#1964 能力主義を乗り越える
勅使河原真衣氏の書籍『これくらいできないと困るのはきみだよ?』を読んだ。
学校に蔓延る能力主義のあれこれが書かれており、たいへん興味深かった。
今回は、この書籍の中からいくつかのテーマをピックアップし、大切なことをまとめていきたい。
個人の能力を高めようとせず、周囲との関係性を解きほぐす
「問題児」や「特別支援児」は、個人の能力の問題にされることが多い。
しかし、それでは何の解決もしない。
「対友達」「対保護者」「対教師」などの「関係性」に焦点を当てて、アプローチしていくことが重要となる。
合理的配慮と個別的支援は別物
「合理的配慮」と「個別的支援」は似て非なるものである。
前者は、「障害の社会モデル」に則り、障壁を解消するなどの「環境調整」に主眼が置かれる。
一方の後者は、「障害の医学モデル」に則り、子ども個人へのアセスメント・介入が行われる。
教師の指導力=学級をまとめる力・怖い教師
「教師の指導力」は、いかに学級を規律正しくまとめ上げるかを問われている部分が多い。
そのようなプレッシャーからか、教師は「怖い先生」を演じ、子どもたちをコントロールしようとする。
そして、学級をまとめ上げれば、周りから「あの先生の指導力は高い」と評される。
しかし、そのような指導力の指標は存在しないのだ。
組織のあり方は「個人の能力」ではなく、「マッチング」で変わる
「職員集団」という組織は、教師個々の能力で決まるのではない。
「指導力」や「リーダーシップ」などというものは、簡単に測ることはできない。
「問題の個人化」をしても、学校に山積する問題を解決することはできないのだ。
重要なことは、人がもつ「機能」の組み合わせ、つまり「マッチング」である。
よって、重視すべきは「人材開発」「能力開発」ではなく、「組織開発」である。
教師同士が実践や悩み、本音などを交流・対話できるような構造づくりをしていくことが肝となる。
教師同士の「凹凸として機能」を組み合わせて、成果を上げていくのだ。
同質性が高い学級で「協働的な学び」は不可能である
教師は子どもたちに、「あれはダメ」「こうしなさい」と教師の意のままにコントロールして、学級集団の同質性を高める。
しかし、そのような同質性が高い学級で、「協働的な学び」というものは実現できない。
なぜなら「協働的な学び」とは、異質な他者と対話・交流することにより、納得解を導いていくプロセスであるからだ。
なので、異質性を尊重する学級でしか、「協働的な学び」は実現できないのである。
教職こそ、AIに代替されない専門職である
「教師」「ソーシャルワーカー」「看護師」は準専門職と言われ、「医師」や「弁護士」などが専門職と言われる。
しかし、AIの発展により、医師や弁護士の仕事が代替されつつある。
逆に、教職などの準専門職こそが、AIに代替されない貴重な職業になりつつある。
なぜなら、このような「ケア」に関わる仕事をAIは行えないからだ。
「子どもと一緒にいる」という教師の仕事の本質が、再注目されているのだ。
「分からない」を大切にする
学校教育の現場は、「言語優位」な子どもが有利な場となっている。
うまく自分の言葉で意見をまとめる子どもが「優秀」と見なされる。
しかし、「分からない」「言葉にできない」という状態も許容されるべきである。
「不確実性への耐性」をつけることが肝要だ。
「分かること」はAIに任せ、「分からないこと」を共に考え合うことが重要となる。
これは「職員会議」にも当てはまる。
職位会議では、言語優位で、自分の意見を流暢に話せる人が幅を利かせている。
ペラペラ話せなくても、自分の意見を何らかの形で表出できる環境が必要なのである。
学校は「成果」が見えにくいから変革が難しい
民間企業には「利益」という成果が見えやすい。
一方、公立の学校には成果が見えにくい部分がある。
そのため、変革の必要がなく、前年踏襲となることが多い。
高いリーダーシップをもつリーダーの能力に依存するのではなく、教師集団の協働で組織を変革していくことが求められる。
「WILL」「CAN」「MUST」の視点で、互いの意見を交流し合う機会が必要となるのだ。
非難と批判は違う
大人は「道徳」を大切にするので、他者の意見を「非難」してはいけないと思い込んでいる。
しかし、そのような姿勢では、本音を交流し合うことなどできない。
大切なことは「倫理」であり、おかしいと思うことを本音で主張する「批判」をしていくのである。
「心理的安全性」の文脈に「目標達成」を求め過ぎない
「心理的安全性」の原理には、「目標達成のハードルを下げない」というものがある。
しかし、「目標達成」という能力主義の要素を入れてしまうと、本音を交流し合うことができなくなる。
「何でも言い合える環境」こそ、対話しやすい職場となるのだ。
能力主義が人を傷つける理由
能力主義は、人の能力を「断定」し、「他者比較」を後押しし、人々を「序列化」する。
だからこそ、原理的に人を傷つけることとなる。
評価せず、観察・傾聴する
