立ち返る 美術の整理
まあコロナ禍というのもあってか?ペインターの福島淑子とRemix × Relax at Insideという展示でリレー式のペインティング?(特に決めないでやる意向,2007年にRemix × Relax という二人展をやってから、この状況下でなぜかふとしたタイミング?で再実践しようという試み。 )をやることになったからか??はたまた運営している美術学校での美術史のレクチャー(1960年代のアートその1・その2という2枠)を今日行ったからか???
よくわからないが、(あとになって判るだろう)わたしはいま、明確に「立ち返る」という作業しようとしている。
GALLERY MoMo の作家である福島淑子(MoMoサイト)は当初からペインターであり、ピカソのような量産型のアーティストなので、絵画以外にも彫刻的なオブジェとか割と「すぐに」作り出すアクションで制作することが多い。だから大型のものを時間を掛けてやるというより小型の、自分の身体からはみ出すようなサイズ感ではなく、日々コンスタントに追い求められるサイズ感、というのが彼女の創造への自然な反応なような気がする。無数の小型彫刻と合わせて見ると非常に噛み締めやすい。(公式サイト)
では、自分はどうか?
美術史の授業を今日やるにあたり、「60年代リバイバル問題」というのをまあ個人的に、あくまでも学校的に、講師的に、評論的に掲げていたわけだ。つまり60年代がリバイバルされすぎて、その60年代リバイバルの頻出にウンザリし、これまたあくまでも自分も気を付けようという気概も然り、といったところ。
あ、関係ないかも知れない。60年代リバイバル問題は。まあnoteでは60年代リバイバル問題は書かないので、そろそろ美術史の全16PDFsを開示する予定なのでそのときにでも見てくれるともしかするとうれしいかも知れない。
んで、やっぱり60は関係ないので、じゃあなんで立ち返ろうと思ったか。
やはり福島淑子とのRemix × Relaxのようだ。(これtwitter上での仮想パフォーマンスね)
Remix × Relax という語源から考えてみると、Remix は単純にわたしと福島淑子を掛け合わせる という解釈。(私は)
Relax というのは言葉そのもの リラックスをするというリラックマ ごろんごろん
で、2008年当時「心解放運動」というのを実施していて、ヒトは本当の意味で心を裸にするべきだ、と言って 舞台上で心解放運動のパフォーマンスを10名くらいで行う というのをやるべきだった。
心解放運動のパフォーマンスを舞台上で10人くらいでやるべきだった。
いくらアーティストでも恥ずかしいってことね。みんなに声掛けたんだけどやるっていうヒトひとりも居ないんだもの。
で、ふくちゃん(福島淑子)はわたしのペインティングから連立するアートの諸運動に合意的というふうに見なして、そいでRemix × Relaxていう企画に誘ってくれた、というわたしの解釈。(合ってるか分からないが)
[当時のRemix × Relax 展 @武蔵野美術大学,お仕上げ?中 お仕上げのつもりもないんだけどね。]
[これの奥にライブペインティグ的スペースがある。すっごい楽しかった。]
まあだから、Remix は単なる状態として、 Relax は当時のわたしのスタンスでもあり、ふくちゃんのスタンスでもあった、ということだ。
だから何やっても良くて、音頭というか&キュレーションというか&0ー1の舵取りはふくちゃんがやってくれるとして、わたしはまあただおもむろに。このおもむろに っていう態度いいな。
だからぜんぜん決めてなかったの。キメてるようで決めてなかったなあ。(と回想)
[コレ描き出しのふたりのすがた・かたち]
[はなれて見たり、とか。(これは後藤てるみ)]
そいで、わたしは重圧や束縛や社会や倫理や役割や美しさや葛藤や自立や極度の不安や緊張や責任や35歳や(中学生だったら学校や)立場や贈与についてなどから、完全にぶった切って断絶する 逃れる っていう道を進路として「好んだ」ということがいろいろメモに記していたら分かったことであった。いろいろとよくわかんない文章なのは百も承知だけど死んでも直してやるもんか って思ってる。
つまり芸術分裂病でもあり芸術多次元派でもあるということだし、(関係ないけど)
わたしの選んだ道はこうだ。
舞台ではない。
音楽ではない。(できない)
文学でもなければ、映画監督の道でもなく、漫画でもない。
ましてやデザインでもない。さらさらない。
美術である ということだ。
で、なぜ美術??
85年生まれの自分からすると、当時美術予備校と言うと[油絵科]を専攻すれば「大学で何でもできるよ」ということで即決したのが油絵学科。まず油絵、というのが気持ち悪そうで興味をそそられる。
これが「アクリル絵具学科」とかだったら死んでも入りたくないな。「水彩画教室」とかいうのとおんなじテンションだね。無駄に軽薄なイメージで、ぶん殴りたくなってくる。
だから今はそういった意味でも苦学生だと思う。可哀相。(学校教育への皮肉を込めて)
芸大の先端芸術学科がまだギリで、無かった時代。つくりすぎだろ、学科。(アートに限らずだよ。)
芸術を細分化するってゆうのが、そもそも間違ってるんだよ。
こんなに細分化してみちゃったから、ほれ見ろ 悩めるティーンがこんなに増えちゃったじゃないか!そんでもって社会の細分化させといてからの一気に統合 っていう流れに自分も惑わされちゃったじゃないか!ほんとにばか!
で、これだけは立ち返った ってときにハッキリしたのが、自分は美術だ。ってことだ。
つまり先に言った
重圧や束縛や社会や倫理や役割や美しさや葛藤や自立や極度の不安や緊張や責任や35歳や(中学生だったら学校や)立場や贈与
(デザインのような)じゃなくて、おどろおどろしくて、醜悪で、暗くて、陰気で、気持ち悪くて、臓物的で、この世の終わりで、っていう危ない道、綱渡りに大いなる好奇心があったということだ。安泰の道を選ぶ人は芸術家じゃない。完全に社会から断絶された、己の精神の世界へ身を投じる 覚悟でもなんでもない、単なるダンゴムシ千切って遊ぶだけの好奇心だったということだ。完
(以前のnoteの「二分化された芸術」の観点を少し掘り下げるかたちで、「現代アート」の二分化された芸術に、「芸術とはなにか?」という観点での作家の態度があるかどうか、が判断方法として挙げられる。現代アートは広義で現代アートであり、二分化された一方の現代アートは、芸術とはなにか態度には完全に当て嵌まらない、ほぼ完全に自覚的・無自覚含め商業中心アートである。飾ってたのしい、飾ってステキ、インテリア、オブジェ、その他で、それはジョン・チェンバレンも同様だ。)