#1888 新自由主義の闇
今回は、髙田一宏氏の『新自由主義と教育改革』から得た学びを整理する。
新自由主義とは
新自由主義とは、教育に「市場原理」を取り入れ、子どもや保護者(消費者)による教育(商品)の選択を促し、教師や学校(サービス提供者)同士の競争を促すことによって、できるだけ安上がりに教育の質を向上させようとする考え方である。
その新自由主義における教育改革の典型例が、「全国学力・学習状況調査」である。
このような全国規模の学力調査の結果を公表することで、自治体や学校同士の競争を促そうとしているのだ。
学力調査の弊害
学力調査の表向きの目的は、子どもたちの学力や学習状況の現状を把握し、学校現場の成果と課題を明らかにし、指導改善に生かすことである。
しかし筆者は、自治体や学校の取組の成果と課題を明らかにするのであれば、調査の詳細を現場の裁量に委ねるべきである、と主張する。
自治体や学校が独自で創意工夫をこらしているのだから、その取組の成否をその自治体・学校が測定・評価すべきなのである。
けれでも現実はそうではなく、全国一律の調査方法を用いている。
現場では当然、「とりあえず良い結果を残す」ことだけが志向される。
そして、良い結果を残すことだけを目的とした自治体・学校では、良い結果をおさめるために普段の教育活動を不自然に変えようとする者が現れる。
法令や政策に従うことばかりが強調されると、既存の法令や政策が想定しない事態への対応は難しくなる。
つまり、このようなトップダウンの政策を強行すれば、それはめぐりめぐって教育現場から創意工夫の意欲を奪い、教育の質を低下させてしまうのである。
これでは、本末転倒なのだ。
「何事も教師次第」という幻想
新自由主義における教育改革では、「教師の質」が絶対的な価値をもつ。
質の低い教師は淘汰され、質の高い教師だけが重宝されるようになる。
しかし、「何事も教師次第」という考え方は空理空論だと、筆者は述べる。
学校や教師は「万能」ではない。
学校や教師に全てを丸投げすべきではない。
「教育行政が学校を支える必要がある」と筆者は説く。
学校教育の可能性
そもそも「学校教育」の力には限界がある。
「生まれ」や「経済的地位」など、学校教育ではどうしようもない要因が、子どもたちの学力に影響を及ぼすのである。
別の言い方をすれば、「メリトクラシー」ではなく、「ペアレントクラシー」こそが社会の現実なのだ。
しかし、経済的に厳しい「しんどい子」の学力を下支えしているのは、互いの良さを認め合えるような「人間関係」「信頼関係」なのである。
つまり、「学級経営の充実」なのだ。
勉強がわからない子を下に見たりしない子どもたちの関係が必要である。
「わからない」と素直に言える教室環境が必要である。
問題行動をする子どもにも、人間としての価値があり、その良さを教師が見抜き、子どもたちが自他の良さに気づける雰囲気が必要である。
このような「学級経営の充実」こそが、「しんどい子」の学力を支えると筆者は指摘する。
競争的な環境では、「できる・できない」という差異により、子どもたちの心理的なつながりが断絶されてしまうのだ。
また、競争的な学習指導の方法をとると、知らず知らずのうちに子どもの社会観や人間観にマイナスの影響を与えると言う。
競争的な学習をしていれば、競争的な人間関係しか形成できなくなり、協同的な学習をすれば、協同的な人間関係を形成していくことができるのだ。
公正よりも卓越性を優先させることの問題
新自由主義では、「公正」よりも「卓越性」が重視される。
学力調査の結果を公表すれば、どの自治体が卓越しているか一目瞭然となる。
しかし、公教育において、人間が人間らしく生きていく上で必要不可欠なものは「基礎教育」であると筆者は述べる。
その大前提を揺るがされると、教育機会の格差が広がったり、社会的排除が進んだりしてしまう。
なので、優先すべきは「卓越性」ではなく、「公正」であると説く。
「公正あっての卓越性」なのだ。
「公正なき卓越性」は、一部の「勝ち組」にしか利益をもたらさないのである。
不登校特例校の問題
現在、不登校児童・生徒を受け皿とすべく「不登校特例校(学びの多様化学校)」が増設されている。
しかし、このような傾向にも問題があると筆者は述べる。
なぜなら、「普通」の学校に馴染めない子どもを「特別」の学校に振り分ければ、その「普通」の学校の中にある多様性が失われてしまうからだ。
「特別」とされる存在の子どもがどんどん流出することで、許容される「普通」の幅が狭くなり、子どもたちの学校生活は窮屈になっていく。
重要なのは、振り分けをすることではなく、その「普通」の学校のあり方を根本から問い直すことなのである。
教育改革の問題点
新自由主義における教育改革は、「上から/外から」の制度改編を強行した。
しかし、国や自治体がトップダウンで改革を進めても、その地域の子どもの生活や意識、歴史や住民の構成、学校のそれまでの取組を無視することになり、思ったような効果は上がらないのである。
教育改革というのは、「上から/外から」の制度改編と「下から/内から」の実践のからみ合いの中で生まれると、筆者は説く。