人と対話するときは、評価・査定・コメントをしない。
相手を承認し、ただ傾聴すればよい。
その際、五感レベルで観察することも重要だ。
「次はこうなるだろう」と予測せず、ただ観察すればよい。
そして、観察で得た気づきを相手に伝えるのである。
フィードバックは「相互変容」である
相手に指示・命令するということは、相手だけの変容を望んでいる。
しかし、フィードバックというものは、「応答性」が存在するため、「相互変容」を重視する。
「あの人は〇〇だ」と静的な評価をするのではなく、動的なフィードバックをすることが重要となる。
管理的に指示・命令することを「公的秩序」、相互変容を重視して対話・フィードバックを行うことを「土着秩序」と呼ぶ。
子どもの「土着性」を取り戻すことで、自治的な学級になっていくのだ。
指導することにより、何を得て、何を失っているのか
教師は指導をする前に、その指導をすることで「何を得ているのか」「何を失っているのか」を考える必要がある。
もしかして、その指導は、「教師の権威を守るため」なのかもしれない。
もしかして、その指導により、「子どもの主体性を奪っている」かもしれない。
「正しさ」や「常識」の裏には、「苦しさ」がある場合が多い。
場合によっては、別の指導の選択肢を考える必要もあるだろう。
「得るもの」と「失うもの」を見極めながら、指導していくことが重要だ。
他人が強制したことに「全力」は出せない
学校では、何かと子どもたちに活動を強制する。
しかしその活動は、教師から「強制されるもの」である。
他人が強制したことに、人は「全力」など出せない。
それにもかかわらず、教師は常に子どもへ「全力」を求める。
子どもは自らが自発的・主体的に発案した活動でこそ、全力を発揮するのである。
非認知能力というおかしな能力
近年、テスト学力ではない「非認知能力」が重視されている。
しかし、そのような能力が重視されたとしても、「目上の者が子どもの能力を評価する」という構図は変わっていない。
非認知能力だって、学術的な理論では評価可能なのだ。
相変わらずの「能力主義」なのである。
そのような能力で子どもたちを序列化しても、これまでと何ら変わらないのである。
言語化ハラスメントに注意する
教師は子どもに「なぜ」「どうして」と説明を求める。
しかし、それに応えることができるのは「言語優位」の子どもだけである。
「言語化ハラスメント」に注意することが肝要だ。
「言葉にできない声」に耳に傾け、子どもが抱える背景に思いを馳せることが求められるのだ。
能力は「優劣」、スキルは「機能」である
「能力」はヒエラルキーの一部となり、「優劣」を生み出す。
しかし、「スキル」は今・未来の自分に必要だから、身に付けるものである。
つまり、「スキル」とは「機能」のことである。
この世の中は、個々の能力ではなく、個々の様々な機能の組み合わせ(分業)で成り立っているのである。
表面を揃えるのではなく、内面の安心感を揃える
教師はよく表面を揃えたがる。
子ども集団が綺麗に整然と揃っていると安心し、「指導力が高い」と言われる。
しかし、教師の圧により、表面を揃えたとしても、子どもの中には「なんで」「おかしい」「こんなのやだ」と思っている子が存在する。
それでは、「安心感」が全く揃っていない。
大切なのは、「内面の安心感」を揃えることだ。
綺麗に取り繕って、表面を無理に揃えようとしないことが求められるのだ。
教師がコントロールされているから、子どもをコントロールしようとする
教師は「ちゃんとしたクラスをつくりなさい」「学力を上げなさい」「問題を起こすな」と上から、世間からコントロールされている。
だからこそ、その圧に飲まれ、部下である子どもたちをコントロールしようとする。
上から、世間からの圧がなくなれば、「子どもと一緒にいる」という教師の本来の役割を果たすことができるのだ。
働き方改革の本丸は「働きがい」である
働き方改革により、何でもかんでもスクラップされている現状がある。
そのため、「組織開発」のための会議自体も短縮される始末である。
それでは、本末転倒となる。
教師の本丸は、「魅力的な授業をすること」「子どもたちと対話をすること」のはずだ。
それらを実現するためには、「組織開発」に向けた教師同士の対話は欠かせない。
「物事を決める会議」は働き方改革で短縮したっていい。
しかし、「教師同士の違いを認め合う会議」「組織開発のための会議」は時間を十分に使う必要がある。
それにより、教師の本丸を充実させていくことができる。
以上が、書籍から学んだことのまとめだ。
学校教育には、昔から「能力主義」が蔓延っている。
子どもたちを「学力」で序列化し、教師の思いのままにコントロールしようとしている。
こんな体制が変わることなく続けられ、今では「不登校児童生徒」が最多を更新する始末である。
学校における「能力主義」の闇を断ち切るのは、スーパー教師個人の「能力」ではない。
教師たちの「協働」「対話」が欠かせない。
一人一人の教師が「能力主義」を手放し、子どもの個性を尊重することが求められるのだ。