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#1974 「自治的な集団」は何のため?
学級経営で目指すべき「理想の集団」の姿として、「自治的な集団」と呼ばれるものがある。
教師があれこれ指示や提案をしなくても、子供たち自身が「望ましい行動」を考え実行したり、学級が明るく楽しくなるような「イベント」を発案・実践したりする。
このような集団の姿を「自治的な集団」と呼ぶことができるだろう。
しかし、私たち教師は、このような集団をなぜ目指すのだろうか?
学級経営における、ある種の「ゴール」の形として、以前から「自治的な集団」が目指されているが、一体何のためなのだろうか?
今回は、これを言語化してみたい。
考えられる方向性として、2パターン紹介する。
1つ目のパターンは、「教師のため」という方向性である。
「自治的な集団」をつくることで、教師側がメリットを得る場合だ。
では、どのようなメリットが考えられるだろうか。
1 教師の手がかからず、楽になる
「自治的な集団」ができれば、教師があれこれ指示や提案をする必要がなくなる。
正直、「放任」しても、学級がうまく回る状態である。
こうなってしまうと、「自治的な集団」は「教師が楽をするため」の手段になってしまう。
私は数年前まで、某教職大学院に通っていたが、ある授業の時間に、自治的な集団を「教師が楽をするための道具」に使っている現職院生を目の当たりにした。
その現職院生は、教育論文で賞を得るような優秀な教師であり、著書も執筆している人物である。
しかしその現職院生は、「自治的な集団」ができあがったら、あとは子供たちに活動を任せ、「内職」として論文を書いていたそうである。
私はそのとき耳を疑った。
「自治的な集団をつくって、暇な時間に論文を書く」教師が現に存在するわけである。
それが放課後の時間ならよいのだが、「授業中」に行っているのだ。
完全に、「自治的な集団」は、「教師が論文を書くための道具」にされているのである。
そうして、論文で賞をとり、著書も執筆しているわけだ。
教師の自己肯定感を高めるための「道具」にされる子供たちが、本当に可哀想である。
かなり横道に逸れてしまったが、「教師が楽になる」ために自治的な集団をつくっているわけではないはずだ。
学級にトラブルがなければ、教師は心が安定し、退勤も早くなる。
仕事が楽になれば、ストレスをためることもない。
しかし、「自治的な集団」は「教師が楽をするための道具」ではないはずだ。
そんな本末転倒な事態になってはいけないのである。
2 周りに対して、自己の指導力を誇ることができる
「自治的な集団」は、教師であれば一度は夢見た「理想の学級の姿」である。
そんな学級づくりをする教師を、私も尊敬するだろう。
なので、自分が「自治的な集団」をつくることができれば、それは周りに誇りたい気持ちにもなるわけだ。
とかく、「教師」という職業は、「いかに子供集団をまとめられるか」で評価をされがちだ。
「自治的な集団」をつくることができる教師は、周りから一目置かれ、その「指導力」を尊敬・評価されるだろう。
周りの教師たちも、保護者たちも、そんな教師の指導力を「優れている」と思い、高い評価を下す。
なので、「自治的な集団」をつくることができれば、教師は自己肯定感を高めることができるのだ。
しかし、この場合も、子供たちは「教師の自己肯定感を高めるための道具」にされている。
このような事態も避けなければならないはずだ。
2つ目のパターンが、「子供たちのため」という方向性である
「自治的な集団」をつくることで、子供側がメリットを得る場合だ。
こちらも同様に、そのメリットを考えてみる。
3 「受け身」の状態から抜け出し、協働的問題解決能力を向上させることができる
「自治的な集団」では、教師からの指示や提案はほぼいらなくなる。
そのため、子供たちは「受け身」状態ではなくなり、自分たちで問題を解決することができるようになる。
必要に応じて、「学級会」や「クラス会議」を行うことで、学級における問題を自分たちの「対話」「話し合い」で解決することができる。
これにより、協働的問題解決能力を向上させることができる。
4 民主主義の意義を体験することができる
「自治的な集団」では、上記で述べたような「学級会」や「クラス会議」がうまく機能する。
