JICAからNEWPEACEに転職した話
はじめまして。7月半ばからNEWPEACEにJOINした照下真女(てるした まさめ)と申します。
新卒から4年間勤めたJICA(国際協力機構)を辞めて、NEWPEACEに転職しました。
「え、JICAからなんでNEWPEACE?!全く違う仕事では?!」と、よく驚かれるのですが、小さい頃からの憧れだった国際的な仕事から、全く迷いなくNEWPEACEに飛び込んできました。
「なぜJICAからNEWPEACEに転職したのか」について伝えようとすると、私の生い立ちから語ることになり少し長くなってしまうのですが、私が中学生の時に情報の少ない環境で見ていた誰かのサイトの情報のように、国際協力や社会貢献に興味、関心のある人にとっても参考になるといいな、と半ば無理矢理のこじつけをしつつ、こんな異業種からもNEWPEACEにやってくる人がいるんだ、ということを知ってもらえると嬉しいです。
小豆島で育った私が憧れていた国際的な仕事
瀬戸内海に浮かぶ小豆島で生まれ育った私は、小学校3年生くらいまで小豆島が世界の中心だと思っていた。
「島出身なんだ!大変だね」と小豆島の外に出てから結構言われるが、
小豆島に住んでいて特に不便なことも、田舎だなぁと思ったこともなかったのが本当で、
小豆島の中でも本は読めたし、新作のゲームも手に入ったし、美味しいケーキも食べられた。
実際、離島には珍しく、島の経済を支える古くからの伝統産業がいくつもあり、相対的に「豊かな」島だったからこそ、
社会経済的な不自由さはそれほどなかったのだと思う。
とはいえ、私が小学生だった当時はバブル崩壊後の暗い時代で、地域の中小企業が生き残るのにかなり大変な時だったのを小学生ながら肌で感じていた。
それにも関わらず、島の企業がお金を出し合って、音楽コンクールや演劇交流など、ことあるごとに島の小学生たちを東京や大阪の遠征に送ってくれていたのを覚えている。
とても教育熱心というか、次世代への投資を惜しみなくするような企業文化があり、
よく田舎に言われるような「閉塞的な雰囲気」を感じたことがなかった。
地域の人は自分の地元に誇りを持ちながら、外への視点を持つことの大切さを教えてくれたように思う。
そんな環境で育ったからこそ、自然と「外」の世界への興味と関心が湧くようになった。
「マザーテレサ」の伝記を読んだとき、小豆島の外の「他の日本」にすらあまり行ったことがないけれど、日本の外にはさらに「世界」が広がっていて、貧困や病気に苦しむ人がいることを知り、
家族と二度と会えないのを分かった上で故郷を去り、飢えと病気に苦しむ人のもとに向かったマザーテレサの勇気と覚悟に、小学生ながらひどく感動した。
また、全然知らない異国の地に挑む勇気と新しい日本を作っていくワクワク感が好きで、勝海舟や坂本龍馬など幕末時代の偉人たちの伝記も大好きで何度も読んだ。
そんな彼女、彼らの生き方に憧れ、鼓舞され、「世界を舞台に、人を助ける仕事」に就きたいと漠然と考えるようになっていた。
夢に向かって一直線に生きてきた
早い頃から「外の世界」に目を向けていた私を、ありがたいことに両親は中学校から小豆島の外の学校に送り出してくれた。
寮生活の学校で、北は北海道、南は沖縄まで、全国から集まった仲間と寝食を共にする生活は、小豆島だけだった私の世界をさらに広くしてくれたし、多様な個性と価値観の中で時にぶつかりながら、互いを尊重しあうことの大切さを教えてくれた。
当時、同時多発テロを目の当たりにし、米軍のアフガン侵攻が行われるなど、刻一刻と変わる世界情勢のニュースが流れるたび、「人が生命の危険に晒されることない平和な世界にするために、自分にできることは何か」を自問した。
そして「国際的な人を助ける仕事」に漠然と憧れていた私は、緒方貞子さんのような「国際公務員」を自然と目指すようになっていた。
国際公務員になるための情報を手探りで探し(当時図書館に国際公務員について書かれてある本は1冊しかなかったので、ホームページビルダーで作られたような個人の(ちょっと怪しい)ホームページなどで情報を得ていた)、国際公務員に必要なことを逆算して、着実にゴールに向かうため一直線に努力した。
寮生活では誰よりも遅く寝て、誰よりも朝早く起きて勉強に励む生活を6年続けた。
時に、そんな生活に辛くなったり、目先の大学受験をゴールにしそうになった時は、手帳に書いた「世界で困っている人を助けられるようになるために勉強を頑張る」という目標を何度も見返し、また再び机に向かっていた。
壁に貼った世界地図をふと眺めては、遠い辺境の地の知らない誰かの顔を思い浮かべた。
彼ら/彼女らを笑顔にしたい。「私ではない誰かのために頑張る」と思うことで、自然と力が湧いてくる感覚があった。
