困難を回避する人たち
はじめに
最近ジムに行き始めまして色々な気づきを得ることができました。
例えば、私は体を鍛えるということが割と好きだったということ。
気づけば2時間くらい使っているんです。
自重トレをしている時はある時から筋肉痛を起こさなくなりましたが、ジムは重量を扱うからか行った後は筋肉痛に絶対なります笑。
他にも、筋トレをしても眠りが改善するわけではないということがあります。
始めて1ヶ月くらいなのでまだ効果が現れてないだけだと思いますが、眠りの効果はすぐに現れるものだと思っていました。
眠りの質を改善するには筋トレ以前に生活サイクルを変えることのほうが重要な気がします。
さて、筋トレをしていると必ずと言って良いほど困難が立ちはだかります。
私の場合は「思ったよりも重量を上げられなかった」ということでした。
数年前は荷揚げという仕事をしており、40〜80キロくらいの荷物を階段で登って指定の場所に置くということをしていたので、そこそこの重量を持ち上げる事ができるだろうと思っていました。
しかし、ベンチプレスは60キロ、スクワットは80キロ、デッドリフトは85と、どれも100を超しませんでした。
考えてみれば、荷揚げでは100キロを超すものは1人で持つことは少なかったので筋力は平均よりもちょっと上くらいなので当然といえば当然なのですが、当時の私にとってこれは結構くるものがありました。
特に、ベンチプレスが全然持ち上がらない事は少し悔しかったです。
このような困難、この場合は理想の自分とかけ離れた現実というものを思い知らされた時、人によって異なる行動をします。
現実と向き合い懸命に努力をする人もいれば、現実を受け入れられず逃げてしまう人もいます。
今回は、現実から回避してしまう人たちにフォーカスを当てて、困難との向き合い方を発信していきたいと思います。
逃げる人々
困難から回避する人たちはあらゆる困難に直面する事ができません。
彼ら彼女らは、困難な状況に陥るとまるで神に祈りを捧げるように手を組んで何もできなくなります。
仕事に遅刻をしてしまい上司に注意をされた人がいました。その注意はとても軽く、上司は「俺も時々やるし仕方ないよな」とフォローもしていました。
ところが、注意を受けた人は次の日から頭痛や微熱、咳などの理由で休むようにやりました。
最初は運が悪く風邪を引いてしまったとみんな心配していましたが、それから10日以上一度も出勤してこないところをみると、仮病だろうなと勘付くようになります。その人はいまだに出勤をしていません。
なぜ注意を受けたくらいで出勤しなくなるのでしょうか?
この問題を探求するにあたり、主観的な憶測を語ってはならないという点があります。
上記の客観的事実だけで「あいつは無能なんだ」とか「甘えん坊で小さい頃から甘やかされて育ったに違いない」と思ってはいけません。
それは勝手な思い込みによる評価に過ぎないからです。
彼がなぜ出勤しなくなったのか、その根本的な理由は誰もわかりません。
しかし、このケースを困難を回避する人たちの一例に当てはめて考察をするというのは面白い提案ではないでしょうか?
