私という男 #1幼少時代
サラブレッドテンヨク、爆誕
1988年10月6日
中国の武漢で私は生まれた。
私はサラブレッドである。
というのも、父は中国代表にもなったことがあるバスケットボール選手だった。
私が高校時代、東海大学から誘いがあり陸川章監督と初めてお会いした時、その場に父も同席していた。
双方は会うや否や代表時代に会ったことがある話になり、主人公である私をよそに勝手に2人で盛り上がっていたことを覚えている。
母は走り幅跳びの陸上選手だった。
本当のことかどうかは分からないが、本人曰く、未だに小学校で跳んだ記録は誰にも破られていないという。
「どうしたら身長が大きくなりますか?」
とよく聞かれることがある。
しかし両親ともに身長が高かった為、私はこう答えざるを得なかった。(父:190cm、母:170cm)
「遺伝子です。」
私が体格に恵まれたのは間違いなく両親のおかげである。
保育園はパンツから
両親に連れられ渡日したのは5歳になる手前。
福岡県三井郡大刀洗町という小さな田舎町で私は育っていく。
父も母も日本で生活するために日本語を学びながら働いた。
故に私もすぐに保育園に入れられたのだが、保育園のしおりを読んだところで分からない母は、私を通わせながら必要な物を揃えていった。
言葉では伝わらない為、ジェスチャーや絵に描いて先生とコミュニケーションを図る。
この日も母が仕事を終えて私を迎えに来た時、先生は母に何かを伝えようとしていた。
私はこの2人がどういうツールを使って意思疎通したかは分からないが、どうやら
「パンツを履かせてください。」
という事だった。
その時代の中国では幼い子供にパンツを履かせる習慣がなく「開襠褌(カイダンクー)」という股のところに穴が空いているパンツを履かせるのが主流であった。
故にそれまで私は毎日、
ノーパンだったのである。
ズボンの中にまたズボンを履かせるなんて!ぐらいの感覚から面を食らった母は、その日の帰り道に総合スーパーで3枚セットの白ブリーフを買ったのである。
バスケットボールを始めたきっかけ
小学校に上がった私は野球をしていた。
というのも校区内には野球チームしかなかったのである。
しかし、その野球も長くは続かなかった。
そこで、何かしら私にスポーツをやらせたかった両親は知人に頼みクラブチームを探した。
そしてそこで紹介されたのが違う校区のミニバスチームだった。当時の私は小学校3年生。
それまで行きたくないとよく泣いていた野球とは違い、家から遠く離れた体育館まで雨の日だろうと自転車で通い詰め、皆勤するほどにバスケットボールに恋をしたのである。
これが私のバスケットボールとの出会いである。
父に鍛えられた小学校時代
小学校4年生に上がった私は父の仕事の都合で福岡市内にある学校に転校することになる。
当時、ミニバスチームは存在したものの正式な顧問は存在せず、数名の保護者がその役を担っていた。
そしてそれを聞いた父は張り切った。
まるで自分の使命かのように私を本格的に鍛え始めたのである。
死ぬことを恐れるな。
疲れることを恐れるな。
苦を飲むことを恐れるな。
まるで格言みたいなことを言いながら、小学生相手に鞭を打った。
クラブで練習する時は体育館で、クラブが休みの日は学校のグランドで、父に連れられ特訓する日々。
当時の私は、この父との特訓がキツくて投げ出したくなる時もあったが、父は自分が現役中に得た全てのものを私に教えようとしたんだなと、大人になって私はその気持ちが分かるようになった。
小学校5年生の文集を見返したらプロになると公言している自分がいた。
当時、どのような気持ちでここに書いたかは覚えていないが、もしかしたらこの時には既に父の背中を追い越したいと思っていたのかもしれない。
不良から留学生に
中学校に上がった私は不良になっていた。
何故なら私が通う学校はヤンキーが多かったのである。
「環境が人を変える」と良く言われるが、当時の私はまさにその"環境"に影響された。
不良らしく"腰パン"に"シャツ出し"、喧嘩上等の第二ボタンももちろん開けていた。
根は真面目、だけど舐められたくない。
そんな中途半端な中学生が団地を溜まり場に粋がっていたのである。
実はその頃、そんな私を見兼ねた父は母国語の勉強とバスケットボールの上達も併せて中国への逆留学を企てていた。
母はこの突然の決断に不満があったらしいが、父は一度決めたら曲げない頑固者だった為、私と母はなすがままに帰国した。
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