教師からの一方的な指示はない。
つまり、「教師」という絶対的な立場による「専制政治」は行われない。
子供たちが「対話」「話し合い」をして、「合意形成」を図っていくことができる。
これは、「民主主義」の原理を体現しているということだ。
「自治的な集団」を機能させるということは、子供たちに「民主主義」の原理を体験させ、それを学ばせるということなのだ。
5 自治的・自発的なイベントを発案・実践することで、様々な経験や思い出ができる
「自治的な集団」では、自分たちの学級を明るく楽しいものにするため、様々なイベントが発案・実践される。
このようなイベントをたくさん経験することで、失敗を乗りこえ、かけがえのない「思い出」を共有することができる。
子供たちが大人になったときに、「小学校時代、あのクラスであんなイベントをした」と思い出すことができるのだ。
6 「主体的・対話的で深い学び」がよりよく機能するようになる
「自治的な集団」の状態では、子供同士の対話の質がより高くなる。
それは、子供同士の「関係性」が良好だからである。
そのような状態の学級では、授業中に活発な対話がされるので、「主体的・対話的で深い学び」がより機能するようになる。
よって、結果的に「学力」も向上するのである。
逆に、「自治的でない集団」による授業では、子供たち同士の対話が不成立となる。
そのため、「主体的・対話的で深い学び」は実現せず、子供たちの学力は向上しないのである。
以上、「自治的な集団」をつくる目的について整理した。
「自治的な集団」づくりは、その実現がかなり難しい。
しかし、そのような理想の姿に近づくことができれば、教師側にも子供側にもメリットが生じる。
その中でも、「教師が楽できる」「教師が周りに指導力を誇れる」という教師側のメリットには、ついつい目がいきがちだ。
だが、それでもなお、子供側のメリットに目を向け、その目的のために挑戦したいものである。
「自治的な集団」をつくることで、子供たちの「協働的問題解決能力」を育て、「民主主義」を学ばせ、「思い出づくり」を促進、「学力」を向上させることができる。
そのような子供側のメリットは、目に見えず、実感が伴わないだろう。(テストの点数以外)
しかし、「目に見えない大切なもの」をいつまでも追いかけることが、「教師の仕事」なのである。
と、今までの「意識高い系?」の私であれば、ここで記事は終わっていた。
しかし、最近は、開き直るようにしている。
つまり、「自治的な集団」をつくっても、「平凡な学級集団」でも、「そんなに変わらないのではないか?」ということである。
教師が「担任」として、学級集団のリーダーになれる期間は、持ち上がりの場合を除き、せいぜい「一年間」である。
その一年間で「自治的な集団」をつくっても、「平凡な学級集団」でも、次年度になればリセットされるわけだ。
だとしたら、「自治的な集団」をつくることは「教師の自己満足」で終わってしまうのではないだろうか。
ましてや、多様な実態が入り混じった子供集団を統率し、「自治的な集団」を毎年どの学級でもつくっていくことは不可能に近いと言える。
子供たちが成長し、大人になれば、親からの「遺伝」の影響を多分に受け、それなりの社会人になっていく。
「自治的な集団」で育ったからといって、それが影響し、将来において「能力格差」が生まれるわけではないのだ。
だとしたら、開き直って、子供たちを一年間「まともに」教育していくことが大切になるだろう。
「自治的な集団」という高い理想を追い求めるのではなく、必要最低限の学級経営をし、一年間やり抜くのである。
言い換えれば、「学級崩壊」をさせないということだ。
「学級崩壊」をしてしまえば、日常の「授業」が成立しなくなる。
それでは、子供たちが不幸になり、教師のメンタルも病むだろう。
教師が精神的に病んでは本末転倒になってしまう。
そうならないように、教師のメンタル面にも配慮しながら、子供たちと「平凡な日常」を共有していく。
教師は子供たちと共に、同じ空間で過ごす。
それでいいのではないだろうか。
「自治的な集団」をつくることに越したことはない。
しかし、その恩恵は微量なものであり、実現したとしてもリセットされる可能性がある。
やはり、教師として大切なことは、「学級崩壊」をさせず、一年間、子供たちと生活を共有していくことなのだ。
それが教師の「本分」なのではないだろうか。