2024.9.26 デッサン
鉛筆が紙の上を走る音が好きだった。
椅子に座り、机の上を片づけ鉛筆を削って、原稿用紙を広げる。指先で鉛筆を回しながら頬杖をついて合図を待つ。ざわついていた頭が静かになり言葉がこちらを向いたとき、鉛筆を握りなおし机に向かう。鉛筆はゆっくりと文字を描き始め、次第にスピードを上げてマス目を埋めていく。ぶつぶつと呟きながら原稿用紙を数枚書いたところで手が止まった。頭を上げて背筋を伸ばす。息を吐き、鉛筆を置いてこわばった指を曲げたり伸ばしたりする。右手中指の第一関節にできた鉛筆の跡を親指でなぞる。そのまま手のひらを反すと右手小指側の側面が鉛筆で黒く光っていた。左手で黒くなった部分をこするが落ちる気配はなかった。再び鉛筆を持つ。原稿用紙に視線を落とし、また書き始める。
小さなころから国語の文章問題が何を指しているのか、作者の意図と先生の意図を組合わせて答えを書くのは得意だった。算数のように決められた答えではなく、回答の仕方に自由のある国語が好きだった。作文は見聞きしたものを思いつきで組合わせ大人が喜びそうなことを書いた。自分で考えたことは何も書いていないので、あっという間に書けてしまう。小学一年生の時、先生に「あなたが本当にこの時間に書いたのか」と何度も確認されたことを覚えている。そのたびに授業内容やテレビの話を引用したことがばれて怒られるのではないかと、汗で湿った手のひらをスカートで拭った。高学年になるころには、時間をかけて書くふりをした。テレビや新聞で見聞きしたことを引用する場合は内容をごまかして書いた。原稿用紙には文字よりも裏に絵を描くようになった。
末っ子が生まれてからブログを書き始めた。自分の想いや考えを綴るのは楽しかった。なるべく自分に嘘のない言葉を選ぶように気をつけた。そこでもわたしは借り物の知識を自分ごとのように書いていた。もはや自分の意見なのか、どこかで見聞きしたものなのか線引きがわからなかった。
その後、文章講座に通い、自分の体験や思い出を書くことですっきりとしている自分を見つけた。相変わらず書いたものはどこかで読んだような感じだったが、自分の感覚にしっくりくる言葉を選べるようになっていた。講座の宿題が十作を超えたあたりから、自分の感情をぶつけた文章が濡れた衣類のように身体に張り付いているのが気持ち悪くなってきた。書きたいネタはあるのに思うように書けずもどかしさが積みあがる。うまく書くことよりも出来事の外側を丁寧に書くことに意識が向かうようになった。文章を書くことはデッサンに似ていることに気がついた。
学生時代のように原稿用紙と向き合うことはなくなった。だが今でもキーボードを叩き、時折頬杖をつきながら画面上の白い用紙を埋める。書かれた文字はわたしという生き物を如実に現しているような気がしている。