私という男 #7ライジングゼファー福岡時代
新鮮さよりも懐かしさ
高校生ぶりに福岡の地に舞い戻った私。
そこには新しい感覚はなく、懐かしい感情が先に行く。
ダイス(小林大祐)、
ヤスさん(山下泰弘)、
さっちゃん(石谷聡)、
こもにー(薦田拓也)、
高校時代の先輩たちに
セイヤ(加納誠也)、
城宝さん(城宝匡)、
とそれまで一緒に戦ったことのある戦友がそこには居た。
「移籍」でこれだけ居心地が良いと感じたのは初めてで、
初日の練習にも関わらず、まるで何シーズンも一緒に戦ってきたかのような感覚に私はなっていた。
開幕11連敗
チームは勝てずにいた。
開幕して7連敗を喫したところで河合HCが解雇となり、それまでACを務めていたボブに指導権が移った。
私はボブHCに代わってからはスタートとして使われるようになったものの、B1昇格へと導いたメンバーのトップが居なくなったのは正直、複雑な心境であった。戦術や起用もガラッと変わるため、選手たちもしばらくは戸惑いを隠せなかった。
それから12戦目にしてようやく勝ちを得るのだが、結局、蓋を開けてみたら"最下位'という、シーズンを通して苦い想いを味わった。
それでも、選手たちは最後の最後まで分離もせず一生懸命戦ったことを私は誇りに思っている。
それは当時のメンバーにいた城宝さんやJさん(波多野和也)、さっちゃん、ヤスさんという"ベテラン"がチームを引っ張っていってくれたからである。
ボブボビの話
彼らは親子である。
そして2人ともユーモアがあり何より温かかった。
私はそんな2人に惹かれたが、彼らを思い出すとスカウティングの思い出が頭から離れられない。
ボブは正直、おじいちゃんである。
故にPCを見るのにも眼鏡をかけ、目を細めていた。
スカウティングビデオは人手が足りないためか彼らがその役を担っていたが、ある日のスカウティングにミーティングルームは少しどよめいた。
どこの対戦相手だったかは覚えていないが、スカウティングビデオの映像が明らかに古かったからである。
大抵、スカウティングビデオは対戦相手がプレーした直近の試合を映像としてクリップする。
しかしその日見せられた映像の中には、明らかに怪我で長期離脱しているはずの選手が映っていたのである。
そして以前も見たはずの個々の特徴がプレーとして、そこに纏められていた。
「Wi-Fiの調子が悪かった」
とどこまでおじいちゃんの言っていることが本当なのかはわからないが結局、未だに本意は明らかにされていない。
今となっては笑える話で70歳近くになるおじいちゃんが一生懸命パソコンと睨めっこしているのを想像すると何とも可愛らしく感じてしまうのである。
スカウティングシートの"相手選手のシュートパーセンテージが何%であるか"を我々に丸暗記させてテストする事もあれば(自分はしっかり紙を見ながら答え合わせをする)、
息子のボビーが相手選手のエースになって5on5に入りシュートを打たれたダイスに「You Loose.」(お前の負けだ)と言ったりと、
(かなりのタフショットで結果はエアーボールだったのにも関わらず)、
どれもこれも今となってはいい思い出である。
そんな味のある彼らに、こうして振り返りながら書いていると
「元気にしているかな?」
と今でも気にかけてしまうのは彼らに愛嬌を感じているからかもしれない。
サラダチキンおじさん
福岡に移籍した私は肉体改造に励んでいた。
それまで一日2食というスタイルを一日3食に戻し、料理もスープ料理メインだった新潟時代から一新して鶏胸肉がメインの食生活に替えた。
白ご飯も玄米に替え、タンパク質は鶏胸肉のみ。
ビタミンとミネラルを摂るために野菜スープをそこに添えた。
週に1〜2回あるチートDAY以外は毎日、毎食このメニューを食べていた。
そして、
「空腹は血糖値が下がる」
当時の山田SCにそう言われ一日3食の食事に加え補食にサラダチキンを食べるようになった。
その為、冷蔵庫には常に10個以上のサラダチキンが備蓄してあり、チームメイトにも
