私が「いつも、着物で来る人」になった日
着始めると自然と集まってくるという着物。
『七緒』vol.77の特集「箪笥の着物レボリューション」の中身は「譲られ着物」だった。「譲られ上手」さんは着物を着るようになったことを人に言うそうだ。
私の場合、着付け教室には着物で通っているが、知り合いに着姿を見せる機会は節分に行われる三味線発表会オンリー。どうりで私にはお声がかからないはずだ。そこで、先生方の演奏会には着物で行くと決めた。
プロの演奏家が季節ごとに集まる定期演奏会の舞台には芸大を出たばかりの若手から、「舞台にのるのは生涯で最後の日」というレジェンドまでいて、ドラマが満載だ。夢中で、我を忘れる瞬間が客席にも訪れる。
演奏会のオープニングやフィナーレの曲は舞台に収まりきらないほど大きな雛壇を建てて唄方・三味線方がずらずら、ずらずらり。最上段の皆さんはどうやって上がるのかしらと心配になる規模でやっていた。
さて、残念なことに国立劇場が建て替えで使えなくって定期演奏会は小出しに開催されるようになった。小さなホールで複数の日程を組むのだ。そのせいか、三丁三枚(三味線と唄、3人ずつ)の小さな編成で季節に合わせた曲や大薩摩をガッツリ聴かせようとする連中(グループ)が増えた気がしている。
ここで、大薩摩の説明を試みよう。
歌舞伎座に通っている方は、定式幕の上手にふたりぼっちで現れて立ったままで三味線を掻き鳴らす「幕前大薩摩」を見たことがあるだろう。ひとつの流派だった大薩摩が長唄に吸収され、曲の一部として、獅子や牛若丸の登場を盛り上げるようになった。今回は『傀儡師』を聴くことができた。
さて、舞台が小さくなれば客席の数も減り、横に長い国立劇場の大ホールと違って隠れる場所がなくなった。
目立ちたくない私は……
頼まれもしないのに着物で行っといて「目立ちたくない」とは論外。それでもなんとか、目立たないようにと隅の入り口から客席に滑り込み、後ろから二列目の席に陣取った。
客席を見回すと中央に同じお教室の先輩のお背中が!
いいや。それ以前に振り返った後ろの席にもおひとり、座っていらっしゃるではないか!
暗いし、相手はマスクをしているのでアレ?アレ?となる私。マスクの上に細く描いた眉を緊張させて相手も私を見ている。
が、普段の私は丸メガネで、今日はコンタクトだわ、まとめ髪だわ、着物だわで確信が持てない様子だ。お教室は個人レッスンなので、お顔を見るのは久しぶりなのだ。互いに無言で見つめ合い、いったんは正面に向き直って次の一曲を聴き終えてから声をおかけした。
そして、その後は「私には挨拶がなかったわ」とならないように先輩方を捕まえて挨拶して歩いた。
ああ、もう、冷や汗。
当然ながら、みなさんが着物歴の長い方だ。後ろの席の方はつぼ合わせ(リハーサル)の日は藤紫の濃淡を反転させた白地の鮫小紋だったし、中央に座ってらした方は刺繍がびっしりのお着物だった。唄では決して使わないウラ声で「誰かと思っちゃったわぁ〜」とお世辞をくださった方は辻ヶ花の付下が素敵だった。
着付けも三味線の腕も未熟者でお恥ずかしいが、先輩方には私の成長のドラマを面白がっていただきたい。
それにしても、この中に私に着物を譲ってくださる方がおられるのだろうか?
ちなみに、当日の私のコーデは透けない薄物。裾や袖がとろんとろん揺れる。人間は動くものに目がいくので、最寄り駅までの住宅街でチラ見される回数は夏の縮みの約五倍。着付けそのものも、超絶ラク。講師の先生が呆れていたおはしょりの処理(おはしょりのしょり?)もバッチリ、三角に畳まれて収まるべきところにいてくれる。
工芸ライターの田中敦子さんの着物の本に「初心者こそ、気合いの一枚を」とあったが、いいお着物はなにかと、安心なのだ。色味の点などで「やっぱり、合わなかったのかなぁ……」と悔やみそうになった時も、着心地が良いければ気分がよい。着物に正統派コーデが必要、もしくは希望の方は買い慣れないうちに「入口商品」などで、安く手に入れようとしない。
そんな風に的を絞ると「いつも、同じ着物の人」と思われない工夫が必要になってくる。
京都・井澤屋の「きもの手帳」にはカレンダーと共に、コーデを記録するページが付いているそうだが、そこへ書き添えるのが「誰と会ったか」だ。「また、同じ?」を防ぐ目的? それとも、マナー違反なのだろうか……。