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#1836 オーセンティックな評価

今回は、石井英真教授の「オーセンティックな評価」について記事をまとめていく。


オーセンティックな評価の台頭

まず、「オーセンティックな評価」はどのように生まれてきたのか?

1980年代半ば、アメリカでは、「標準テスト」「客観テスト」が導入されることになる。

ここで2つの批判がなされる。

まず、批判の一つ目が、「自分たちが教室で行っている学びの成果を、教室の“外側”でつくられた客観テストで測られるのは納得がいかない」というものだ。

そして、批判の二つ目は、「教室の中でやっていることに対して、教室の外側から学力の中身まで決定される、ということについても、納得がいかない」「テストのための教育になってしまう」というものだ。

このような批判から生まれたのが、「オーセンティックな(真正の)評価」の考え方となる。

「本物の学力」というのは、その「現場」において、実際に子どもの学びの姿として表れるものであり、教室で一緒に子どもたちと学びをつくっている教師が、評価の主体になることが重要となる。

そこで測る本物の学力は、断片的な知識・技能の以上のものであるはずだということである。

つまり、教室の外側で作られたテストではなく、「教室から」評価を立ち上げていく、ということだ。

「教室で実践をつくる主人公は現場である」ということなのである。

文脈を意識する

「真正の評価」は「パフォーマンス評価」という形態を取る。

なぜなら、「学んだことが生かせるかどうか」「実際の文脈でうまくできるかどうか」を重視するためだ。

学んだことは、ある程度文脈が近くなければ転移が起こらない。

よって、実際にある文脈の中で、学んだことを使いこなしていくような、総合的な場面が設定されていなければ、生きて働く学力は育成できないし、評価もできないということになる。

つまり、「実際に思考できるかどうか」というのは、実験室で見取ったところで、それはある意味「偽物の状況」であるから、本当に思考力を測れているとは限らないのではないか、ということである。

パフォーマンス評価や真正の評価は、そういった「実際に思考が発揮されている現場に出かけて考えよう」といった、質的研究やフィールドワークの発想を背景にしながら生まれてきたのである。

なので、キーワードは「文脈」となる。

まさに「文脈」の中に学びが埋め込まれている、ということが重要となる。

「実験室」には文脈がないので、本物の文脈に即すことが必要なのである。

タスク、プロセス、ポートフォリオ

そして、「オーセンティックな評価」」で留意しておきたいのは、かならずしも、「タスクありきではない」ということだ。

実際に力が発揮されている「現場」で評価をしていくのならば、授業中における学びのプロセスを観察したり、たとえタスク(課題)がなくても、その学んでいる過程を自分でポートフォリオとして蓄積したりして、自身で振り返っていけるようにしていく。

その現場における思考の実際や思考の痕跡が見られればいいのである。

つまり、「パフォーマンス評価」というときには、タスクありきなのではなくて、「タスク」「プロセス」「ポートフォリオ」という三つ全てを含んでいるのである。

しかし、結局のところ力が発揮されているのかどうかは、日常的に生活しているだけではなかなかわからない面もあるので、「学びの舞台」づくりとしてのタスクというのは、やはり一定の意味があると言える。

では、その評価で見たいもの、「オーセンティックな学び」とは何なのか。

真正の活動に学習課題的に取り組んでいると、テスト以外のかたちで、表現物を残すことになる。

そして「学習課題」を「評価課題」としても意識的に生かしていくということが、「真正の評価」であり、「パフォーマンス課題」である。

本物の活動をしたときの、思考の痕跡やあしあとの意図的な可視化と蓄積が重要なのである。

「状況設定」ありきではない

しかし、「真正の評価」というときに、「あなたは~です」というような状況設定をする場合がある。

これには注意が必要で、「真正=状況設定」ではないし、「真正=日常生活/実用」でもないのである。

そうではなくて、「オーセンティック」の意味としては端的に「本物」のことを指すのだ。

これは「実験室」と「現実に生きられているフィールド」との比較に代表されるように、「学校での学習は、学校の中でしか通用しないものになっているのではないか」という問いが立ち現れたことが関係している。

「学校でやっていることが現実世界とはあまりにも文脈が違っているのではないか」「それでは学んだことを生かすことができない」「市民や労働者や生活者として現実世界の問題を解決する力につながらない」「『学問する』ことにつながっていない」という指摘である。

