#670 教科を学ぶ意義って?
われわれ教師には、学習指導要領という存在があるので、各教科・領域を教える義務がある。
そこに例外の余地はない。
しかし、子どもたちにとって、各教科・領域の内容を学ぶ意義・義務はあるのか?
最低限の国語は必要かもしれない・・・。
でも、算数の計算は?
計算機があれば必要ないのでは?
理科の実験ってする必要あるの?
社会で「大化の改新」を覚える意義は?
体育で「跳び箱」をやるけど、日常生活でやる機会ある?
英語は翻訳機能を使えばいいんじゃない?
こう考えると、学校教育で扱う各教科・領域の「学ぶ意義」に疑問を抱く。
それを、全ての子どもたちに納得させることは難しいのでないだろうか。
では一体、これらの教科・領域は、何のために学ぶのか?
教育には、目的がある。
それは「人格の完成」である。
「人格の完成」とは何だろう?
それは「多様で多数の人たちと折り合いをつけ、その人たちの力を借りることができる能力」である。
人は、1人では生きていけない。
それぞれに、得意・不得意がある。
自分が苦手な分野では、それが得意な人から、力を借りればいいのである。
それを可能にするのが、各教科・領域である。
算数では、計算が得意な子ども、苦手な子どもがいる。
理科でも同じだ。
体育でも同じだ。
全ての教科・領域でも言える。
人間にはそれぞれに能力差があるのである。
その能力差を前提に、授業において「力を貸す」「力を借りる」という経験をする。
その繰り返しにより、「多様で多数の人たちと折り合いをつけ、その人たちの力を借りることができる能力」を身に付ける。
それが「人格の完成」である。
そのために、各教科・領域を学ぶのである。
だからこそ、「学び方」が重要になる。
教師からの一方的な一斉授業では、上記のような「力を貸す」「力を借りる」機会をつくることはできない。
「人格の完成」に近づかない。
アクティブラーニングという学び合いをすることで、それを実現するのだ。
なので、「学ぶ内容」は重要ではない。
「学び方」が重要なのである。
「学ぶ内容」が「人格の完成」につながるのではなく、「学び方」が「人格の完成」につながるのである。
アクティブラーニングは、まさに「人間教育」なのである。
肝に銘じておきたい。
では。