つまり、トップダウンの動きが、ボトムアップの動きを圧倒するような改革は成功するはずがないのである。
必要なのは「応答性」
教師は子どものその時々の状況やニーズに応じて実践を組み立てる。
そして、子どもからのフィードバックが、次の実践に影響を与える。
教育の過程には、教師が子どもに応えようとする行為が埋め込まれているのだ。
このような教師と子どもの関係を、筆者は「応答性」と表現している。
そんな中、今の学校現場では、「応答性」は危機に瀕している。
経済的な観点から教育の価値を捉え、ペーパーテストで測定される学力だけを重視し、容易には測定できない価値や子どもの個性を見取ることができなくなっている。
教育成果の測定には、「規範的妥当性」と「技術的妥当性」の2種類があるが、現在、後者ばかりがフォーカスされている。
「技術的妥当性」ばかりが重視され、単に測りやすいものを測っているだけなのに、測っているものに価値があると思い込んだり、測れないものの価値に目が向きにくくなったりしている。
目の前の子どもたちは、ペーパーテストの学力だけで「自分という人間」を評価してもらいたいわけではない。
子どもに「応答」するためには、測りやすい学力だけを重視するのではなく、その子どもの「個性」という価値にも目を向けなければいけないのだ。
また、新自由主義がはびこってしまうと、子ども・保護者と教師は「選ぶ・選ばれる」関係性となる。
このような関係性の中では、「応答的な教育」は成り立たず、教師と保護者が助け合う関係もつくられない、と筆者は指摘する。
そうではなく、教師には、子どもの現実に合わせて教育を変えていくことが求められる。
教師は、自分のもっていた常識が揺り動かされたり、今までの経験が通用しなかったりしたとき、「教育観」や「人間観」を問い直す。
今の私も、まさしく同じ状況である。
それが自己変革の契機となるのだ。
「主体化」の重視
教育学者のガート・ビースタは、教育には「資格化」「社会化」「主体化」の3つの機能があると言う。
そして、「資格化・社会化」と「主体化」には葛藤が存在する。
前者は「今ある社会に適合する人間をつくること」、後者は「今ある社会そのものを変革していく人間をつくること」だからである。
他の言い方として、「社会性」と「社会力」という言葉もある。
前者は「既存の社会の維持を志向する概念」であり、後者は「既存の社会の革新を志向する概念」である。
しかし、3つの機能のどれかを取り出して「よい教育」を問うことはできない。
学力の形成という「資格化」は、どのような教育環境でそれが行われるかによって、競い合いを是とする「社会化」につながることもあれば、助けあいの価値に気づかせる「主体化」につながることもあるのだ。
ケアとしての教育
今の日本の学校教育は、明らかに「主体化」の要素が弱いと言える。
つまり、子どもを既存の秩序にはめ込む教育である。
このような中では、子どもの思い・願いよりも、大人の意向・思惑が優先される。
子どもの成長に価値があるのではなく、何らかの手段として「有用」だと大人が判断した場合にだけ「価値がある人材」とされてしまうのだ、と筆者は指摘する。
学校教育では、上記のような「有用な人材の養成」がなされているのである。
しかし、学校教育には、子どもの成長や学びのニーズに応えるという「ケア」の論理も内在している。
この「ケア」の要素こそ、今後もっと重視していかなければならないのだ。
子どもを「何らかの手段」「政治や経済の要請に応える人材」とする教育ではなく、「子どもの育ち」「子どもの学ぶ権利」を保障する教育に転換していく必要がある。
子どもの権利を尊重・保障するための教育
子どもがもつ権利を尊重・保障するためにはどのような教育が必要なのか。
筆者は以下のようにまとめている。
➀大人と子どもが共に社会を築いていくため、「対等な人間」として子どもの声に耳を傾け、言葉として語られない現実にも思いを馳せる。
※「view」つまり「ものの見方・考え方・感じ方」を尊重する。
②社会の常識を更新するような「価値創造のプロセス」、つまり子どもの「主体化」を尊重する。
③子どもを「社会参加」させる。つまり、市場における「競争」ではなく、地域における「協働」を重視する。子どもの参加を促すことで、社会のあり方を考え、社会を創り変える主体として子どもを育てることになる。
おわりに
上記のような教育では、「課題と自分との関係・立ち位置」が重要となる。
「自分に返す」という言い方も紹介されている。
「社会と自己との関わり」を考えることが重要なのである。
新自由主義における教育改革は、子どもの育つ権利を奪い、子どもの成長を手段化してきた。
格差や不平等を拡大させ、それに自己責任で対応することを強いてきた。
そのような社会の中で自分だけが「生き残る」力を育むことが学校の役割ではない。
他者と協働しつつ、全ての人が「生きやすい」社会を築く力こそが必要なのである。
そのためには、「学力調査に正解できる子ども」を量産する教育から脱却しなければならない。
子どもの「権利」「思い」「願い」「見方・考え方」を尊重し、他者と協働しながら社会参加する中で、自分たちの力で社会を変える経験を積ませることが求められるのだ。