ここでいう「本物」には、市民、労働者や生活者の「社会的・実用的文脈」と学者がやっているような「学問的・文化的文脈」における真正な学び、という領域も含まれてくる。

「本当の意味で“学問する”ことになっているのか」という視点である。

よて、「オーセンティックな学び」について、次の二つの視点で定義することができる。

「市民、労働者や生活者の社会的・実用的文脈」
「研究者の専門的探究として、あるいは一般大衆の趣味や文化としての学問的・文化的文脈」である。

「正統的周辺参加論」「状況学習論」「社会的構成主義」とオーセンティックな学びは深くシンクロしているのである。

オーセンティックな学びやオーセンティックな評価については、「文化への参加」論、「実践共同体への参加」論に近いものがベースにあると考えることができる。

「実践共同体」という場合、市民や生活者の社会的活動や問題解決はもちろん「実践」と考えられるし、「学者がやっている学問的探究」もこれまた「実践」と呼べるのだ。

つまり「学問している」のである。

学問しているかどうか

「学問的な内容を学んでいる」のではなくて「学問する」という「行為」「実践」を、「している」わけなのだ。

「問いが立ってくる」などもそうである。

「なぜその問いが立つのか」、学問する中で「あ、こういうことか!」というふうに最後の最後に問いが立ってくるということも、現にあるわけである。

論文で書かれているものは論理的に見えるが、あれはあくまでも結果論であって、現実の「学問する」プロセスはもっと生々しくて泥臭い営みである

まず仮説があって、綺麗な結論があって……というふうに動くとはかぎらない。

実験結果との対話の中で、あるいはフィールドの現実との対話の中で、問い自体が変わっていくこともある。

それこそがまさに「学問」なのである。

初発の問い自体が変わっていくのが学問なのである。

泥臭い現実として人々が行う「行為」「実践」であるということに着目し、教科の知の社会的意味(レリバンス)を問い直すのみならず、学問する実践にフォーカスしていくことが重要となる。

つまり、結論やそこにいたる試行錯誤も含めて、知的に遊び、「味わう」という側面が学問にはある。

学問の世界というのは、人々が思っている以上に“人間的なもの”で、探究的なものであって、問い自体が最初の頃と最後で変わっていなければ、探究したことにはならない。

なぜなら、学問したあと、探究したあと、私たちに見えている風景が全然違うはずだからである。

「教科する」授業

「教科する」という表現は、「真正な文脈をつくる」こと以上に、その文脈や学ぶ必然性の部分をさまざま工夫することによって、本丸として「思考プロセスの真正性」を問う、という意図である。

思考のプロセス、学びのプロセスが真正であるかどうか、ということだ。

「評価」を考える上でも、結局何を評価したいかというと、別に文脈を評価したいわけではなくて、その文脈の中で実際に「本物がたどるような思考をたどれているかどうか」を測ることが重要だ。

なので「文脈の真正性」というよりも、「思考プロセスの真正性」を重視する。

だからこそ教師による教材研究というのはとても重要で、教科書すらも、教師自身が「もうわかり切っている」なんていうふうに思わないことが必要だ。

子どもたちと共に学ぶ中で、わかっていなかったのではないかと思わされることは結構はずで、それすらも子どもたちと一緒に学んでいったらいいわけである。

このような営みこそが本当の教材研究であり、「教科する授業」となる。

教材研究をしていくプロセスにおいて、教師自身が、「そういうことだったのか」と思ったその学びのプロセスを、そのきっかけになった素材や問いなどを提示しながら、子どもたちと一緒にたどってみるというところがポイントなのである。

これまで、「教科の本質」と言ったときに、個別の内容に寄って考えがちだったところがある。

しかし、そういうことではなくて、教科の本質を、物事の見方や頭の働かせ方といったプロセス寄りで考える。

その一つとして、教科の概念を眼鏡にして現実世界を読み解いて予測したり判断したりすることの意味にも目を向けるべきである。

これまで、そういった教科の眼鏡としての意味はあまり意識されてこなかった。

教科の面白さの片面をそぎ落とした形で、追求してきた部分がある。

あるいはもう片面の教科の「学問性」の方も、形だけで半端なままにしてきてしまった。

「市民、労働者や生活者の社会的・実用的文脈」と「研究者の専門的探究として、あるいは一般大衆の趣味や文化としての学問的・文化的文脈」である。

まず、現実世界を読み解く眼鏡として教科を学ぶということで、その教科の意味を捉え直していくのが前者。

「なぜそれが正しいと言えるのか?」「どの場面でもそれは成り立つのか?」と、前提から探究し、すでに明らかにしてきたことをもとに論理的に推論して、新たに結論を積み上げ問いを展開させていくこと、つまり学問の本物のプロセスを経験できているかを問い直していくのが後者となる。

教科の本当においしいところを、子どもたちに経験させることができているだろうか、ということを意識する。

「オーセンティック」という場合、「本物のプロセス」を繰り返し経験させ育てた上で、単元末や学期の節目で、現実的で総合的な文脈におけるタスクの中で、実力を発揮できるかどうかを試してみることも重要である。

