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【定番をめぐる】vol.1-4清水寺|あの世への入口、坂に潜む様々な物語
すっかり更新が止まってしまっていた。継続することは難しいが、今書いているのでそれで良い。さぁ、京都にいるつもりで足を進めてみよう。
こちらが前回の記事。ここでは、五条という場所と主に秀吉について書いている。
鴨川から東の「あの世」へ
もう一つ前のエピソードで、鴨川が平安京の東の境界線であると同時に当時の人々にとっての「生」と「死」の境界線でもある、と書いた。
松原橋を渡って、川の向こう側へ。冥界に入っていく心持ちで歩いてみよう。何だか古事記に出てくる、イザナギが黄泉の国にイザナミに会いに行くような気分だ。
道なりにまっすぐ進むと、両側に石畳と町屋が建ち並ぶ景色が出てくる。橋を渡ってすぐの町内は、宮川町という京都で2番目に大きい花街だ。
京都には、今日だいたい200人ほどの芸舞妓がいる。宮川町には、確か大体50-60くらいだろうか。夜に提灯が灯る路地を芸舞妓がお茶屋へ急ぐ。その光景は、ノスタルジックで美しいものだ。マナーは守って、節度を持って景色を愛でてほしい。(ちなみに、私は今宮川町で仕事をさせていただいている。)
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さて、歩を進めていこう。道沿いに古そうな建物がちらほらと出てくる。和菓子屋、昔はスナックがあったようなビル、川魚専門鮮魚店など。
下町情緒を感じる街並みだ。実はほぼ海なし県ということも、川魚を見て思い出す。
ほどなくして、一灯式信号で赤信号が点滅している交差点に差し掛かる。京都の自転車やタクシーはなかなか運転が荒いので、注意して進もう。
ちなみにそこを通る、「大和大路(やまとおおじ)」がかつての川沿いの道だと云われている。ここまで鴨川だったということは、やはりかつてはかなり広かったのだということを実感するだろう。
川岸から陸に上がり、前を見ると眼前に伸びる道は、もう既に「あの世」であろう。
「あの世」坂の登り口にて
中世・坂の下に住む集団「犬神人」
坂の始まり。この辺りは、弓矢町、という町名である。この辺りはどうやら平安時代には「坂の者(≒境の者)」と呼ばれる「犬神人(いぬじにん)」という、清水寺の寺僧でありながら、八坂神社(当時は、延暦寺末社[祇園社])にも奉仕する集団が居住していたと云われている。
彼らは弓矢の製造販売をしていたのでそれが、町名に反映されている。
かつては、祇園祭の際に列の先頭に立って「ケガレを祓う」ことを担当し、警固していた人々だ(1974年に廃止)。「弓」があらゆる場面で、ケガレや邪気、魔を祓うための道具として使用されていること、彼らが弓矢を作り神輿の前で清めを担当していたということは、十中八九繋がりを持っているだろう。
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「坂の者」である犬神人は、弓矢製造者であると同時に中世以来、重病非人や癩(らい)病者(ハンセン病とも)を収容し、管理していた。都市境界部分とは、こういう貧困や病に苦しむ人々・アウトサイダーが集まる性質を持つ場所であったのだ。
「ハンセン病」と上掲の写真を併せ見たときに、
多くの方の脳裏にふとよぎるであろうもの。スタジオジブリの名作、『もののけ姫』の作中に出てくる石火矢衆の人達。(年代にもよるが、、、よぎりましたかね?)彼らも劇中にて隔離されていたこと、外見や服装も写真と似ている。
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『清水寺参詣曼荼羅』(16世紀半ばに描かれた)にも、鴨川を渡ってすぐの坂の下に犬神人が見られる。つまり、人々の往来があり賑わいがありながらもそこには、貧困者、病人も存在していたのだ。
お寺の下級お坊さんが、常人より「死に近い」病人の世話をし、弓を作り、神輿の露払いをし、
それが世界的に有名な映画・もののけ姫にも描写されている。おそらく中世では、わりとそこら中にあった景色なのだと思う。
そんなストーリーがこの「坂の下」に詰まっている。つくづく歴史の深い街だと思い知らされる。
冥界への入口「六道の辻」
さて緩やかな坂を少し進むと、「轆轤(ろくろ)町」という町に入る。ちなみに町名は電柱や、住居などに設置している消火器などを見れば、容易に
見つけられる。(電柱のは必ずしもオフィシャルでない)
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この町の名前は、この辺りが昔は「風葬」「鳥葬」の場であったことに由来する。それら葬送方法のための土地だったため、死体が捨てられて髑髏が
散乱していたといわれているが、そのままだと
あまりに気味が悪いので江戸時代に「髑髏(どくろ)」→「轆轤(ろくろ)」に変えたとかなんとか。
六波羅蜜寺 - 盆踊りのルーツ
緩やかに上がる坂の右手に、「六波羅蜜寺」というお寺が見える。ここは、まだ平安時代であった、951年に「空也上人」という方によって開創された寺院だ。
空也上人は、醍醐天皇の第二皇子(らしい)。つまり皇族だった(らしい)が、出家して民衆に仏教の教えをある方法で説いて京中を巡り、当時流行していた病魔を遂に鎮めたと云われている。
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そのある方法が、「踊念仏」。太鼓や鉦を打ち鳴らしながら、念仏(南無阿弥陀仏)を唱え祈る。なんなら自分で仏像を運んで、お茶も配りながら市中を周り弱者を救ったという。これを元に、それ
以前はクローズドで山上の寺院や、上流階級のものであった仏教という存在が、「何も考えず、ただ唱えて踊れぇ!」と簡易化され大衆化に繋がっていった。
その後鎌倉時代初期(12世紀終わりごろ)には、
一遍という僧侶が「踊念仏」によってさらに教えを広めていったそう。
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六波羅蜜寺では人気過ぎて、鎌倉期に禁止されたそうだが、それから800年間今日に至るまでずっと隠され、堂内で行われてきたそうだ。(今では、重要無形民俗文化財に指定されている。)
当時の仏教の主流とは全く異なる、一遍のパンクなスタイルに多くの人が感化され一緒に踊った。そこには、被差別民であった非人、ハンセン病患者もいたとか。
この坂の下に集住していた人たちと、お寺の救済対象が重なった。
ここは、彼らにとっての救済の場でもあったのだろう。
さて、今回一旦ここで切らせていただく。
どうだろう、まだ足を踏み入れただけであるがとにかくあらゆる時代とトピックが交錯していて、話が尽きない。まとめる(まとまってない感が否めないが)のが、難しい。
次回は京都ではなく、私の地元・熊野について触れたい。今回出てきた「一遍」と「ハンセン病」などに関わりが深いからだ。
すぐに京都に戻るので、ご安心をば。