「まーたサラダチキン食べてるよ。」
とイジられるようになったのである。
しかし、この食生活のおかげで新潟時代では97kgあった体重が1ヶ月で92kgまで下がり体脂肪も目標である11%に至った。
「体脂肪が1%下がるとパフォーマンスは1%上がる」
と、いかにも名言風に話していた山田SCが今でも印象深く残っている私だが、その文字通りパフォーマンスも上がっていった。
津山尚大の習慣
彼も福大大濠高出身という地元選手であり、私と同じタイミングで入団してきた。
当時まだ22歳だった彼はまだ垢抜けない印象だったが、持っているバスケスキルは突出していた。
フィジカル、クイックネス、シュート力。
どれもモンスター級であった彼は試合前に必ずすることがある。
福岡時代を思い返すと彼のこの様子がとても印象的だったので、ここに書き残すことにする。
彼は正座しながら歯磨きをするのである。
私は当時その様子を激写していたが、今こうして見返してみても、やはり「ニヤリ」としてしまうのである。
息子の誕生
私が遠征で秋田にいた時、息子は遠く離れた熊本の地で産まれた。
当時のことを思い返すと、今でこそ元気いっぱいに成長する息子の姿を見ることができるが、お産では妻にとっても息子にとっても、それはそれは本当に大変なお産であった。
10月15日
10月10日が予定日であるにも関わらず、それから5日経っても産まれる気配すらないので妻は実母と病院に向かった。
検査でわかったのは、へその緒が絡まっていて、妻のお腹が張ると息子の脈が低下してしまうということだった。
だから陣痛を促す薬でどこまで赤ちゃんの心拍に影響するかモニターで様子を伺うことにした。
10月16日
陣痛が起きるとたまに心音が小さくなってしまうのが確認できた先生方は今後の出産をどのようにしていくか一日かけて話し合ってくれた。
その結果、
「脈が下がる頻度も稀で赤ちゃん自体は凄く元気だから自然分娩でいきましょう。」
と帝王切開ではなくあくまで自然分娩でいく方針で固まった。
妻はずっと前から自然分娩を希望していた為、私たち家族はその先生方の決断に感謝した。
10月17日
この日から促進剤の服用が本格的に始まった。
激痛が走っては遠のいていく陣痛の痛みに耐える妻からひっきりなしに「痛いー。」と連絡が来ていたので私は胸が苦しかった。
そんな妻の我慢も虚しく、この日の収穫は、お印が確認できたことだけであった。
10月18日
妻は朝から陣痛と戦っていた。
いや、正確には昨夜から戦っていた。
日をまたいで深夜遅くまで痛みに耐え、ろくに寝ることもできないまま、朝から二回目の促進剤の服用を開始した妻は、この時には既に痛みに耐えるので精一杯だった為、話もろくにできない程になっていたという。
そんな中、本人が一番辛いはずなのに痛みに耐えながらも、手が痙攣しながらも、
自分の痛みが引いている隙に心配しているだろうと俺のメールに返事してくれたり、
立ち会っている実母に「水飲んだら?」と、気にかけていた妻に涙が出そうになる。
この日、結局朝から晩まで痛みに耐え、子宮口が開いたのは3cmまでだった。
10月19日
昨夜、21時に寝た妻は間も無くして、日をまたいだ深夜1時に分娩台へ運ばれた。
「きついー。」とだけ来たメール。
寝るわけにはいかないと思って起きて待つ私。
そしてその間の様子は実母に頼った。
診察台にいる妻に届くはずもないメールに「頑張れー!!!」と送った。
深夜3時、
それまで2時間ぶっ続けで陣痛と戦う妻に少しでも休養させる為、眠剤を飲ませる。
それと同時に私もそのまま眠りについた。
朝8時。
私が起きた頃には妻は既に痛みと戦っていた。
子宮口は8cmまで開き、出産のゴーサインである10cmまであと2cmのところまで迫った。
そんな時、急に息子の心音が弱くなったのである。
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