#1950 学校で育む主体性
最近の「学校教育」の現場では、子どもたちの「主体性」が重視されている。
「主体的な学び」「主体的に学習に取り組む態度」などのキーワードも、学校教育関係の公文書に登場するようになった。
今回は、ここ数年で注目されるようになった「主体性」というキーワードについて、メタ的に改めて考えてみたい。
「主体性」というキーワードの内実を考えていく上で、まずは「主体性」と「自主性」の違いをおさえるところから始めたい。
なぜなら、学校教育の文脈で、両者はよく混同されがちな概念だからである。
インターネットで「自主性」と「主体性」を調べてみると、前者は「決まった目的に向かって行動を起こす性質」であり、後者は「そもそも目的やゴールを自ら考え、決定する性質」と説明されていることがわかる。
つまり、「自主性」とは、あらかじめやるべきことが決まっており、それを他者から指図されなくても行動できることを意味し、「主体性」とは、やるべきことが決まっていない状態でも、自分で考えて行動できることを意味するのだ。
したがって、「自主性」よりも「主体性」の方が、より高度なレベルを要求していることがわかる。
学校教育では、この高レベルな「主体性」を求めているのだ。
それを考えると、義務教育段階では、ややハードルが高いと言わざるを得ない。
「学習指導要領」という「学習すべきこと」が決まっている前提において、「主体性」を子どもたちに求めるのは「酷」であるのではないだろうか。
そもそも、「学校教育」という文脈は、子どもたちに「やるべきことを強いる」側面が非常に強い。
平日は、毎日のように、決まった時刻までに登校させ、学校という「箱」に缶詰め状態にさせる。
「時間割」も決まっており、「学習指導要領」という縛りにより、「学習すべき内容」も規定されている。
決まった教室で、決まったメンバーと一緒に、決まった教師のもとで、勉強させられる。
授業においても、「学習方法」は教師により強制させられる。
このような「すべきこと」に囲まれた環境で、子どもたちに「主体性」を発揮させることなど不可能なのである。
「矛盾」以外の何物でもないのだ。
「学校教育」がこのような前提で成り立っているにもかかわらず、政府は学校現場に「主体的な学び」「主体的に学習に取り組む態度」を要求する。
「大学」ではそれが可能かもしれないが、たくさんの「やるべきこと」に縛られる中で、そのような高度なレベルを求めるのはおかしな話なのである。
せめて、「あらかじめやるべきことが決まっており、それを他者から指図されなくても行動できること」を意味する「自主性」を求めるようにしてはどうだろうか。
それが、義務教育段階にはしっくりくるような気がしてならない。
「自主的な学び」「自主的に学習に取り組む態度」という言葉に変え、それらを求める方が、矛盾なく通用するのではないかと考える。
もし、それでもなお、子どもたちに「主体性」を求めるのであれば、「学校教育」の中に蔓延る「縛り」をもっと緩めるべきである。
「学習指導要領」の縛りを緩め、子どもたちにも教師にも、もっと「ゆとり」「余白」を与えるべきである。
そのような「ゆとり」「余白」が保障されれば、子どもたちは「やるべきことが決まっていない状態でも、自分で考えて行動できること」を意味する「主体性」を少しは発揮できるようになるかもしれない。
しかし、「学校」という場所に通わされ、「教室」という箱に入れられ、「同級生」というメンバーと一緒にされ、「担任」というリーダーが配置され、「勉強」させられる現状である限り、「完全な主体性」は発揮されようがない。
なぜなら、「完全な主体性」とは、「自分がやりたいことを自分本位で決め、行動する」ことを意味するからだ。
そんな主体性を発揮されてしまえば、教師はもとより、他者に迷惑をかけることになる。
「学校」という「公」の場所で、完全な「自分勝手」は許されない。
そういう意味で、「完全な主体性」を発揮されては困るのだ。
だからこそ、政府は「主体としての学び」「主体として学習に取り組む態度」ではなく、あくまで「主体『的』な学び」「主体『的』に学習に取り組む態度」という言葉を使っているのかもしれない。
「的」という文言を付け加えることで、「主体性」という強めの要素をやや弱めているのかもしれない。
しかし、いずれにしても、「学校」という「縛り」が多い場所で、「主体性」を育てることは困難であると言える。
「学校」「教室」「授業」の中に、今よりも多くの「ゆとり」「余白」を入れ、子どもたちに「コントロール権」を少しでも譲渡することができさえすれば、少しずつ「主体性」の芽を育んでいくことはできそうである。