#1912 一斉授業と個別学習と中動態と
今回も前回の記事に引き続き、「中動態」をキーワードとして論を展開していく。
今回、取り上げたい話題は「教師主導の一斉授業-個別学習」である。
過去の記事で何度も話題にしてきたテーマだ。
私は、「教師主導の一斉授業」と「子どもが学習をコントロールする個別学習」はどちらも重要であると考えている。
私は過去の『三つの主体性』という記事で、「教師主導の一斉授業」における「引き出される主体性」と「個別学習」における「忖度する主体性」という言葉を使った。
今回は、この2つの主体性を、「中動態」というキーワードを媒介にして考えていきたい。
教師主導の一斉授業
前者である「教師主導の一斉授業」は、日本が伝統的に行ってきた教育手法である。
教師がオーセンティックな文脈を付与させ、子ども同士の対話・交流を組織する。
教師が事前に指導計画を練って、授業は教師の意のまま流れるように進む。
このとき、教師と子どもにはどのような関係が生じているのか?
まず、教師は授業の冒頭で何らかの「導入」を行う。
この時点で、2つの分かれ道が生起する。
1つ目は、子どもの知的好奇心が刺激され、「あれ?」「不思議」「もっと知りたい」「やってみたい」という意欲が喚起される道である。
この場合、教師が用意した資料や指導言などの工夫という「外的要因」により、子どもは「学習したい」と思うに至る。
このとき、「外的要因」という外側の動機があるため、「中動態」になると考えられる。
しかし、それと同時に、自発的に「学習したい」状態にもなっている。
つまり、「非自発的同意」ではなく、自発的な学習が始まろうとしている。
ここを切り取れば、限りなく「能動態」に近い状態と言えるだろう。
これを実現することができる教師は「スーパーティーチャー」と呼ばれる。
2つ目は、教師がデザインした「導入」が子どもに響かない場合である。
この場合、「非自発的同意」のもと学習を始める「中動態」か、同意せずとも嫌々学習を始める「受動態」かの結果を迎える。
次に授業の「展開~終末」である。
ここでもやはり、道は2つである。
子どもの知的好奇心が持続し、授業の終末まで一気に「能動態」に近い状態で授業を終える道である。
これは、講演や出前授業に引っ張りだこの「あのスーパーティーチャー」にしかできない業(わざ)である。
一方は、やはり「中動態」か「受動態」かの道である。
「導入」で「能動態」に近い状態になったとしても、そこから急降下し、自発的な学習が失われるケースはごまんとあるだろう。
教師主導の一斉授業の場合、教師の授業技術が試される。
教師がもつ技により、「主体性」が引き出されるのである。
しかしそれは、教師の「腕」に依存することを意味する。
持続可能性が乏しく、教師が不在のときは、全く機能しないのが弱点でもある。
けれでも、コンテンツや話術を磨くことで、子どもの「能動態」に近い状態をも引き出すことができる。
教師なら一度は夢見る話である。
子どもが学習をコントロールする個別学習
後者である「個別学習」は、最近かなり流行している教育手法である。
「自由進度学習」「自己調整学習」「けテぶれ」などがこれに該当する。
教師は事前に「単元学習計画表」を子どもに配り、子どもは自己に最適な学び方を武器に、学びのコントロール権を握っていく。
このとき、教師と子どもにはどのような関係が生じているのか?
まず、単元の導入場面では「単元学習計画表」が配付されることが多い。
これにより、学びの全体像を把握することができる。
しかし、この計画表に目を通した時点で、「全て自分が学習したい内容だ」と思える子どもは皆無であろう。
子どもは「これを学習するのか」と思うかもしれないし、あるいは「こんなにやらなくちゃいけないのか…」と思うかもしれない。
つまり、「忖度する主体性」である。
どちらにせよ、「非自発的」に学習が始まると言える。
この「単元学習計画表」の流れに同意する子どもは「中動態」として、同意せず「やりたくない」と思う子どもは「受動態」として振る舞うことになる。
ここまでの関係を見ると、「教師主導の一斉授業」に劣っていると感じるだろう。
なぜなら、「教師主導の一斉授業」では、教師の腕次第で子どもの「能動態」に近い状態を引き出すことができるからである。
しかし、「個別学習」にもそれなりのポテンシャルが秘められている。
それは「自由」という時間が保障されている点である。
「教師主導の一斉授業」は、教師が学習のコントロール権を握っている。
そのため、「自由」の時間はあまりなく、見方を変えれば学習を「強制」されているとも言える。
「強制」を感じる暇もなく、自発的に学習することができる子どもはいいが、それを教室全員の子どもに実現するのはかなり困難である。
それは「スーパーティーチャー」だけがなしえる業であり、凡庸な教師には不可能だ。
一方の「個別学習」には、十分な「自由」が保障されている。
単元の学習計画は決まっているので、レールの上を走らされてはいる。
つまり、見方を変えれば、こちらも学習を「強制」されてはいる。
しかし、その中でも授業時間内の「自由な時間」は、一斉授業とは比べものならないほど存在する。
その中で、子どもたちは多様な「相互作用」を生起させることができる。
情報を持つ者が持たざる者に助言することができる。
学習内容を把握している者が把握していない者に教授することができる。
自分の書いた文章が第三者の学びに影響を及ぼす可能性がある。
このように、「自由な時間」があるおかげで、教室内に学びの相互作用が生まれ、子どもたちは「能動-受動関係」を手に入れることができるのだ。
※「能動-中動関係」とも言える。
さらに、扱うツールやICTが多様に増えれば増えるほど、その可能性が広がっていく。
「教師-子ども」の関係でしか学びが成立しなかった教室に、「子ども-子ども」という学びの関係が実現するのである。
逆に、教師が子どもに「教えられる」構図になる可能性だってあるのだ。
このように、「個別学習」は「能動-受動関係」を増やすポテンシャルを秘めている。
以上、「教師主導の一斉授業-個別学習」という構図を「中動態」を媒介にして捉え直してみた。
多様性重視の今の時代、やはり「個別学習」が注目されるのは理にかなっていると言える。
「中動態」を考える上では、「自由と強制」という概念が重視されるが、「個別学習」では「自由」の保障が比較的多い。
それは、「自由」を享受できる子どもが多くなることを意味する。
子ども全員を「自由と強制」を感じさせぬまま、一気に学びの世界に連れていける「スーパーティーチャー」以外は、「一斉授業」を手放した方がよさそうである。