2024.7.4「我、これ何者ぞ」
禅の公案(修行中に個人で取り組む禅問答のようなもの)は最終的に全ては「我、これ何者ぞ」とに辿り着くらしい。一休宗純、あの一休さんの言葉だ。
一方で禅には哲学的思考が必要なのだと聞いた。なるほどとふたつの言葉が記憶と繋がりはじめる。
自分は小学生の時から「なんのために生まれ、ここに存在しているのか」と考えていたように思う。「我、これ何者ぞ」である。禅問答は聞くのも読むのも好きだった。なにがどこが好きなのかわからないが、「ある」「ない」の向こうに答えがあるような気がしていた。あと一歩で、もう少し分かりそうなのに、わからないもどかしさがあった。そんなもどかしさの中で思春期を過ごした。
「我、これ何者ぞ」
気がつけば30代も終わろうとしていた頃、忘れかけた問いがやってきた。子育てと生活に追われ、自分自身を蔑ろにし、その苦しさの原因を旦那氏や子どもたちに求めていた。"本当の自分に出会う"という耳障りのいい言葉にふらふらと耳を傾けて自分探しが始まった。
無理が祟ったのか精神が崩壊しかけて仕事を辞め、興味のある方向へ、全てを忘れて集中できることを手探りでやり続ける中で、禅寺にご縁をいただき壁に向かって坐る事を覚えた。お寺で壁に向かって坐を組む。静かに老師が話し始める。「禅とは本来の自分に出会うことなのです」
デカルトの言葉に「我、思う故に我あり」というものがある。我とは自分とは何か。ずっとこの問いを手放せずに生きてきた。今の自分とは違う場所に本当の、本来の自分があるような気がしていた。今は我とか自分という言葉に縛られなくていいのではないかと思う。我、思うから我があると錯覚する。自分は自分はと自己を全面に押し出すようなビジネスや個性化なんてクソ喰らえである。自分という存在が生きている。それは自と他を分ける自分では無く、全ての存在と同じ、ただ存在している命のひとつだと思えたことが、深い安らぎをもたらしてくれる。
「我、これ何者ぞ」
わたしは今日も問いと共に坐る。