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2024.5.1 古くなった話

 天気の良い春の午後、お気に入りのカフェで10日違いの誕生日を持つ友人がコーヒーカップを片手に言った。
「旦那が言うにはな、私たちはもう年齢的に古いから父母会とかPTAとかからは一旦引いたほうがええんやて」
「それはあるかも」とプリンを口に運びながら妙に納得してしまった。
 この春、末っ子が小学校へ入学した。11年前、長女の時には全く気にならなかったが、入学式に参列するする保護者は自分よりかなり年下に見えた。参観や公園で会うお母さんたちは皆若く綺麗で不安を口にくる姿すら好感が持てた。ひと回り以上下の世代となると、昭和生まれの自分とは子どもと向き合うスタンスが違うような気がした。そんなことを感じていただけに「自分たちは古い」という言葉は弾かれることなく、すんなりと自分の中に染み込んだ気がしたのだ。

 カフェの帰り道、自転車を漕ぎながら、女が古いと書いたら姑という漢字になるなとか、どうでもいいことを考えつつ国道の橋へ繋がる坂道を昇る。ぜえぜえと息を切らして自転車を漕ぐ自分が年若いつもりは一欠片も持ち合わせていないが、高校生の長男長女に何かにつけて「おばさん感w」と鼻で笑われると、薄いベールのようななんとも言えないもやが残る。子育てに追われている間に、元々疎かった流行りやドラマにはついて行く気すらなくなった。ただひたすら毎日家事や仕事をこなしている間に年齢が積み重なり、時と共に時代や潮流と自分の間にある溝が深まった感じがする。風に誘われて川へ目を向けると橋の下を流れる川面がキラキラと光っていた。

 20代は時代に合わせようと必死にもがき、30代は自分が何者であるのかを探し続けた。人生が子育てに食い尽くされる前に名のある誰かになりたくて、成せば成ると努力を重ねた。何者にもなれない自分を認めはじめたのは40代前半で、後半にさしかかる頃には子どももパートナーも、自分の身体ひとつ思い通りには動かなくなり、現実を受け止めることでしか前に進めないと気がついた。過去に戻るわけでもなく、未来に夢を託すのでもなく、どれだけ不自由であろうとも、今できることを丁寧にこなす。今をご機嫌に過ごすための努力と選択が、古くなってきた自分たちの価値観の中で、次の世代に繋がるひとひらの欠片となればと思いながら、橋を下り信号を渡って家路につく。

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