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分かる、分からないことの意味
分かるとは、説明されていることの分化として、
自分がすべきことの示唆を受け取ることができた、とそんな意味だろうか。
分からないとは、その示唆を受け取ることができなかったということか。
分かる、分からないとは、理解よりもレベルが低く、理解には至らないが、自分のしたいことは分かるとか、そんなイメージだろうか。
理解とは筋道を立てて、それが必要とされることを説明できるようになる意味だと思う。
何かを理解したいとする。
ここでは真実を求めているとする。
とするも、四苦八苦して考えても、求不得苦があり、
求めるものは求めるほど、得られないとする。
自分の事物の捉えた方が間違っているのだろうか、
という懐疑が起きる。
もはや何が何だか分からない。
頭にあるのはモヤモヤした何かであり、
頭はその解消を求める、しかし、また、何かを求めてしまった、その結果として、またもや求不得苦により、
それはうまくいかない。
と、そんな時はどうすれば良いのだろうか。
自分が観念的な考えかたに縛られているために、そんな苦しみが起こるのではないか、
とも考えられる。
何事も反省が大事かも知れない。
毎回毎回、同じ罠にかかっているのではないだろうか。
思考の罠、人間の頭脳はそんな便利にできていないかも知れない。
本能や環境に支配もされている。
それらから自由になることも難しいことなのだ。
分かるけれども、理解できないことの苦しみはどうやって解消したらいいだろう。
とりあえず時を待つとする、
それで、時間的経過でまた霧散して分からなくなる。
また、同じことを考え出す。
しかし、本人は何をしているのか分かっていない。
恐らく脳は考えることを欲しているが、
その他の身体はそれを欲していない、
また、心は置いてけぼりになっている。
だとすると、そもそも考える意味自体がないのだろうか。
その状態で考えることで何か得られるのだろうか。
何かが得られたとしても、それは一体何なのだろうか。
その正体も分からない。
でも、考え方がそのように正しくなくあれば、
得たものもまた、正しくないのではないか。
そもそも脳の使い方を間違えているかも知れない。
こんな観念的なことでは実践にはとても及ばない。
一体、何をしようとしているのだろうか。
考えるだけで何かを得ようとすること自体が浅ましいのかもしれない。
気づきを得たいなら、何か他のことをしなければいけないのかも知れない。
その堂々巡りをまた繰り返してしまう。
これは脳の構造的欠陥なのだろうか。
人間は脳だけでできているのではない。
しかし、脳的な処理は優先度が高いのだろう。
それで一人走りしてしまうのではないか。
以上、考えでみたが、よく分からないことを考察してみた。
こんな文章は欠陥だらけなので、
人が読むのに耐えないと思います。
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![吉谷匡将](https://assets.st-note.com/poc-image/manual/preset_user_image/production/i04f97ff72d86.jpg?width=600&crop=1:1,smart)