高い専門性を身につけたいという理由から東大に入ってからもなお、国際公務員になるために必要なことを一生懸命取り組んだ。
英語とフランス語をマスターするため交換留学にも行き語学の勉強を続けた。
フィールドワークの手法とジェンダー地理学の専門性を高めることを目的に、修士まで進んだ。
大学院生の時には、1年間当時日本にできたばかりだった国連機関UN Womenの事務所でインターンも経験し、「国際機関で働くこと」の末端の仕事を経験することもできた。
かくして、国際公務員になるためのステップ
・国連公用語を2ヵ国以上マスターしていること
・関連のある分野で高い専門性を有していること(修士号を取得していること)
・関連のある分野での実務経験を2年以上有していること
を、着々とクリアしていき、残すは実務経験を積むことだけになっていた。
これらをクリアしたら、私は念願の国際公務員になれる、そう信じていた。
思えば、中学生の時に「国際公務員」になる、と決めてからノンストップで目標まで突っ走っていた。
「本当にやりたいことって何だろう」と初めて向き合ったJICA
国際公務員になるための最後のステップとして、国際機関での実務経験を積むべく、日本で唯一のODA執行機関であるJICAに入った。
その頃には、自分が特に関心を持って取り組みたいと思う分野もあり、念願の「国際的な」仕事ができることへの期待感でいっぱいだった。
実際に、JICAでは自分の身丈以上の様々な経験をさせてもらった。
社会人になったばかりの新米でも、一般市民なら会うこともできないような途上国の要人級閣僚との交渉の場につき、一国の未来を創る国造りの議論を行なった。
ところが、「国際的な仕事」になればなるほど、自分が世界のために役に立っている感覚を掴むことができなくなっていた。
頭では、JICAのプロジェクトが途上国の未来のために必要だと理解していたし、予算規模の大きいプロジェクトを通じたアプローチは、国家の政策レベルで事業を形成できてチャレンジングで面白かった。
裨益者の生活に影響を及ぼすことができるインフラ建設などが目に見える形でできていくのには達成感もあった。
ただ、外交政策のツールとしての性格も強く、現地のニーズに対する合理的な判断に見えないビッグパワーが介在する点など、もどかしく思うこともあった。
あまりにも上流で進む議論に追いつくのが必死で、中高生のころ世界地図を見て妄想した「誰かの笑顔」に近づけていない気がした。
私は今、確かに「国際的な仕事」をしている。
けれど、これが私のしたかった「国際的な仕事」なのだろうか。
小学生の頃からノンストップに「自分のやりたいことはコレだ」と決めつけて、踏み続けたアクセルを初めて緩めた。
「私は”国際公務員になること”が本当にしたいことなのか?」
いつの間にか「国際的な仕事」、「国際公務員になること」を目標にしすぎて、ただ単純にその「形」に憧れていた自分にようやく気が付いた。
小豆島から世界に憧れた少女の思考のまま大人になっていて、立ち止まるタイミングがあったにも関わらず立ち止まらなかったせいで初めて挫折のような感覚を味わった。
自分の思考の稚拙さを悔やみながらも同時に、幼少期からブレることのなかった核の部分が残っていることは暗闇で立ち止まった私の唯一の光だった。
「一人でも多くの困っている人、苦しんでいる人を助けたい」と思い続けている気持ち、これを私は社会の中でどのように実現していけるのだろうか。
VISIONINGの出会いと、JICA広報部での小さな成功体験
そんな日々悶々と過ごしているとき、かねてから関心のあったジェンダーに関する情報を集めている中で「REING」を知り、「NEWPEACE」を知った。
「VISIONING」という手法に出会った時、「私のしたいことはこの方法で実現できるかもしれない」と感動にも似た興奮を覚えた。とはいえ、それが実際に正解なのかも、有効なのかも分からなかった。
時に、JICAで自分のやりたいことに躓いて、心が弱っていたころ、広報部に配置してもらえることになった。
ありがたいことに当時のJICA広報部は上司と仲間に恵まれ、自分のやりたいことを主体的にやらせてくれる環境だった。
ある時、(私とジェンダーの課題に対する関心についても追ってnoteに書きたいと思うが、)私の関心分野を知っていた上司が「国際ガールズデー」の広報キャンペーンの企画を任せてくれた。
JICAは他の日本企業と比べたら女性もバンバン活躍しているし、ジェンダー平等な働き方ができる職場であり、一見「ジェンダー平等な」職場空間が実現できているからこそ、実際には大小の問題があるにも関わらず「ジェンダー平等」や「ダイバーシティの推進」が大きな声になることがなかった。その現状にうっすら違和感を覚えていた。
