「グラスルーツ」は、アンダーカテゴリーや育成の議論の対象外なのか?
『グラスルーツ』という言葉があります。
「grass=草」、「roots=根」。草の根の運動などと訳されている言葉です。
元来は、政治における、民衆とか一般市民など人々の声を反映させるべきとする思想から由来しているこの言葉が、サッカーをはじめとするスポーツの世界でも使われるようになっています。
「持たざる人々」は淘汰されないといけないのか?を問う
中学生バレーボールで、現在手探り的に動いているものの一つに「部活動の地域移行」というものがあります。学校で働く教師の働き方改革などが主な趣旨となっているようですが、この方針により、各地では学校の部活動チーム以外のクラブチームが平成期までよりも増えてきているように感じます。「全日本中学校 バレーボール選手権大会」(全中)は、中学校教育の一環として、中学校生徒に広くバレーボール競技実践の機会を与え、技能の向上とアマチュアスポーツ精神の高揚を図り、心身ともに健康な中学校生徒を育成するとともに、中学校生徒の相互親睦を図るものという位置付けで、(公財)日本中学校体育連盟(中体連)などが主催している大会です。事実上、中学生バレーボールの集大成としての大きなタイトルとなる大会となっていて、中学バレー日本一決定戦となっているものですが、従来は中体連に登録している中学校の「部活動」チームによる参加に加えて、令和期になってからはクラブチームの参加も認めらるようになってきました。
そこで何が起きているのか?
コロナ禍以前のスポーツ指導現場での大きなトピックスの一つに「勝利至上主義への警鐘」があります。
日本一決定戦が毎年あることをターゲットに熾烈な競争が繰り広げられています。そして、その競争が過剰となった結果、指導という名の下での暴力や暴言、過剰な練習量やオーバーワーク、バーンアウト・・・などの問題が表面化していきました。
この問題と、部活動指導をしている教師の過重労働の問題「働き方改革」が重なり、部活動の地域移行の議論が進み、バレーボールでは、中体連大会にクラブチームの参加が認められるようにもなりました。
そのような情勢下、地域や都道府県によって動きは違っているのかもしれませんが、もうすでに、中体連大会の競技結果をみて上位にクラブチームの名前が見られるようになってきました。
コロナの前後では、様々な情勢が変わってきました。
中学生バレーボールの現場では、従来、自分の通う学校にバレーボール部がない生徒の受け皿としてのクラブチームが多かったです。しかし最近では、より高いレベルや競技結果を目指し、志ある選手が集まり・集めて構成されるクラブチームが積極的に設立されているように感じています。
部活動チームですと、必然的に指導者は学校の教師が務めることが多いです。しかし、最近のクラブチームの増加、しかも勝利追求志向の強いクラブチームの増加によって、部活動を指導する学校の教師が、部活動ではなくクラブチームの指導者に変わる事例も増えてきました。(ちなみに私はメインが学校部活動チームの指導、クラブチームの指導はお手伝いしている現状です。)
何事にも一長一短があるわけですが、このような動きの中では、公立学校部活動チームの指導者の確保が困難にもなってきています。さらには、強化志向の強いチームに選手が流れていくことによって、もともと地域に根差して活動してきたクラブチームから選手が流出して維持が困難になる事例も各地で発生しています。
チームの目的や目標は、多様性があるべきものではありますが、その多様性の中で、新たな無用な軋轢や対立が生まれているような気もしています。
このような混乱は、時代の過渡期であるがゆえにしょうがないことなのかもしれません。
公立学校の部活動にできること、結果重視強化型クラブや私学にできること
公立学校(中学校)の部活動チームで学校の教師が指導者として活動する場合、
まず、毎年新入部員は、どうなるかわかりません。そして大体は小学バレー未経験者が、何となく興味をもって入部してきます。ですから、運動経験や体力なども個人によってまちまちです。
特に公立中学校では、会費や月謝というものはほぼ発生しません。ただ、学校全体の部活動を円滑に維持していくために、年間で数千円の活動費みたいなものを納入することはあっても、毎月収める会費は不要なことが多いです。
近年の私の学校での部活動でいえば、一年間の中で長距離移動や宿泊をともなう遠征や合宿は実施していません。(保護者に意見をきいてもそこまでは不要という声が多かった)これも指導者の趣向によりますが、チームで購入するウェアやシャツ等もさほどありません(私の部活動の場合は購入は任意)。このように、コスト負担が大きくないというのが公立学校の部活動のメリットかもしれません。
