
#1418 疑似概念に騙されるな~概念を評価する教師の専門性~
人間は、知識を他者からそのまま受け取ることはできない。
知識は個人の中で個性的に構成される。
これを構成主義と呼ぶ。
人間は他者から情報を得ることはできるが、その人の内部に元々ある生活的概念が科学的概念にほんの少し近づくだけである。
このように、科学的概念になりきれない中途半端な状態を「疑似概念」と呼ぶ。
教師は子どもに、ある特定の知識(情報)を言葉を使って伝達する。
そして子どもは、その知識(情報)を言葉を使って再話する。
しかし、子どもが教師の教えた通りの言葉を使ったとしても、それは「疑似概念」である可能性が高い。
つまり、本当にその知識を概念的に理解しているとは言えないのである。
それにもかかわらず、子どもが自分の教えた通りの言葉を使うと、「概念を理解した」と勘違いしてしまう。
これは仕方のないことである。
子どもの側はなにも悪くないのだ。
ただ、自分の知った情報をそのまま言葉で表現しただけである。
そこに概念的理解があるとは言えないし、科学的概念になりきれていない可能性が高いのだ。
悪いのは、そのような子どもの表現を「概念を理解した」と誤解する教師の側である。
教師は、そのような子どもの「疑似概念」をわかってあげなければいけない。
そして、「疑似概念」を科学的概念と同一視してはいけないのである。
ではどうすれば、「この子どもは概念を理解した」と判断できるのか?
残念ながら、それを100%可能にする方法は存在しない。
概念というものは個人の中にある「小宇宙」なので、言葉の記述でそれを測るには限界があるのだ。
したがって、それを評価する教師の側にも教養・専門性が必要であり、その程度により評価の読み取り方に差が出てしまうのである。
つまり、専門性の高い教師は子どもの概念の程度をほぼ評価することができるが、専門性の低い教師には不可能ということができる。
授業をコンテンツベースで考えている教師は、子どもに一問一答の問題を出す。
そして、子どもの出す答えにより、「理解している」と勘違いする。
これが専門性の低い教師である。
一方、概念型の教師は、授業をコンセプトベースで考えている。
なので、子どもに「納得解を導いてもらう問い」や「説明を求める問い」を出す。
いわゆる「パフォーマンス課題」である。
このような問題に対する答えを総合的に判断し、「理解している可能性が高い」と判断するのである。
これが専門性の高い教師である。
しかし、重要なことは「可能性が高い」としか言えないことだ。
概念的な知識は、個人の内部で個性的に構成される。
その中身を、他者が全て把握することはできない。
さらにその中身を、本人が全て記述しきることもできない。
よって、個人が「概念を100%理解した」とは絶対に言えないのである。
把握できるのは「概念的理解の程度」のみである。
これからは、構成主義に基づくコンセプトベースの授業が重要な時代となる。
そのような授業では、子どもの「疑似概念」を把握し、科学的概念にいかに近づけていくかが求められる。
そして、納得解を説明するような「パフォーマンス課題」が必要になってくるだろう。
子どもの表面的な言葉だけを追って、「この子は理解している」と勘違いしないようにしていきたい。
では。