「JICAがジェンダー平等を外に呼びかけるのではなく、まずは内部の声を大きくしなければ、外を動かす存在になり得ない」と考えた私は、「広報キャンペーンをしろ」という業務指示だったにも関わらず、「JICAの組織内に呼びかける」企画を考えて展開した。
コピーのようなものも自分で書き、「なぜ私たちがジェンダー、多様性に取り組み必要があるのか」を自分の経験を引き出しながら一生懸命文章に起こし、100カ国以上にいるJICAの仲間に送った。
「誰も呼びかけに応えてくれないかもしれない」
そんな不安を裏切るような形で、たくさんのメッセージとアクション企画を実行してくれた仲間の声が連日メールボックスに届いた。しかも、その多くは途上国の現地で働く、ナショナルスタッフと呼ばれる途上国出身の仲間達だった。日本もジェンダー先進国とは言えないが、それよりも目に見える形でジェンダーに基づく社会慣習や価値観が強いような途上国の仲間達たちが、私の言葉に共感し、勇気を持って声をあげ、行動に移してくれた。
結果、想像以上に組織内キャンペーンの参加者は多くなり、さらに外部にも届ける形(動画)となって、世界中の人たちにJICAのコミットメントを示すこととなった。それは、出目だけを取り繕った広報キャンペーンではなく、実際のJICAで働くリアルな声とエネルギーが詰まったものだった。
「あぁ、これがひょっとして小さなVisioningなのかもしれない」
広報キャンペーンを経るまでもなく、やっている途中から、情熱が次々に同心円状に伝播していく感覚があった。ようやく壁の世界地図を越えて、「誰か」が意志を持って輝いている顔を見ることができた。
実現したい社会へのコミットメントの表明を言語化し、目に見える形で外に発信していくことで人々の意識や行動に変容がもたらされること、そしてそれらが急速に自発性を帯びた力に変わりコミュニティに浸透していくということ。
それは「より良い社会を作るエネルギー」に他ならなかった。
「私がやりがいを感じながら、困っている人の世界をより良くするするための方法はこういうことなのかもしれない」
「国際公務員になりたい」というWhatだけを語り、単純計算で導き出したHowに躓いていた私の答えがようやく見えた。
私のビジョン「社会課題の解決を通して、希望を語ることのできる社会の実現」
曖昧でアマチュアな私のやりたいことを実現するビジョンが明確になった時、JICAという場所だけでなく、もっと広い社会で実践してみたいという気持ちが大きくなった。
その時、全く迷いなくNEWPEACEへ転職することを決めた。
「国際公務員になる」としか考えていなかった中高生の私には想像もできないところに着地したが、そこへの執着や後悔みたいなものは全くなかった。
ただ、2年前に挫折した段階で「国際公務員は違うから、NEWPEACEにいこう」という選択をしていたら恐らく上手くいっていなかったと思う。
小さい小さい成功体験でしかないけれど、自分なりにVISIONINGの有効性とやりがいをJICAで見つけられたからこそ、執着や迷いなしに新しいステップを踏み出す決意が自然とできたのだと感じている。
JICAを退職するときにお世話になった人たちのメールには、こう伝えた。
「JICAに入ってやりたかったことが変わったから辞めるのではなく、採用面接の時に、ギュッとこぶしを握り締めて語った社会貢献に対する想いはあの時から1ミリも変わっていませんが、そのアプローチ方法を自分の得意で好きな方法から叶えてみようと、チャレンジする次第です」と。
NEWPEACEに入った今、VISIONINGを用いて企業や個人の存在意義と価値を社会の中に体現化、深化させていく役割を果たしつつ、自分自身も意志に基づいて、自ら行動することで周りを巻き込み、社会に変化を及ぼす原動力でありたいと思う。
小さいながらも「一人の人間の声や行動が、周りの人や組織を変える力になる」という経験も積んできたからこそ、私は自分と、自分の行う選択が社会を変える力を持っていると信じている。
個人の能力の発揮を妨げるような理不尽な社会的慣習や価値観を、自らの声や行動によって変えていきたい。
自分が夢を持って人生を歩めたように、次の世代も夢や希望を持って生きることのできる社会を創っていきたい。
その社会を創り出すことが世界平和につながっていると私は信じている。
-to be continued...-
※ちなみに現在、私がNEWPEACEで所属しているVisioning®︎ Firmは一緒に働く人を探してます!より良い社会を作るために一緒に力を合わせたい人大歓迎です!
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