これに対して、強化型のクラブや私立学校は、活動費、遠征費、ウェア関係などで、費用負担は大きなものとなります。ですが、その分活動の規模は大きなものとなります。遠征や合宿の機会も増え、上位大会の出場の回数も増えます。高い目標とバレーボールに対するモチベーション、取り組む姿勢や意識が高い生徒や保護者集まりますので、その環境で育まれるものは大きな財産になると思います。そして、その中で得られる実績や競技結果は、次のカテゴリーや進学のアドバンテージにもなっていきます。
この公立学校の部活動チームの地域移行、クラブチームの増加、私学チームの強化・・・こういった流れの中において、お金をかけることはできない、さほど技術が高いわけじゃない、「ハイキュー!!」を読んで興味で・・・そういった子供たちが長く、そして広くバレーボールを楽しめたり挑戦できる環境が狭められてきているのではないか?そして強化志向ではない、生涯スポーツやレクリエーション的なバレーボールの機会や場に対するリスペクトがなくなってくるのではと危惧しています。
大会一つとっても、数千円の参加費を払って出場し、残念ながら初戦で敗退などすれば、その後の補助役員などをし、移動を含めて、その一日が終わる。公式な大会がそのようなものだから、何か搾取感みたいなものしか残らないのが良くない。登録料、大会参加費、勝者への合宿プログラムの機会・・・など、どれもエリート側に恩恵が行くばかりで、そうじゃないところには、何の手当もなされていない現状を憂いています。欲しければ勝て、それか、自分たちでやっとけ・・・みたいな空気が晴れません。
私が思う「育成」とは?
近年、日本のバレーボールも他競技から影響を受けてなのか、「育成」とか「アンダーカテゴリー」という言葉が当たり前のように聞かれるようになりました。
育成、育成年代・・・いろんな話題で登場しますが、その「育成」の意味にはものすごく幅があると思っています。
例えば、日本代表チームやVリーグチームでの強化・発展を考えた時の「育成」という場合、その対象はエリートまたは比較的キャリアと実績のある、選ばれし人々のレベルアップを指していると考えます。
これに対して、バレーボール指導者の一端にいる私が「育成」という言葉を使う場合、選抜やセレクトされたエリートの選手たちよりも、対象はと考えています。
「育成」という言葉に対する意味付けについて、どちらが正しく間違いかを論じたいわけではありません。むしろどちらも大事です。
ここで私が考えているのが、「育成」という言葉自体や思考が使われるとき、「狭義の育成」に議論が偏っている点が課題であるということです。選ばれし選手たちをさらに伸ばしていくということは、もちろん選手の人生にとってもチームの強化にとっても不可欠です。
しかし、バレーボールの指導やコーチングの議論、普及や強化の議論をみていると、モデルケースが日本一になったチームや選手だったり、話題が全中やJOC、春高バレー、全国選抜などに焦点化されやすいです。そこには、選ばれし一握りの選手たちの陰に、ものすごくたくさんの選手たちや、そんな選手たちと日々バレーボールでつながる指導者の方々が埋もれているわけです。彼らは「育成」の対象外なのでしょうか?いやむしろ逆で、彼らにこそ「育成」の手が差し伸べられなければいけないのではないでしょうか?
日本代表やVリーグの成長や躍進は、強化の成果や結果であって、育成の成果や結果ではないと思っています。
アンダーカテゴリーのチームで強いとされる要因
私がここで用いる「育成」は、小学生~高校生年代のもちろんビギナーを含めた「広義の育成」という意味を指します。
ですので、私はこれらの年代においては、競争至上主義よりも「育成」を主眼にした取り組みが重視されるべきだという考えに立っています。もちろん、競争を否定するものでもありませんし、無くすべきだとも考えていません。
しかし、現実は、もはや体格も人格も未発達未完成の小学生カテゴリーから熾烈な日本一決定戦が行われ、そのタイトル獲得のために多くの大人が振り回されていると思っています。
その中で、いわゆる日本一またはそれを狙えるようなチームには、以下のような指導スタンスやチームづくりのコンセプトが働いていると考えます。
この状態を、私は「選択と集中」の原則になっているのだと考えています。
早期選抜、早期特化を行い、シンプルなタスクやパターンの練度を上げて、無駄なミスやエラーを抑止することでの失点防ぐ。これが勝敗に直結しています。
選手(子どもたち)が自分で課題を見つけ、試行錯誤を行いながら、自分で最適解をつかんでいく・・・そのような状態では、正解も完成もあるはずもなく、むしろミスやエラーなどの失敗は貴重な教材やデーターとして蓄積しなければいけないものなはずです。
しかし、そんなことをやっては単年度の1年勝負で毎年タイトル争いをする環境では、ほとんど望む目に見える結果を出すことはできないのです。
「上ばかりみるなよ」・・・子供、普及、育成・・・いつも必ず残る違和感
では、日本のバレーボールにおける「広義の育成」はどうなっているのでしょうか?そしてどうなっていくのでしょうか?
