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ポンディシェリーの街と違和感の問い

南インド・オーロヴィル編-7


オーロヴィルからポンディシェリーへの道は通行量が多くバイクから車から牛からすべてがごっちゃになっていて、今まで訪ねてきたタイなど別のアジアの国よりも、色鮮やかでパワフルな光景が広がっていた。

『一緒に行ってくれる人がいてくれて良かった…。この交通量かつ野生感ある道を、ひとりで移動したいとは思えない。』…すっかり旅にサバイバルなドキドキ感を前ほど求めなくなってきているなと思いながら、2人乗りしているバス君のバイク後部から、道ゆく牛や沢山のバイクや車を眺めていた。(インド旅に慣れている人からしたら、ポンディシェリー近辺など野生感でも何でもないと言われるだろう。)

現地に着くと、まず訪ねてみたかったオーロヴィルを設立したオーロビンド&マザー(ミラ・アルファサ)氏のアシュラムに連れて行ってもらった。(アシュラム=修行をする場所やヨガを学ぶ施設等。)

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奥のグレーの壁の向こう側にある
シュリオーロビンドアシュラム。

アシュラムの対面側にあるインターナショナルスクールで学び育ったというバス君に学校のことやアシュラムでの作法等を聞きつつ、用事があるので一度家に帰るという彼と一旦別行動となり、ひとりアシュラムへと入った。

初めてのアシュラム。元フランス領だった街ポンディシェリーにあるシュリオーロビンドアシュラムは明るいグレーを基調としたモダンな建物で、インド人を中心に、他にもオーロヴィルで見かけていたドイツ人ツアーの面々もいたりと世界各国から参拝者が訪れていた。

内部では、オーロビンド&マザー氏の墓の前で多くの人が祈りを捧げ、座禅を組み静かに瞑想している。しかし、どうもその場に若干の違和感を感じていた。『この違和感はなんだろう…??』

自分も床に座りつつ、なんだろなーこの感じ…静かにその違和感について内観し分析してみることにした。そうして気づいた違和感の正体とは、
『祈りと期待のエネルギーの違い』だった。

アシュラムから感じるのは祈りや感謝というよりは、オーロビンド&マザー達に対しての助けてほしいという「期待の念」とでもいうような、どこか鈍くもったりした空気がもよよーーんと感じられ、それらが今まで訪れてきた神社仏閣といった場の印象とは違ったので違和感として捉えた。

オーロヴィルの創設者であるオーロビンド&マザー氏は近代の、いわゆるインドの聖人かつカリスマのうちのひとりひとりだ。と同時に、同じ人間でもある。どんなに神がかったエネルギーを顕したり、人智を超えた世界の体現者だったとしても。

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オーロヴィル内のオーロビンド&マザー氏写真

その同じ人間や存在を、人の意図によって神格化し期待し、縋ろうとすることで生まれる、人の世界の性(さが)のようなものを感じたのだった。それらに共感すると同時に(悩みや苦しみがあれば、縋りたいのが人間だ。わたしだってそうだし。)

はっきりと期待と祈りのエネルギーの違いをそこまで体感覚を伴って感じたことがなかったので (祈りはもっと透明感があって、アシュラムから感じた期待のエネルギーは薄いグレーみたいな感じ)こんなにも違ったりするのだな…と発見したような思いだった。

当時は、こうも期待と祈りとは違うのか。
というか暑いなーーー、以上。といったくらいだったけれど

今その光景を振り返ると、ついばばーーんと輝いた存在がいるとその存在や写真、お札等自体を崇めることで自身の感性や力を対象に明け渡し、自分のオリジナルの感性を大切にする意志や覚悟を置き去りにしたまま、何かあると救いを外側に求め続ける。それは、自分も持っている側面だったのだなと書いていて気づいた。

わたしは何か特定の宗教を信仰することはないけれど、つよい憧れや凄いなと思う人がいると仰ぎ見て、本来の素直な感覚を必要以上に譲ってしまったり小さくみたりするところが今までちょくちょくあった。世界は自分の鏡、というのはこういうことだろうか。

人の世に善意あるカリスマが出現する本懐とはべつに当人達を依存させるためではなく、あくまで人間や生命の新たな可能性や側面を顕わしたり伝えるためだったりするだろうから、カリスマをきっかけに自らの内面と繋がることや、カリスマ的存在が繋がっていた源そのものにアクセスすることが大切なのだろうな、と振り返ってみる。

無論、訪れたタイミングや受け取り方がそうだっただけで常にもよよーんしてるとは限らないし、あくまでわたしのフィルターを通して感じた光景になる。

後は、絵葉書などが売っている物販をのぞいたりした後にアシュラムを離れると、ポンディシェリーのデザインの凝った可愛いお香屋さんをのぞいたり散策、あとは路上の土産物屋にあれこれ話しかけられたりしながらバス君が戻ってくるのを待つことになった。

思った以上にバス君がなかなか帰ってこないので、アシュラムの近くの路上に座りこみながら

『暑いし疲れた…体がしんどい…
どうしよう、もし仮に彼と合流できなかったら…
って例えそうだったとしても、自分でタクシーやリキシャで帰ればいいだけだ…でも疲れもあって気が滅入ってくる…。』

からだが疲れてくると、げんなりしたネガティブな想いが浮かんでくる。あれこれぐるぐる考えながら暑い日差しのなかで、じっと通りを眺めていた。

待つほどにどんどん心細くなってきたところでついにバス君が戻ってきた。再合流できたことにほっとすると、カフェで休憩するべくバイクで向かったのだった。

オーロヴィル編8「深夜の巡礼者たち」へ続く。

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