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「自分の表現が社会を幸せにしているか」というリフレクションで、社会を個と全体の両面で見れることに近づける。

理念、そして活動に共感している”子育て教育コミュニティ つみき”さんのイベントで登壇させていただきました(登壇というより、参加者との質疑応答ですね)。

参加していただいた方からこんなコメントを頂戴しました(Facebookの公開投稿をそのまま引用します)。「メッセージ」に続いているものは、私が最後に発した言葉です。→以降は投稿者の感想。

●メッセージ
表現するときには、ちょっとでも社会が良くなるような表現を選ぶとありがたい。
→別の意味で刺さった。
 SNSに限らず、私は「社会が良くなるような表現」を選べていないなと。自分の正義を発信してしまいがち。
 できるだけ「社会が良くなるような表現」を選ぶフィルタを最後に通してみようか。

私からのメッセージへの感想を綴られた投稿ですが、この言葉に私が刺さりました。

・・・・・

ブログやSNSの黎明期(2000年代前半〜中頃)、30代前後の頃、インターネットに表現する場を得た自分は、ブログやSNSを通じて表現していたものには、端的に申せば、「知り合い自慢」が多かったと思います。「俺、この人と知り合いだぜ〜」という自慢ですね。
書いている私としては「自分のブログを通じてこの人のことを少しでも知ってもらえると嬉しい」という気持ちで書いていたのですが、内心に「自慢」濃度も大きかったと思います。
そして受け取る側は、素敵な方を知れてよかった、という気持ちもあれば、「何この自慢っぽいブログ」と取られていた方も多かったと思います。。。

その後、当時の勤務先の許可を得て、インターネットメディアに識者の立場で寄稿するようになったとき(2000年後半〜2010年代前半頃)は、「読者の共感を生むような論立て」で、結果として勤務先の製品・サービスの紹介や購入につなげることを(も)狙っていました。
実際、共感し、購入までつながった例も直接読者から聞きました(と同時に、知人自慢のような表現は少なくなっていきました)。
ただそれは「一部の人」に過ぎず、共通の価値観同士がつながり、自分の正義を強固にすることにはなる一方で、共感せず私の発信から距離をおいた方もいらっしゃると思います。
また、書いている私は、「製品・サービスの紹介や購入につながっている」という側面しか見て(見られて)いませんでしたので、「執筆活動によって良いことをしている」という自分に自惚れていたところも多分にあると思います。端的に申せば、「自分の正義」を発信し、悦に浸る状態なんですが、全くそれに気づいていない自分自身がそこにいました。

その後異動になり、異動先の上司から「自慢をやめろ」と散々言われました(苦笑)。上述の通り、内心の自慢濃度が高かった2000年中頃までの自分よりは濃度が薄まっていたので、言われるたびに不思議な自分もいましたが、「これが自慢と解釈されるのかな、、、」とちょっとでも感じた表現や態度は改めていくようにしました。
結果、それまで以上に「多様な方とご一緒する」ことができる自分に近づき始めたと思います(当時の実感でも)。

自慢癖が治ったかな、と思っていた頃、自分が関わった新規事業で新聞社から取材を受けました。
その取材の回答が新聞に掲載されたとき、「こんなこと言っていない、、、」それが私の最初の感想です。そして案の定、上司から「見損なった」というメールが届きました。。。

「私としては自慢する気持ちは全くなかったのですが、そのように解釈されても不思議ではない記事です。申し訳ありませんでした。」

それが私のメールへの回答でした。そのメールには「もう一回だけ信じることにする。」という返信でした。

取材時を振り返りました。
自分が「自分”だけ”が当事者で創り上げた事象を根拠に、自分”だけ”が語れる(表現できる)正義」と思われるかのような論立てをしているんだと思いました。
ここに2点の「好ましくない」姿勢があるわけです。1つは自分”だけ”ということ。もう一つはもちろん「自分が語っているものは「正義」である」ということ
この経験から「事象は自分”だけ”が創っているわけではない」という姿勢が強くなり、語る(表現する)際に、その正義(的な事象)はいろんな方のおかげで創られているんだ、という、「みんな」や「社会」に当事者がたくさんいることへの敬意を持つよう心がけたいと想うようになりました。
一方で、「自分が語っているものは「正義」である」は、これでも抜けないわけです。。。

抜けない自分はどのような語り(表現)が抜けていなかったかというと、「何かにつけて批判する表現が多い人の表現を批判する」ものです。

そんなとき。慕っている知人から「寺西さんの表現は二項対立を生む」と指摘されました。。。
しばらくなんでかわかりませんでしたが、「批判する人の言を批判しても社会がよくならない」と思うようになり、そこから批判する人を批判する表現を余りしないようになっていきました。
とりわけ、SNS上での批判的な表現は様々な見解があると思いますが、私の現時点での考え方は次のnoteに集約されています。

こういうリフレクションを重ねて、いまは自分が対話に加わったイベントで「表現するときには、ちょっとでも社会が良くなるような表現を選ぶとありがたい。」と口にでる自分が作られた、と思います。
いまでも、批判する表現をすることはありますが、こと、SNS上では以前から比べると随分減ったと思います。発信する前に「この表現を残すことで、社会が良くなる方に行くか?」を立ち止まって考える癖が少しずつついたからです。

「批判する表現自体がSNSに在ること」は問題だとは思いません。
一方で、SNS上で、批判の総量が多くなることは問題だと思っています。
「SNS上で批判の総量が多い」と感じた表現者とは私は距離を置きます。
今の自分は、基本的にこの考えに従って、SNS上で表現しています。

その結果、「自分の正義の発信」を抑制することにつながっています。
さらなる結果として、「社会」(の良さ)を意識することは、様々な状態にある「個」へのアンテナが高くなり、「個」を意識しつつ社会総体が良くなる当事者としての自分創りにも役立っていると思います。

決して、独りよがりの「自分の正義」で語る「社会」(の良さ)ではなく。

「自分の表現が社会を幸せにしているか」というリフレクションで、社会を個と全体の両面で見れることに近づける。

全ての自分の言動が社会を幸せにするとか、誰にも迷惑をかけない、とは決して思いませんが、少しでも自分の言動が社会を幸せにできるよう努力は続けたいと思います。

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