これまで学んだことを基に「学びの舞台」を設定して、実際に実力が付いたかどうかということを、舞台に上がらせて確かめていく。

厳密にいえば、「育てて、確かめていく」のである。

子どもの「動詞」に注目する

子どもの「動詞」に目を凝らすことも重要だ。

その教科の本質的な「動詞」を、子どもが経験できているか。

「ノートを取る」という日常的な活動も、しっかりと説明を聞いてキーワード間のつながりを考えながら、「ノートにまとめる」のか、黒板のキーワードをただ「ノートに写す」のかでは、学びのクオリティは大きく異なってきくる。

このように、その教科の学びを「動詞」で見ていくと、「何を経験しているか」で見ていくと、子どもの学びの見取りが格段に深くなっていく。

学びの質を見極める物差しとなる動詞の例として、「集める・調べる・深める」という三つの動詞を使うとよい。

そのうちどのレベルに相当するのかを考えるだけでも、子どもたちの学びや授業の実際を自己診断しやすくなる。

「何かについて調べてスライドをまとめてみましょう」というときに、情報を集めて書き写して終わり、という「集め学習」になってないかどうか。

何かを調べるとき、ある視点の下にまとめ直したりするわけだが、「調べる」と「深める」も違う。

「深める」は、いろいろ調べてきたけれど、「それで結局あなたは何を言いたいの?」といった問いに対して、結論や自分なりの意見をちゃんと展開できるというレベルである。

そして、自分の中でさらなる新しい問いが立ってくるのが、「深める」である。

本物を経験するような動詞なのかどうかということ。

そこを判断基準にすれば、授業において、「そこに学びがあるかどうか」は大きく見誤らないようになる

そして、本質的な動詞かどうかを見極める際の一つの手掛かりとして、各教科等の「見方・考え方」も参考になるだろう。

教科書にあるパフォーマンス課題

「真正な学び」「真正の評価」「パフォーマンス評価」という言葉を使わなくとも、事実上、今の教科書においては、それらは一定程度実装されていると言える。

パフォーマンス評価といえばルーブリック、というようなイメージがある。

しかし、それは二の次である。

その前に、「パフォーマンス課題」で知識を使いこなすような、あるいは知識を総合するような、大きめのサイズのタスクにどう取り組ませて、思考をどう伸ばして、またそれを見取りながらやっていくか、ということが大事である。

学力は「知っている・できる」「わかる」「使える」という三層で捉えられるが、日々の授業は「わかる」授業だが、今の教科書を見ると、「できる」「わかる」を超えて三層目「知識を使いこなす」レベルの課題が割と入っている。

しかし、問題なのは、そこに中身が伴っていないと駄目なわけで、ただ単に「物語」のようなシナリオをつくって終わり、という課題では困るわけである。

それっぽい場面設定をして終わり、ではないということだ。

「オーセンティックな学び」では、活動主義にならないよう、生活的・社会的な関連性のみならず、学問的な厳密性とのバランスも常に議論されてきた。

そもそも、パフォーマンス課題の設計において、状況設定以上に、「本質的な問い」と「永続的理解」など、中身のある学びにしていくための仕掛けがある。

また、「パフォーマンス評価」というと、「オーセンティックなパフォーマンス評価」というのが本流なのだが、最近だとパフォーマンス評価を標準テストみたいにやっていこう、つまり、客観テスト的な信頼性を高めていこうとする動きもある。

しかし、妥当性よりも信頼性を優先することで、測る学力の中身を狭め、教室の「外側」から標準化する形になりがちなので、もともとの「真正の評価」やパフォーマンス評価が出てきた文脈からすると逆行する話となる。

ルーブリックで見る目を鍛える

パフォーマンス評価の原点は、「専門家の見る目や判断を信頼する評価」という志向性である。

いわゆる「ルーブリック」は、「この作品、あるいはこのレポート、5段階くらいに分けるとしたらどこに振り分けられるかな」と分けていけばそれでパフォーマンス評価の出来上がりになるわけだ。

 特定の領域の専門家は、ある程度目指す方向性や大まかな規準が共有できていて、ざっくり3段階なり5段階に分類くらいであれば、評価が極端にぶれることは多くはない。

かつ、大きくぶれないようにするために、専門家同士、「どういうふうに分けたの?」「私は5だと思ったけれど、なぜあなた2をつけているの」と言った話し合いをして、「そういうことね」と、評価基準表の文言だけで議論していたのでは話がかみ合わないことが多いが、実例を見たらよくわかるわけである。