残念ながら私は、日本のバレーボール界における「育成」の議論には不満を抱いています。「広義の育成」が放置されているからです。
「発掘」や「エリート」という言葉にも象徴されていると思います。大勢の中で、芽が出ているもの、光を放つものをピックアップしていく概念が根強いのだと思います。もちろん、そういった逸材や有能なタレントは、いつの時代にも一定数は出現するのかもしれません。
「底上げ」、「底辺拡大」という言葉も昔から言われています。しかし、バレーボールの指導現場にいて、何かダイナミックでドラスティックかつラディカルに取り組みや仕組みの変革が起きたことはありません。
強いて言えば、
2012年に発刊されたバレーボール百科事典『バレーペディア』 改訂版やその指導DVDとなった『 テンポ 』 を理解すれば 、 誰でも簡単に実践できる !!世界標準のバレーボール(全4枚)の発刊。2017年に出版された、日本バレーボールの指導教本の改訂「コーチング・バレーボール」(基礎編)の登場などがポジティブな動きではありますが、広くアンダーカテゴリーの現場を見るに、大きな変化が起きていないと感じています。
現在、日本のバレーボール男子のトップカテゴリーは急成長を遂げています。日本代表チームは、世界の中でメダルを狙う位置になっており、日本の国内リーグも大きく国際化するものになる期待があります。
これに比して、小中高校のバレーボール指導は、特にエリートやキャリアという世界から遠い人々には、その恩恵や影響は届いていないと思います。そしてバレーボール界の発展とか強化と称しながら、現状は多くの人々が振るい落とされているのではないかと思います。
「早期の選抜・特化・集中」ばかりに依存しないバレーボール指導の存在意義
「選択と集中」を否定したいのではありません。選抜したり特化するといった仕組みや現象が発生していくのは、人間社会の構成においてはむしろ自然なことなのかもしれないと認識しています。
公立学校における部活動が将来的に地域移行していく方向性を模索している中、これまでのように学校の中に、部活動があって、多様なクラブがあって、経験の有無に関係なく、その学校に入学した生徒が、興味関心によって気軽に取り組むことができる。こういった機会が減っていかないか気になります。
勝つ実績、輩出する実績、教育、人格の形成・・・それを言う前に
小学生、中学生、高校生・・・別にどこのチームが勝ってもいいです。勝つ喜びを求めて挑戦し、勝者は勝者として得られる学びや成長を、敗者として得られる学びや成長を・・・その両者に軽重などありません。
しかし、「勝利至上主義」という言葉が飛び交うようになって久しいわけですが、
そういうことを言いながら、結局は「選択と集中」や「狭義の育成」に走り、結局はその時点で要求に応えられない選手たちが、次のチャレンジへの機会を失っていく。長期的視野でみれば多くの選手が育成の対象にならないのは、大変もったいないことだと思います。
指導者や保護者の世界でも、しばしば、他者に対するリスペクトに欠ける言動が出たり、排他的な思考によって無用な対立やトラブルが生まれやすくなっています。
小中高校カテゴリーで、どこが勝っても別にいいのです。でも、それぞれが与えられた環境で最善を尽くそうと取り組んでいることは、互いに尊重すべきです。それぞれに学ぶべきことはあるはずです。この多様性が担保されなければ、バレーボールは存亡の危機に瀕していくのではないでしょか?
