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AI時代の身体と場について
昨年10月から始動し、今年の4月に初めての新年度生を迎えるオルタナティブスクールTERA(所在地:福岡市中央区唐人町)のnoteを本日から始めることにしました。(パチパチパチ🥳)
スタッフがふだん感じていることを温度のある言葉でお伝えしたいという思いがあること、さらに、スクールのメインスタッフである松浦葉月さん、横田簾さんのどちらもが、自分なりの言葉を紡ぐということを努力し、向上する意思のある人であることから、いっしょにnoteをやったら面白いんじゃないかというひらめきで、二人の同意を得て始めることとなりました。更新は不定休で無理なく、でもできるだけ長くやれたらいいね、と思っています。
いきなり本題めいた話になりますが、ここ数年で生成AIが革命的に「仕事をこなせるヤツ」に成長し、私自身も、毎日のようにその恩恵を受けまくっている状態です。そんな中、先日、同業者の方から「生成AIが席巻した後のこの仕事(教育)の生き残り方は?」と尋ねられて、私は「生成AIに取って代わられる程度の仕事をなさっているんですか?」(大意)と生意気なことを言ってしまいました。しかし、今考えると少し別の言い方になるなと反省しているところです。
教育でも翻訳でもデザインでもそうですが、スキルをある程度身につけた実感のもとに仕事をしている人たちは、自分がやっている仕事が易々と生成AIに取って代わられることはないということが、感覚的にわかっているわけです。
では、何が問題になるかといえば、結局のところ、発注側が「コストも低いし生成AIでいいさ」と割り切ってしまい、さらに利用者たちがその質の低下に慣れてしまうことでしょう(現在の若者たちにはすでに「質にこだわる」ことに対する冷めた目線があると感じます)。そうなると、生成AIが勝利するということになるのだろうと思います(一部の現場では、質においても生成AIのほうが結果を出しているという話もあるようですが)。
そこで鍵になるのが、おそらく「身体性」です。コロナ禍の時期にはあれほど身体的な接触が忌避されましたが、結局のところ、サービスに身体を介在させる「場」があるかどうかが大きな分かれ目になる(ちなみに子どもたちの多くはコロナ禍のときのようなリモート授業に戻ることは「絶対に嫌だ」と思っています)。その点、教室という「場」がある教育業というのは、けっして不利な業種ではありません。
一方、翻訳や校正、デザインのような仕事は、場をつくるというのが難しいので、「なぜ人間がやるか」という意義のようなものを、受け手たちにわざわざ啓蒙していく必要があるかもしれません。(その意味で、知人の校正者、牟田都子さんが校正という仕事自体を何らかの伝えようとしているのは、業種を延命させるための大切な一手だと思います。ご本人は「校正」という仕事を「記録」として残したい(大意)とおっしゃっていましたが。)もしくは、どうやって今の仕事に「可塑的な身体」のようなものを付与していけるのかということに対してすでにチャレンジし始めている人たちもいるでしょう(これはAI側のチャレンジもなされていますが)。
これは裏を返せば、「場」をつくることが無自覚もしくは不得手な事業所(とても多い)は、たとえ教育業であっても生き残れないであろうということです。少し前から「身体性」という言葉がよく聞かれるようになったのは、人文学的な背景だけではなく、こういった時代の要請と関係しているでしょう。「このもてあました身体をどうする?」という問題はこれからますます先鋭化するはずです。ハヤりの思想というのは、倫理的な装いをしていても、常に時代の要請、つまり資本と結託しているものです。
この意味で、私は「子どもたちが安心できる場をつくる」ことを別に「いいこと」と考えていないし、「社会的意義」のようなものも先に打ち立てるつもりもありません。でも、目の前の子どもの戸惑いとともにいたいという気持ちはあって、この気持ちに興味があるから、できるだけ長くこの場を続けていけたらと考えています。
生成AIがますます活躍する時代になっても、人同士が身体を通じて交わすやりとりには、どうしてもAIには代替できない価値があると信じています(あえて「価値」と言ってみました)。だからこそ、私はこれからも子どもたちとともにあり続け、その場をつくり続けたい。そう思える限り、この仕事を続けていきたいと思っています。(鳥羽和久)