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#1718 だから小学2年で荒れるのだ

小学1年生は、夢と希望をもって学校に入学してくる。

「年長さん」という幼稚園では「何でもできる存在」として、学校に入学してくる。

そんな希望と能力のある1年生が、1年後には悲惨な姿に変貌をとげる。

椅子に座ることができない。

隣の友達との私語をやめることができない。

友だちへのちょっかいをやめることができない。

「めんどい」「つらい」などのネガティブ発言を連発する。

このように、小学2年生で「荒れる」のである。

あんなに「夢と希望」があったのに・・・。

あんなに「優秀」「何でもできる」と思われていたのに・・・。

この原因は何か?

1年生の担任の影響か?

それもあるだろう。

しかし、大元は「学校」というシステム自体にある。

学校は、なんでもかんでも「させる」場所であるからだ。

決まった椅子に座らされる。

長い話を延々と聞かされる。

決められた教科を勉強させられる。

言われた通りにノートを書かされる。

友だちと話す時間を限定される。

宿題をやらされる。

全て「受け身」なのである。

これでは、内発的動機づけが失われるのも当然である。

内発的動機づけを維持・向上させるためには、
「有能の欲求」「自律の欲求」「関係の欲求」を
満たす必要がある。

それにもかかわらず、「学校」では真逆のことをしている。

「1年生はまだできないから・・・」と無能扱いされる。

「これをやりなさい」と他律的に動かされる。

「友達と話さず、一人で黙々とやりなさい」と関係性を遮断される。

これを1年間体験すれば、「受け身人間」になるのも当然である。

そして、あれほど夢と希望に満ち溢れていた「学校」という場所は、「地獄」であることに気づくのだ。

そして、小学2年生で荒れ始めるのである。

これを打破しようと、教師は様々な策を練る。

しかし、失われた内発的動機づけを復活させることは容易ではない。

なぜなら、内発的動機づけを復活させるための
「有能の欲求」「自律の欲求」「関係の欲求」
を満たす条件が「学校」というシステムには存在しないからである。

したがって、教師がとる手法は、次の2点に限られる。

➀無理矢理やらせ、1年間辛抱する。
②アメとムチを使い、外発的動機づけに頼る。

この選択肢しかなくなるのである。

しかし、上記のいずれの選択肢を選んでも、内発的動機づけにつながることはない。

なので、子どもたちは引き続き「学校」が嫌いなままである。

そして「アメとムチ」で他律的に動かされているので、それらがなくなれば、さらに荒れ出す。

負のスパイラルに陥るだろう。

では、これを打開していくにはどうしたらよいのか?

それは、幼稚園までに大切にされてきた「内発的動機づけ」を復活させることしかない。

「強制」「命令」「指示」「他律」「受動」で支配される教育システムを変えるしかない。

「環境による教育」を実現するのである。

たしかに小学1年生は、中学年・高学年の子どもに比べれば、「できない」ことが多い。

「抽象的思考」ができないので、教師の話を一度で理解させることはできない。

しかし、だからといって、
「決まった椅子に座らせる」
「長い話を延々と聞かせる」
「決められた教科を勉強させる」
「言われた通りにノートを書かせる」
「友だちと話す時間を限定する」
「宿題をやらせる」
などを強いれば、元のシステムのままとなる。

けれでも、そんな子どもであっても、
「できる」ことはあるはずだ。

教師がイラストを使った指導をすれば、話を理解できる。
対話の手順を教えれば、友達と話し合いをすることができる。
学び方という型を身に付けられれば、自分で学習を進めることができる。

小学1年生にも「できる」ことはたくさんあるのだ。

しかし、条件つきで、である。

教師が適切にサポートしたり、「型」を事前に教えたりする。

この条件を満たせば、子どもは「できる」ようになるのだ。

したがって、「教える」部分と「任せる」部分を適切に見極め、それらを交えた教育を実現していくことが重要となる。

これまでの低学年相手の教育は、「教える」ことを優先し過ぎである。

だから、子どもたちの
「有能の欲求」「自律の欲求」「関係の欲求」
を満たすことができなかったのだ。

これからは、「教える」ことも大切にしつつ、「任せる」ことも取り入れていく必要がある。

それが、「有能の欲求」「自律の欲求」「関係の欲求」
を満たすことにつながる。

子どもたちは「できる」はずなのである。

なぜなら、幼稚園ではそれが「できていた」からだ。

幼稚園では、環境による教育に基づき、子どもの自由に任せ、
「有能の欲求」「自律の欲求」「関係の欲求」を満たしてきた。

だからこそ、年長となれば、「何でもできる存在」となっていたのだ。

それを小学校でも「取り戻す」のである。

「型」や「きまり」を教えつつも、「任せる」部分も保障するのである。

そして、何かを教えるときは、論理的に抽象的に説明するのではなく、イラストを使って視覚的に伝えるのである。

このようなアプローチを続ければ、子どもたちの内発的動機づけを損失させることはないはずだ。

小学2年生で荒れる子どももいないはずである。

ぜひとも、「有能の欲求」「自律の欲求」「関係の欲求」を意識し、子どもに「任せる」部分を模索していきたい。

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