ジークアクスを見て兄と和解した話。
※注意! この文章には2025年1月26日時点で公開中の映画・機動戦士ガンダムGQuuuuuux(ジークアクス)の盛大なネタバレを含みます!
そして冒頭から注意その2ですが、別に兄と喧嘩していたわけでも遺産を巡って骨肉の争いをしていたわけでもありません。
ただ、個人的に重要な「腑に落ち」があって、それがジークアクスを見てきたのがきっかけになった、という話です。
ジークアクスのなにが気に入らなかったのか?
いや、面白かったですよジークアクス。
僕は1979年でファーストガンダムと同い年ですが、ひと通りガンダム作品は履修しているまあ、オタクではありますし。
それになにしろ、Gジェネとかスパロボとかギレンの野望とか、あの辺りの直撃世代なわけですよ。
だから、ジークアクス劇場公開冒頭の「ビギニング」について、あれの面白さはもう最高に滾るものがありました。
それこそ、2ちゃんねるSS二次創作の傑作「グフとかいらないんじゃないかなぁ」とかを彷彿とさせる感じ。これが映像で、しかもこんな綺麗な映像で見れるのか!という感動はありました。
しかも、セリフのひとつひとつが非常にニクいというか、前編小ネタのオンパレードというか、擦ってないセリフが探せないくらい。
あれはいわゆる、ファーストガンダムの「IF」なわけで、仮想戦記とも言える話なわけですが、もちろんそれだけじゃない。
シャアが感じた「ひらめき」がIFルートに入るきっかけになっているという明確な描写、そしてグラナダの地下にあると明言された「バラ」の存在。SF的なブラックボックスを設定の根幹に据えることで、ファーストのIFをネタだけに終わらせるまいとする、SF屋の矜持とも取れる気概を感じました。
そして、そこから流れるように、新主人公「マチュ」がクランバトルに身を投じる物語が、疾走感とキラキラしたエネルギーの迸りと共に描かれる。
ビギニングで描かれたIFが、丁寧に拾われて新たな物語へと接続するという、なんとも見事な「新作」でした。
じゃあなんで、「俺はこの作品を批判する」とかわざわざ言及してるのかって……
ジークアクス、とても面白かったし本編もすごい楽しみだけど、それはそれとして僕はこの作品を批判し、庵野さんのスタンスにも異を唱えるアンチとしての立場を取ります。
— 輝井/terry@空手バカ異世界とかの人 (@terry10x12th) January 26, 2025
そのあとのツイートにも書いたんですけど、つまり、「いらんだろビギニング」と思ってしまったのです。
ビギニングとセカイ系
いやね、さっきも書いたんですけど、あのビギニングの意義はわかるんですよ。
既にTwitter(X)でガノタたちが大騒ぎしているように、あんだけ話題になったら商業的には大成功でしょうし(実際僕も、ネタバレ踏まないように慌てて観に行ったってのもあった)。
しかも、雑なIFリメイクとかではなく、「シン・ゴジラ」、「シン・ウルトラマン」、「シン・仮面ライダー」で超絶クオリティのリメイクという離れ業をやってのけた庵野監督率いるスタジオカラーの手による「本気IF」。これだけで一本企画やれよ、と言いたくなるくらいのマジコンテンツ。
それが新作アニメの冒頭にくっついてくる。これだけでお得感が半端ない。
前半と後半で一気に空気が変わるな!?という感はあったんですが、まあそれは置いておきます。そこは別に不満ではない。
実際のところ、「新作アニメの冒頭にIFがくっついている」などというレベルに収まらないのがこの「ビギニング」でした。
クオリティもさることながら、ちゃんと「ここがIFの原因なんですよ!」というSFギミックがあることを示し、その上で新作本編の方にも、しっかりとその謎を追うことの楽しさを提示してある。
この辺り、それこそエヴァンゲリオンとか平成ライダーでもあった、「登場人物たちのドラマをダイナミックにやりつつ、シーズンを貫く大きな謎を追う」という構造のお手本のような美しさ。これはもう先が気になって仕方ない。
そして、その「先が気になる」の中に、シャリア・ブル中佐であったり、シャア・アズナブルその人であったり、アルテイシアとかそれこそアムロとか、あの辺の人たちが絡んでくるであろうという確信。これは、クランバトルに挑むマチュの物語の背景を、大きく広げることに成功しています。
「新世紀エヴァンゲリオン」でも、物語の背景に「死海文書」とか聖書の引用を散りばめていくことで、主人公・碇シンジの物語がセカイの命運と接続していく広がりが描かれました。
(まあ、その大半はハッタリだった、という面もありましたが……)
つまり今作では、この「背景として引用する神話」の部分にファーストガンダムを持ってきているわけなんだなと。
「セカイ系」というひとつの潮流を生み出したともされるエヴァンゲリオンですが、その手法をマーチャンダイジングの分野に四次元展開した、と考えてもいいかもしれません。
この、「別コンテンツへの並行展開」という手法は近年の作品の特徴でもあります。「アベンジャーズ」に連なる一連のMCU作品や、過去のシリーズを物語に組み込んでしまうスパイダーバース、劇場版で新旧共演する仮面ライダーやスーパー戦隊など、「ああ、あれね」という「視聴者側の感情」を物語の感情導線に組み込むのはすっかり一般に浸透してしまいました。
この辺に関しての個人的な「気にいらなさ」は過去のnoteでも書いています。
言わば「第四の壁」を破る反則技が浸透してしまったことの是非というのは、一旦置いておきます。
もちろんジークアクスもその系譜に入るものではあるんですが、今作の問題点はそこではない、と僕は考えています。
では、いったいなにが問題なのか?