「大事にしている部分が違うのね」ということがわかって、「じゃあやっぱりこっちに合わせようか」などと合意形成を行う。

これを、「モデレーション」(評価結果の調整)や「キャリブレーション」(物差しの調整)などと言う。

そして、そのように専門家が行なっている判断について、対外的に、つまりそれが学習評価なのだとしたら、子どもたちなどに対して、「何故そのように分けたのですか」という問いに答え、基準が見えるようにしたほうがいいということで、「こういう視点・こんな物差しで、評価をつけています」と、専門家の暗黙知を言葉にするのが「ルーブリック」ということになるのだ。

なので、パフォーマンス評価の核心というのは、「ルーブリック評価」という言葉が示すような「ルーブリック当てはめ評価」ではないということである。

専門家の見る目を信頼する評価なのだから、どこに投資すべきかというと、客観的な評価システムをつくること以上に、教師の見る目や教科の専門性の方をトレーニングしていくことである。

「人の目による部分」というものを大事にしないと、人間の「実践」の質を評価するパフォーマンス評価はうまくいかないのだ。だろうなと思いますね。

評価に必要なのは「納得可能性」

「評価者」というのは「当事者間の関係性」のことだということも重要である。

つまり、子どもたちと評価実践を共有しているということだ。

子どもたちと「物差し」や「見る目」を共有していたならば、教師が評価するまでもなく子どもが自分である程度判断できる。

そのような状態が一番望ましいわけである。

仮に評価を、高頻度に学びのプロセス全体に逐一細かく貼り付けていくようなことをすると、ますますもって子どもに説明もできなくなるし、教師もまたしんどくなってしまう。

そうではなく、例えば「思考力、判断力、表現力等」というのはこの課題で見ます、というふうに、学んだものを生かして取り組むような、これができたら一人前といった課題を設定して割り切ることも一つだ。

やはり「舞台をつくる」ことが重要となる。

プロアスリートでいう「試合」にあたるものだ。

 その際、試合+ポートフォリオみたいなもので、「練習ではこんなことやりました、こんな試行錯誤もしました」という自己申告的なものをつけておけば、学習者の思いに沿った形で、実力を試すことができる。

また、「試合」的なものは、単元や内容を超えて繰り返したりもしますので、「今回のレポート、なんで3なの?なんで4じゃないの?」と言われたときに、過去のレポートのレベルごとの実例を物差しとして示しておくのも一つだ。

子ども自身が「確かにこの出来では4にはならないな」といった形で自ら納得できるようにする。

つまり、「当事者間で納得できるか、納得可能性があるか」ということだ。

「客観性」よりも当事者間の合意によって形成される「間主観性」を軸とするのが重要だということである。

物差しが当事者間で共有できていて、「なぜこういう分け方をされているのか」「自分の水準はどの辺にあるか」を子どもが自分たちで自己評価・相互評価できることが大事になる。

「試合」的なものに向けた試行錯誤や頑張りを教師は見守り、子どもたち自身による、根拠を伴った洗練された自己評価で裏付けを得る。

定番の場面があることによって、子どもたちも教師も納得がしやすくなるし、その舞台に向けて頑張りやすくもなる。

留意しておきたいのは、「この課題を評価します」ということをどこまで明示的に厳密にやるのかは現時点では少し微妙なところで、「オーセンティックな学び」については、いきなりルーブリックを作って評価材料を集めねばと肩に力を入れず、まずは学習課題として、いくつかの教科や単元で試行的に広く実践してみることが大事になる。

学びの文脈が、本物の思考のプロセスを引き出すものとして機能していれば、取り組んでいるうちに、実力が試されるような場面になっていくわけで、まずはそれを見取って形成的評価として生かしていく。

そして、やりやすい教科や単元を絞って、計画的に総括的評価としても生かしていくといった具合に、段階的に取り組むとよい。

 力試しとなる舞台づくりについては、その単元で指導している内容が、学校の出口の先に社会のどの本物の活動につながるものなのかを考えてみて、そこでどのような場で実力が試され、どのようなプロセスが大事にされているのかを考えてみるとよい。

現在の教科書には、単元を貫く問いや課題や活動といったパフォーマンス課題的なものも位置付けられていますから、参照できるヒントは割とある。

ただ「これがこの教科の各単元末における力試しの舞台となる課題だ」と決め打ちするのは、勇気が要ることだ。

だからこそ、一人きりでできることではないので、学年や教科や学校の中で議論し、共通理解を深めることが必要となる。

教師の教材理解の深さ抜きに、舞台決めも教科の本質的なプロセスの見極めもできないので、それらを考えるのをきっかけに、教材研究力を組織的に伸ばす取組が重要となる。


以上が、記事のまとめである。

これから、オーセンティックな学びや評価を志向するときに活用していきたい。

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