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私という男 #4三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ時代
母に見送られて
「すいません、これで写真撮って下さい」
2011年3月31日
私と母は新幹線のホームにいた。
スーツを着て母に見送られようとしている私は今、社会人としての門出に立っている。
これから私は"会社員"として、そして"選手"として三菱電機に入社するために新幹線に乗ろうとしていた。
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大学4年生に三菱電機ダイヤモンドドルフィンズから声がかかる。
「プロのバスケットボール選手になる」という子供の頃からの夢がようやく叶った瞬間であった。
社員契約かプロ契約か
私が入団する時、社員契約とプロ契約を選択することができた。
社員契約は社業をしつつ三菱電機ダイヤモンドドルフィンズの選手としてプレーをする。
給料は新入社員と同じである。その代わり引退しても三菱電機という大企業の社員として定年まで働く事ができるというメリットがある。
一方、プロ契約は文字通りお金を貰ってプレーをする。故に毎年、年俸の交渉をする必要がある上に戦力外通告をされたら職を失う。
しかしその反面、バスケットボールだけに専念できるのがメリットの一つである。
母は私に"安定"の道を歩んで欲しいと思い、私も長くプレーしたいと思っていた為、母の想いも汲みつつ
「社員契約」を選んだ。
スーツに作業着に練習着に
朝からスーツを着て出社し水色の作業着に着替える。スリーダイヤのロゴが入った帽子を被り、つま先に鉄板の入ったブーツを履けば仕事の始まりである。
三菱電機ダイヤモンドドルフィンズは名古屋にある工場を拠点とする。
そのため社員の私はスーツではなく作業着で仕事をするのであった。
私が配属されたのは「営業部変圧器課」
工場と代理店の間に入り、納期や価格設定、その他対応をする立ち位置にあたる。
正直、体育会系で上がってきた私には分からない事だらけで上司に聞いても「なんでそんな事もわからないの?」ばりの顔で対応されるので聞くことすら苦痛であった。
そして聞いても分からない為、私は毎日ストレスに押し潰されそうなっていたのを覚えている。
正午12:00
社食であるお弁当を食べて作業着を脱いだらまたスーツに着替える。
工場を背に体育館に歩いて向かい練習着に着替えたらようやく私はバスケットボール選手になれるのであった。
学生から入った私にとって、この水色の練習着に袖を通すことが何よりも嬉しくて、そしてこの"練習"が私にとって一番の楽しみでもあったことが今でも懐かしく思う。
研修論文
三菱電機は新入社員に対して入社してから一年間、研修期間を設ける。
そして研修を終える最終過程で論文を発表する必要があるのだが、私も例外なくバスケットボールをしながら研修論文を作成し、みんなの前で発表した。
発表当日、私は無事にやり遂げたが研修論文を作る、それまでの期間は私にとっては苦痛でしかなかった。
内容を提出しては上司に数え切れない程、訂正され、また修正案を書く。
午前中だけの社業時間だけでは時間が足りない為、午後の練習が終わってまた会社に戻り、その作業を繰り返した。
深夜を回る時間までデスクの前でパソコンと睨みあったり、オフの日に休みを返上して出社したりと、バスケットボールに集中したいのにできない状況に心が折れそうになる。
そんな時、いつも頭に浮かぶのは大学時代に聞かされた陸さんがNKKでプレーしていた頃の話であった。(陸さんも現役時代にバスケットボールをしながら社業をしていた)
当時の陸さんがバスケットボールと社業を両立していた時の話を思い返すと、自分の置かれている状況なんてまだ可愛い方だなと。まだまだ自分はやれるなと。そう思わせてくれるのである。
2011年4月12日
私はいつものようにスーツを着て会社に向かおうとしていた。
そんな矢先、携帯が鳴ったので画面に目をやると母からの電話であった。
「お父さんが危篤状態になった」
その電話で母からそう告げられた。
父はもともと癌を患っていた。
2010年、大腸に癌が見つかった時には既に肺にも4か所転移しており肝臓にも影が見えていた。
その時から大腸癌治療のため腸の一部を切除して抗がん剤治療を始めたが、その翌年2011年には肝臓の癌が大きくなり黄疸と浮腫(むくみ)が見られた。
そして4月12日という今日にとうとう危篤状態になったことを母の電話で知るのである。
私はその場で泣き崩れた。
時間は朝8時過ぎ。
今から名古屋を出ても東京の病院に着くのは昼を過ぎてしまう。
どうしたらいいか分からず途方に暮れていた時、何故か頭に浮かんだのは陸さんだった。
私は電話をしたところで状況は変わらないのに、気付いたら陸さんに電話を掛けていた。
電話に出るなり泣きながら状況を説明する私の声を冷静に聞いていた陸さんは落ち着いた口調でこう話した。
「今すぐ向かいなさい。」
私は意を決して会社に電話をした後、新幹線のりばに向かった。
病院に着いたのは11時を過ぎた頃であった。
病室のドアを開けるとそこには父の手を握ったまま泣いていた母の姿があった。
それを見て私は悟ったのである。
「間に合わなかった」と。
私は父を見ながら立ち尽くしていた。
「本当に死んでいるの?」
そう疑いたくなるほど穏やかな顔をしたまま父は目を閉じていた。
「手を握ってあげて」
母は放心状態の私に優しく話しかける。
私は涙を堪えながら父の手を握った。
いつぶりだろう。
最後に父の手を握った時を私はもう覚えていない。
久しぶりに握る父の手は大きくてゴツゴツしていて、まだこんなにも温かかった。
「ほら、お父さんの顔見てごらん。幸せそうな顔をしているよ。」
母の震える声にそれまで堰き止めていた私の心は一瞬にして崩れ落ち、それと同時に私は言葉にならない声で泣いていた。
意識がまだある時にせめて一言だけでもいい、「ありがとう」と伝えたかった。
たとえ反応が無くてもいい、せめて一言だけでも「愛してる」と伝えたかった。
後悔と悔しさで胸が引き裂かれる。
小学校の時から私にバスケットボールを教えてくれた父に、プロになったユニホーム姿も見せられないまま父はこの世を去ったのである。
父が亡くなったその日の夜。
母と色んな話をした。
今まで聞いたことないような父の話を私は胸を躍らせながら聞いていた。
数日後、父の葬式で泣き崩れる母を見て「俺がしっかりしないと」と私は心の中で強く思った。
火葬される父の棺(ひつぎ)を母と見ながら
「二人で頑張っていこうね」
そう母と交わした言葉を、私は忘れない。
2011-2012のルーキーシーズン
私がチームに合流できたのは6月を過ぎた頃で、その時には既に新しいシーズンに向けてチームは始動していた。
新入社員の私は4月1日に入社してからしばらくの間、新人研修があった為、それが終わるまでは練習に参加出来なかったのである。
初めて練習に参加した日、私は緊張していたのを覚えている。そしてそれと同時にそれまで学生だった私がこうしてプロの選手と肩を並べて練習をしている。そう思うだけで胸が高鳴り自分が誇らしく思えた。
「バスケットボール選手になった」
それが何よりも嬉しくて部屋には自分のユニホームを飾った。
背番号は「0」
新しい環境でプロ選手としてプレーをする。
ゼロからの挑戦という意味を込めてこの番号を選んだ。
私の原点である。
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10月8日
2011-2012シーズンが開幕する。
「お父さん見てる?息子の晴れ姿だよ」
初めてコートに立った時、私は胸の中で父に語りかけていた。
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