最大の問題はなにか?
既に書きましたが、今作への僕の評価は「いらんだろビギニング」です。
ファーストのIFであること、それを「神話」として背景に描くことで生まれる様々なワクワク感、それらはすばらしい効果を生み出していると思います。
でもね。
でも、だよ。
それでもなお、いらんだろビギニング。
だって……
だってさ……
それらビギニングの効果を差し引いても、新作本編が素晴らしかっただろ!!!!
いやほんとね、SF的な背景のゴタゴタ、ディテール部分を駆け抜け、宇宙に身を投じる少女のキラキラと泥臭さが入り交じったあの映像が、本当に素晴らしかったからこそ。
逆に、ファーストの神話を引用した作品となったことが、作品評価へのマイナスになってしまうのではないか。
壊れたドラえもんをのび太が修理する「ドラえもん最終回」は素晴らしい物語だけど、やっぱりドラえもんの二次創作だというか。
鶴巻監督の描くあのマチュの物語は、ビギニングがなくてもSFとして傑作と数えられ得るポテンシャルを持っているのに。
ビギニングがついたことで、ファーストガンダム以上に庵野監督の「シン・シリーズ」の顔がチラつく作品になってしまったことが、素直に勿体ないと僕は感じたのです。
ただ……ファーストガンダムを持ってこなくても、神話的な広がりのある背景は描けたんじゃないかなぁ、とは思いつつ、でもあれをやったからこそ神話に昇華出来たのかもなぁ、とも思うので、一概に語れないのはあります。
シン・ゴジラと兄の話
話は飛んでしばらく前。
庵野監督のシン・シリーズの嘴矢となった「シン・ゴジラ」は公開当初から大きな話題を呼び、これまでゴジラを見たことのない人々をも劇場へ呼んでの大ヒットとなりました。
僕なんぞは劇場で見て、あまりのクオリティにエンドロールで涙が出たくらいです。
周囲で、普段特撮なんかとバカにしているような女性なんかも、映画館へ何度も足を運んでどハマりしている様をたくさん見ました。
その年、実家に帰った僕は、かなりコアな映画ファン・特撮ファンである兄に会い、興奮気味にシン・ゴジラのことを語ったのです。
しかし、その兄からは冷たい反応。
曰く、
「ゴジラは進化とかしないんだよ」
と……
この態度は、僕からは「新規ファンにマウントを取る特撮オタクの悪癖」と映り、僕は反論。
「今まで届かなかった人たちにコンテンツが届いた、そのクオリティとコンテンツのパワーは認めるべきだろう」
と。
しかし、兄の回答はにべもなく、
「シン・ゴジラは過去のゴジラシリーズに逆張りし、フリーライドした下品な作品だ。それが一般に受けたからなんだっていうんだ」
というもの。
その時は「おいおい、めちゃくちゃ言ってるなこの人は」などと思っていたのですが。
それが今回、ジークアクスを見たことでその気持ちがわかってしまったのですよね。
「下品な作品だ」とまでは言いませんが、でもこれは不必要にファーストを踏み台にした作品なのではないか。
シン・ゴジラの時にあれを批判していた急進的特撮ファンと見えていた人々は、つまりこういう気持ちで見ていたのではないだろうか。
そのことに気がついたのが、ジークアクスを見たあと、自分の人生にとって結構エポックな「腑に落ち」だったのでした。
誰しも、自分が感動した作品を腐されればいい気持ちはしませんが、その感情の半分は「どうしてこの人はこんなことを言うのだろう」という「わからない怖さ」だと思うのです。
それがひとつ、こんなにはっきりと明確になったのは貴重な体験でした。
なお、兄にその旨話をしたところ、「そうねえ」という回答でした。(ジークアクスは面白かったそうです)
庵野監督とシン・シリーズ
今回、ジークアクスを作り上げたのは鶴巻監督ですが、特にビギニング部分に庵野監督の意向が強く反映しているのは、インタビューなどからも明らかです。
シン・ゴジラは泣くほど感動した僕ですが、正直に言うとその後のシン・シリーズはどうも煮え切らないな……と思っています。
シン・ウルトラマンもシン・仮面ライダーも、やはり詰め込みすぎというか、その駆け足の中でも「これはどうしても入れたかったんだろうな」が見えてしまうというか。
どれも面白かったし、見る側の期待値が上がりすぎていたせいもあるかもしれません。
また、ゴジラと比べて上記2作品はテレビシリーズのため、1本の映画にするのは無理があったものと思うし、そんな中でもツボを全部押さえようとする庵野監督の誠実さが作品に現れていたようにも思います。
アニメで一時代を築き、その後シン・ゴジラで実写でも衝撃を与え、さらにシン・エヴァンゲリオンまで撮りきった庵野監督が、偉大なクリエイターなのは言うまでもありません。
でも、この庵野的な「オタク的誠実さ」(それは恐らく、自分自身への誠実さ)が、「別コンテンツへの並行展開」、「第四の壁を破る反則技」と結びついた時に、「縮小再生産」として帰結する危うさを僕は感じずにはいられないのです。
それこそが、僕がジークアクスを批判する、とする大きな理由なのでした。
あーしかし、本編めっちゃ楽しみだなーーー!!!!