの絵を描いたところで、ただの良い話になってお終いだからだ。
いい作品にはなる可能性がある。ただ子ども(やお年寄り)に限った話は、これはもう完全に涙腺崩壊の類の良い作品なだけだ。
感動的な映画を見せつけられるのと同じで、そういうものを求める人はたくさん居るし、あるときは私もそれを求めるかも知れない。しかし私は文化に対してそんなものを求めないし、それを文化だとも思えない。側面的にはアリなんだけども、白黒付けてみると、お金の無駄だと思ってしまう。そういう作品への感動の立場をセンチメンタリズムと私は呼ぶようにしている。
野島伸司の書籍は昔全て捨てた。
しみったれた本やDVDなどもある時、全て処分したことがある。
なぜがムーミン童話だけは残った。
SNSなどを通して、メディアを通して子どもが居るとか居ないとか、そこには何のインスピレーションもない。
例えば、子どもやひとり親、わたしは違うがフェミニズムなども作品とはぶった切らなければならない。今日を境にひたすら隠すのだ。慈愛はインスピレーションにはならない。ムンクのように憎しみや嫉妬、醜悪なら可能だ。
子ども、家族、お年寄り。
母の亡骸。
子どもとのワークショップ。
アーティストの子どもとのショット。
あんまり見たくないな。
だってそこには何の芸術理論もないんだから。
というわけで、しばらく子どもが居るとか、わたしはシングルですとか、現代美術の学校やってます、とか、どうでも良すぎて腹が立ってきたので金輪際この話はしません。
ムナーリが役に立たない機械と謳っていたけど、ムナーリは中途半端だよ。私の気持ちをかき乱すな。
断絶だ。
慈愛を完全にシャットアウトして、分厚い防御壁でしばらく覆ってやる。
そんなことを新しく自分の作家ホームページを作り直しながら色々と発覚してしまった。
...これは生活が一変しそうだ。
廻りへの表明もあちらこちらで責任があってしなくてはならないのだけど、仕方がない。まあ多分、言わなくちゃならないときにこの気持ちが隠しきれなかった場合は、言うだろう。晴れて違和感だけは解消されるだろう。
コロナも去るだろう4月。
私は新たなスタートを切るのかもしれない。