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#1982 主体性にはグラデーションがある
私は以前、以下の過去記事で「学校で育むべき主体性」について論じた。
「主体性」と「自主性」は、似て非なる言葉であり、どちらかというと学校教育では、後者の方がしっくりくる旨も述べた。
「主体性」を全面的に重視してしまうと、それは個人の「わがまま」を許容してしまうことになる。
しかし、「学校」だけではなく、私たちが生きるこの「社会」には、無数の制約・ルールが存在する。
もちろん、そこには「他者」が存在するからである。
このような「縛り」がある中で、「わがまま」を押し通すことなく、「適度な主体性」を発揮していくことが求められる。
そこで、必要になる概念が「エージェンシー」である。※過去記事参照
これは、OECDが提唱する概念であり、「目的や方向性を共有し、学びに直接的・間接的に関わる全ての他者との関わり合いの中で、責任ある意思決定や行動を決めること」を意味する。
まさに、私たちが志向する「主体性」に近い概念であると言える。
この「他者との関わり合い」という前提が重要なのである。
「他者の存在」や「既存のルール」などを無視し、自分のやりたいことを強行する姿勢とは違うのである。
よって、学校教育においては、「教師」という存在を前提としなければならないのだ。
教師側が「学習指導要領」を握り、カリキュラムを決定する。
その範囲内において、子どもたちは「主体性」「エージェンシー」を伸ばしていく必要があるのだ。
カリキュラムから逸脱する「わがまま」は、「エージェンシー」とは違い、学校で育むべき「主体性」ではないのだ。
ここで、「教師」という存在を前提とした「エージェンシー」「主体性」を考える上で、参考になる資料を貼る。
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これは、ロジャー・ハートが提唱した「梯子モデル」である。
教師との関係性のレベルにおいて、主体的に参加するレベルも変わっていくことを表している。
「梯子モデル」の下位の方は、教師の介入度が強く、子どもたちの参加レベルが低いことを示している。
この段階では、子どもの「主体性レベル」は低いと言える。
これがだんだんと上位の方に行くと、教師の介入度が弱くなり、子どもたちの参加レベルが高くなっていく。
それに伴い、子どもの「主体性レベル」も高くなる。
このように、「主体性」のレベルには段階があり、グラデーションが存在するのである。
必要なのは、子どもたちの実態を踏まえ、教師の介入度のレベルを調節していくことである。
子どもたちの能力が未熟なうちは、「梯子モデル」の下位のように、教師の介入度を強くする。
そして、子どもたちが成長してきたときには、「梯子モデル」の上位のように、教師の介入度を弱くする。
このように、徐々に「主体性レベル」を高めていけばよいのだ。
「学校で育むべき主体性」を語るときには、「教師」「学習指導要領」「カリキュラム」という存在を前提にし、「梯子モデル」を参考にしていくようにしたい。