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#1979 一単位時間で勝負しない
1単位時間における授業のゴールを「全員が学習内容を理解する」と設定するのは、無理があるのではないだろうか。
「学習内容」という知識は、人から人へスムーズに伝達できるわけではない。
教師がいくら「A」という内容を懇切丁寧に説明しても、「A」とそのまま受け止める子供もいれば、「B」と誤って受け取ってしまう子供もいるし、「A」に若干届かない「A’」で止まる子供もいるし、何も学ばない子供だっている。
これは、「構成主義」という原理であり、「知識」は他者の手によりそのままインストールされるわけではなく、個人の内部で個性的に構成されるのである。
だとしたら、昔から「授業づくり」で重要視されてきた、「学習内容の全員理解」は不可能に近いと言える。
それを教師が100%確認することもできないのだ。
だとしたら、教師にできることは、「1単位時間内での全員理解」を諦め、「単元時間内での個に応じた理解」を目指すことである。
「1単位時間」という最短のスケールではなく、「単元時間」という比較的長いスケールにする。
その中で、一人一人の子供たちの理解を保障していくのだ。
よって、単元の学習時間が全て終了するまで、学習内容理解についての猶予を残しておくのである。
そうではなく、「1単位時間勝負」にしてしまうと、教師主導で無理やり「子供たち全員をゴールに連れていこう」という発想になってしまう。
そうなると、「理解が早い子供」は山頂で「足踏み」をすることになる。
また、「理解が遅い子供」は「足手まとい」になってしまい、理解できないと「ドロップアウト」となる。
これが、「教師主導の一斉授業の闇」なのだ。
一方、「単元」という長いスパンで授業を構成し、子供たちに「学習のコントロール権」を渡せば、様相が異なってくる。
「理解の早い子供」は山頂に着いても、別のルートを探索したり、別の山に登ったりすることができる。
つまり、山頂に着いて「足踏み」をする必要がなくなるのだ。
また、「理解の遅い子供」は余裕のある子供や教師の助けによって、自分のペースで山を登ることができる。
登頂の期限が短いと、理解の遅い子供は「足手まとい」となるが、登頂の期限が長く、自由度があれば、そのような子供も他者の助けを得ながら登っていくことができるのだ。
よって、やはり「1単位時間内に全員を理解させる」という思考はよくないのである。
重視すべきは、「単元時間内での個に応じた理解」を目指すことなのだ。
最後に、今回の記事は、以下の過去記事に関連するので、合わせて紹介しておく。