「できる人たちができる練習」の謎
バレーボールの指導者講習会や研修会、指導教材映像などをみていると、多くが日本一になったチームや全国大会に出場するようなチームの指導者によるものが多いです。それ自体は否定するものでも批判するものでもなく、むしろそういった方々のノウハウや思考法に触れることはとても貴重な機会です。
しかし、受け取ることができる情報・・・練習内容や練習方法、解説やシチュエーションの言語化は、モデルとなっている選手たちでしか成立しない練習やドリルがほとんどです。
いわば、ミスやエラーもなく流れるように一糸乱れずプレーする、完成された練習やプレーを提示され解説を受けることが多いのです。「できる人たちができる練習」を紹介されることが多いのです。これでは、私どものような、全員がビギナーでボールコントロールもままならない段階の選手たちに、練習方法やドリルを移植しても、その練習自体が成立しません。
「練習」とは、トライ&エラーを繰り返しながら、今できていないことを、できるように、または「できる」に近づけるように試行錯誤していくものです。
アンダーカテゴリーにおける「育成」の議論や取組が深まらないのは、指導者が学ぶ機会やその内容の在り方にも要因があるのではないでしょうか?
学ぶべきは、勝者の結果の姿やパフォーマンスだけではなく、そこに至るまでの系統性のあるプロセスや学習方法、観察の視点や試行錯誤のアプローチなのではないでしょうか?
育成や指導においても、構造的にとらえるところから
勝ったか勝ってないか、発言力や説得力・・・そういうことが大事ではなく、「みんなで探求する」、「みんなで試行錯誤する」、「みんなでディスカッションをする」ということが大事なのです。
そして、何を探究し、何を試行錯誤をし、何をディスカッションをするかといえば「バレーボール」なわけです。そこに立場も実績も発言力も、本来関係ないはずです。
①バレーボールの性質
②バレーボールの構造
③バレーボール指導の系統性
④選手のスキル習得のメカニズム
こういったことは、バレーボールの指導に関わる者であれば、カテゴリーや競技レベル、指導年数や競技経験に関わらず、すべての人間が学び、情報を共有し理解を深めておく最低限のことだと考えます。
そのカテゴリーでの指導エキスパートは、何もすべてのカテゴリーをパーフェクトに指導できるものではないと個人的には思っています。
しかし、例えば、トップカテゴリーのコーチが、アンダーカテゴリーの指導や指導に関する知識を「知らない」「関心がない」と一蹴するのは、私はよろしくないと考えています。その逆も言えます。小学生や中学生への指導のエキスパートがいたとしても、トップカテゴリーのバレーボールを「知らない」「関心がない」というのもいただけません。
こういうのも、バレーボールの性質や構造をとらえるということへつながっていくものです。木を見て森を見ず、森を知って木を知らずではいけないのです。
まさに、思考や議論の共通項となり得る「土台」や「前提」が、日本のバレーボール界にはまだ出来上がっていないのではないでしょうか?
「まち部活」「まちクラブ」の存在意義も守りたい
選抜されたり、発掘される選手というのは、氷山の一角のなかのさらに頂上付近の一握りの選手たちです。そのような素晴らしい素質を兼ね備えた選手たちは、若くして高いモチベーションと将来的な高い志や野望、目標をもって取り組んでいます。
一方で、バレーボールとの「偶然の出会い」をしている子供たちも大事です。彼らが繰り広げるバレーボールは、「バレーボールとは何か?」を学ぶことができる貴重な教材でもあります。彼らが、毎日見せるプレーは、大人が考える「バレーボール」には遠い「カオス」そのものです。
そんな「カオス」を、ともすると観ている大人や指導する大人は歯がゆく苛立つかもしれません。それでも、子どもたちにチャレンジの空間を提供すると、彼らはミスやエラーさえも楽しんで、時間を忘れてボールを触るのです。
そんな強豪クラブや強豪私学にはない、「まち部活」や「まちクラブ」からはエリートは選抜されにくいかもしれません。ですが、彼ら人生とバレーボールの出会いはとても大事なものですし、それをつなぎとめている指導者も素晴らしいのではないでしょうか?
バレーボールとの出会い、ビギナー、初心者、初級者・・・「グラスルーツ」という言葉を通して、すべての人々に、機会やチャンスを、学びの場を・・・。そういったコンセプトを考えた時、日本のバレーボールでは、「広義の育成」や「LTAD」、「チャレンジの多様性」、「多様性へのリスペクト」といったものには、まだまだ伸びしろがあるというか、未開発であると考えます。
日本の男子バレーボールの近年の急成長は大変すばらしいものがあります。これを持続可能な日本のバレーボールの発展とするためにも、未だ手つかずといっても過言ではない、アンダーカテゴリー、グラスルーツへの考察もみんなで取組んでいきたいものです。
(2024年)