先ほども書いた通り、困難を回避する人たちはあらゆる困難の前に無力であるかのように振る舞います。
私には困難に直面するだけの勇気がないだとか〇〇が原因で困難に立ち向かえないだとかを語り始めます。
結論からいうと、それらはただの言い訳に過ぎません。
ただ、間違ってはいけないとは彼ら彼女らは本気でそれを言い訳だと思っておらず、ちゃんとした理由であると述べています。
これには根本的に人生の見方が異なることを示しています。
原因論と目的論
アドラーはフロイトの「原因論」とは対極の「目的論」という理論を提唱しました。曰く、「人の行動には必ず目的があり、理由を後付けしているのだ」と。
原因論について簡単に説明しますと、全ての出来事は過去の出来事が理由となって起こるという理論です。鬱になるのは仕事でとても嫌な事があったからだとか、リストカットをするのは昔酷い虐待を受けたせいだ、というのです。
原因論では、過去にアプローチを行い治療をしていくというもので、現在の心療内科や一般的な思想にはこの理論が多く広まっています。
しかし、原因論には大きな穴が存在します。仕事でとても嫌な事があった場合、全ての人が鬱にならなければならないし、酷い虐待を受けた人は皆リストカットをしていなければなりません。
現実はどうでしょうか?仕事でとても嫌な事があった結果、転職をして次の職場でイキイキと仕事をしている人もいれば、嫌なことを上司や仲間と相談して対策を打ち、今も懸命に仕事に取り組んでいる人もいます。これは虐待を受けた人にも当てはまります。
もちろん、個人個人で意識に違いがありますし、受けた教育も千差万別なのですから当たり前と言ったら当たり前です。ただ、原因論ではこの当たり前が除外されているように感じます。
アドラーが提唱した目的論については上記の通り、先に目的を作り後から理由を装飾しているという考え方です。
仕事で鬱になった人について当てはめてみましょう。彼ら彼女は、実は鬱という病を欲しており、理由としてたまたまそこに転がっていた「仕事での嫌な事」という理由を掴んだのです。他にも「仕事でのやりがいがなくなった」とか「彼彼女から嫌われただろう」だとか、掴む理由は人によってさまざまでしょう。
リストカットも目的論を基礎にして考察することもできます。リストカットをする事で何かしらの目的を達成しているのです。例えばそれを写真に撮ってSNSにあげ、心配される事で承認欲求を満たすとか親に迷惑をかける事で復讐をするなどです。
彼ら彼女らは基本的に原因論を元に物事を考えているように見えます。過去に起きた出来事を理由にして、困難に打ち勝つ努力を怠ります。
過去は変える事ができません。それはどうしようもない事実です。変えられないものにフォーカスしていても意味がないと私は思います。
困難に直面する勇気を持て
彼ら彼女らは事あるごとにに変わりたいと言っています。こんな自分は嫌だ、もっと前向きになりたいと。しかし、過去をずっと見続けているのですから考え方からしてすでに後ろ向きであることに気づいていません。
困難とは常に私たちの目の前に存在します。過去でも未来でもなく、今そこに在るのです。過去を見る人は困難から常に背を向けて直面する勇気を持ちません。
このような人が困難に直面するにはどうすれば良いでしょうか?
私は、「今この時を生きよう」という勇気を持つことを提案します。過去でも未来でもなく、今この時この瞬間を真剣に生きるということです。
あなたはこの記事をパソコンで見ていますか?スマートフォンですか?タブレットですか?右手で持っていますか?左手で持っていますか?今どんな服装なんですか?椅子に座っていますか?ソファに座っていますか?それとも立っているのですか?
困難に立ち向かうには訓練が必要です。訓練の仕方には色々な方法がありますが、まずは自分の状態を正確に把握する事が重要です。どのように困難を考えているのか、自分はこれからどうするつもりなのか、なぜ困難を回避しているのか、回避する目的はなんなのか…
困難に立ち向かおうとする決意も立派な勇気です。大切なのは今から一歩まえに足を踏み出す事なのです。時間は有限ですがここにあります。わからなくなったら他人を頼りましょう。人は頼りにさせることに喜びを感じます。勇気を持って一歩を踏み出したら、また一歩踏み出して他者に相談してみましょう。
最後に
困難を回避することは容易なことですが、困難を通り過ぎることはできません。回避し続ける限り、困難はいつまでもそこにあり続けます。
大切なのは困難に立ち向かう勇気を持つこと、どう立ち向かうかを考えることです。エッセンシャル思考の著者であるグレッグ・マキューンも考えることの重要性を著書に書いています。
行動を起こす前にしっかりと考え今後の人生設計に役立てましょう!
ここまで記事を読んでくださり本当にありがとうございました。次に何を書くかは考え中です。
では、また次回。
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