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#1923 教師が楽しむことが一番

今のご時世、「教師」という職業は「価値の低い仕事」になりつつある。

教員採用試験の倍率は低下の一途を辿り、「不人気職」となっている。

現場には様々な問題が山積しているため、押しつぶされそうになりながら、必死に働くこととなる。

児童生徒の不登校、いじめ問題。

理不尽な保護者への対応。

いくらこなしても定時に終わることのない業務量。

生徒指導トラブルや子どもとの関係の破綻。

毎年踏襲される学校行事に追われる毎日。

やるべきことが多い、受け身の校内研究・研修。

各種調査において、学力向上の結果を迫られるプレッシャー。

学習価値のない悉皆の校外研修。

病休になる教員の発生。

あげればキリがないくらい問題が山積みなのである。

なぜ「学校」という現場はこんなにも腐敗し、「教師」という職業は魅力がなくなってしまったのか?

それは、社会が複雑化し、学校や教師に求められるニーズが多様になり過ぎたせいである。

カリキュラムオーバーロードが発生したり、教材研究や授業準備を圧迫するくらいの事務作業が多くなったりしたからである。

もっと「学校」はシンプルな場所であってほしい。

もっと「教師」はシンプルな仕事をすればいいのだ。

公立の学校には、その地区に住む、一定の年齢に達した子どもたちが登校する。

その子どもたちが、「学校」という場所で過ごすとき、大半は「授業」の時間が占める。

つまり、「教師」という職業の仕事内容は、もっと「授業」にフォーカスするべきなのである。

「授業の質を高める」というシンプルさを追究すべきなのだ。

よって、以下のような改革が行われるべきなのである。

教材研究や授業準備を圧迫する事務作業を大幅にカットする。

子どもたちに指導すべき事項を精選し、カリキュラムオーバーロードをなくす。

毎年踏襲している大規模な学校行事の在り方を見直す。

「やらなければならない校内研究・研修」の在り方を見直し、自由で主体的なスタイルにしていく。

悉皆の校外研修を精選する。

学力向上について、教育委員会等からの過度なプレッシャーをなくす。

以上のように、「授業」以外の要素をできるだけ削除し、教師たちが自分の授業の質を高めることができる「環境づくり」がなされるべきなのである。

このような「環境づくり」が整理されれば、多くの教師たちが自分の授業づくりを楽しんでいくことができる。

「やらされる授業づくり」「受け身の授業づくり」「こなす授業づくり」から脱却する。

「教師自身が楽しめる授業づくり」「教師と子どもが共に楽しむ授業づくり」を目指していく。

このような風景が当たり前となれば、教師たちも子どもたちも、学校生活をイキイキと過ごすことができるようになるだろう。

結果的に、教師と子どもとの関係が良好になり、生徒指導トラブルも減っていく。

不登校やいじめ問題も解決に向かっていく。

理不尽な保護者が減っていき、対応に追われることがなくなる。

教師が子どもと共に楽しむ授業が展開されれば、おのずと学力の結果も上がっていく。

だって、教師が「楽しい」と一番感じることができるのは「授業」なのだから。

学校生活の大半を占める「授業」において、教師も子どもも楽しむことができれば、問題など発生しようがないのだ。

毎日、毎時間必ず行われる「授業」において、教師も子どもも「楽しい」と感じる回数が多ければ多いほど、「幸せ」な時間は積み重なっていく。

諸々の問題は解決に向かっていくはずである。

やはり「学校」「学級」の経営者である「教師」である自分たちが、授業を「楽しむ」という原理が一番重要なのである。

これこそが、問題の解決の糸口なのだ。

そして、これが「自然の理」なのである。

「不登校」という問題を直接的に解決しようとしても無意味である。

「いじめ」という問題に正面から対抗しても無意味である。

「学力向上」のために、各種調査の対策に必死になっても無意味である。

「保護者対応」をもぐら叩きのように行っていても無意味である。

「生徒指導トラブル」に、その都度、事後対応をしていても無意味である。

「学級経営」のハウツーを永遠と追い求めても無意味である。

全て、「アプローチの仕方」と「順番」が違うのである。

諸々の問題を直接的に解決することはできないのである。

いつまでも「もぐら叩き」を繰り返すだけとなる。

そうではなく、アプローチすべきところは、「教師が楽しめる授業づくり」一択である。

そのための環境を整えることである。

そのための阻害要因を極力、減らすことである。

教師が自分なりの「授業づくり」を心から楽しむことができれば、そこから小さな変化が生まれていく。

ゆくゆくは、不登校もいじめも保護者対応も学力向上も生徒指導トラブルも学級経営も、解決に向かっていくのだ。

そういう「順番」なのである。

教師と子どもが、「学校」という場所で、一番多く共存するのは「授業」の時間である。

教師は「授業づくり」で勝負すべきなのだ。

そして、それに集中するための「環境づくり」を徹底する必要があるのだ。

それが可能になったときに初めて、これまで山積みされていた問題が徐々になくなっていくのである。

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