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蔦(つた)から伝える意味を問う

大学を卒業後、海外にある日本人の高校の国語の教員になった。
大学生になり魂を揺さぶられるような授業をきっかけに「教員になりたい」という具体的な夢ができた。
そして、夢は叶った。

しかし、結婚同様、それはゴールではなく、さまざまな困難にも直面した。未熟だった私は、教員として足らないものだらけだった。
さらに、20代半ばからあちこと不調が起こり、なかなか原因が分からなかった。そして、日本に帰国中、自己免疫疾患である膠原病のSLE(全身性エリテマトーデス)と診断され入院治療を強く勧められた。

にもかかわらず、主治医や家族の反対を押し切り、仕事を続けた結果、病状は悪化。生徒や同僚、友人、そして家族に多大な迷惑と心配をかけ、教員生活にピリオドを打った。プライベートも散々で20代ラストは絶望のどん底にあった。

しかし、教師を辞め、少し心に余裕が生まれ始めてきた2004年の春(29歳)からエッセイを書くことで自分の心と向き合うことができた。そして、入退院を繰り返しながらも難病と共に生きてきた2009年の秋(35歳)までに書き溜めたエッセイを『蔦(つた)』という題でエッセイ集としてまとめた。

今日は、エッセイ集のタイトルにもなったエッセイ「蔦」をあなたに読んでいただけたら幸いです。


エッセイ「蔦」

                             2009年

「蔦を見き われと同じく パラサイト つたふる思ひも 等しかりけり」

 5年以上も前の父の日、私は自作の写真入り短歌集を父にプレゼントした。その中の一句がこの歌だ。私は、アメリカの日本人学校で教員をしていた頃、「蔦」という名のクラス通信を作っていた。そして、忘れもしない、2001年9月11日の同時多発テロ事件があった夏、私は、何度となく蔦を目にした。そんな中、一番印象に残ったのが、自宅の裏庭の老木に繁茂している蔦であった。その一本の木が私の目を引いたのは、蔦が弱りきった老木の幹にまとわりつき、自らが生き残るために、貪るようにその木の養分を食い尽くそうとしていたからだ。

我が家の裏の老木に巻きつく蔦(つた)

 木は発芽したそのときから、やがては自分を殺すことになる生物たちと共生する運命にあるという。自然界の生存競争の方が実は人間界のそれよりも残酷で、強いもの、環境にかなったものが生き残ることになる。そういう風に見ると、この生存競争の勝者は蔦で、敗者は老木となるのかもしれない。

 私はこのクラス通信名を考えていた時、「蔦」が「伝う」という言葉の由来を持つことを思い出し、それに決めた。しかし、あの年、壮絶な蔦の生命力を目の当たりにし、何かを「伝える」ことは、実はとてつもないエネルギーを要するものではないか、大げさに言えば、命がけの行為なのかもしれない、と思った。そして、それくらいしないと、ほんとうのところというのはなかなか伝わらないのではないか、と考えるようになった。

 教師にとって、「伝える」という行為は大きな意味をなしていているように思う。もしかしたら、教師の仕事の核は、生徒たちに何かを「伝える」ことにあるのかもしれない。そう考え、自分自身のやってきたことというのを省みてみると、あまりにも乏しかったと痛感せざるをえない。

 私は、「蔦」というクラス通信を最後まで、発行することができなかった。同時多発テロのあった翌年の夏、全身性エリトマトーデス(SLE)という膠原病であるということが判り、日本での入院を勧められた。しかし、それを拒み、仕事を辞めずに続けているうちに、病状が悪化し、最悪の状態で学校を去ったからだ。その後、自宅で療養生活を送りながら、また、蔦を目にすることが重なった。その度に、自分と蔦を重ね合わせた。そして、挫折から立ち直り始めた頃に生まれたのが上記した自作の短歌。私は、難病になり、心も病み、周囲を苦しめた。それは、弱りきった老木の幹にパラサイトする蔦のようだった。

 家族にパラサイトしながら、生活を送る日々の中で、大きな引け目と、自分の中にある、ある種の思いをなんとかして伝えたかった。その思いのやり場を求めていた。一体、私は、何を伝えたいのだろう。教師をしていた頃、私は何を生徒たちに伝えたかったのか。なんだか、遠い昔のような気がしてくる。そして、こうして、文章を綴ることで何を伝えたいのか。ただ、自分を誰かに理解してもらいたいだけなのだろうか。

 私は、蔦のように何かに必死にしがみつき、生き残ろうとしてきたのかもしれない。あるいは、生きている証を伝えたかったともいえる。ある著書で、巽信夫は「人間が成長するということは、葛藤するということ。人間が成長するということはじっとしているのではなく葛藤の中で成長していく。葛藤の中で生きる。そして良い方向へ向かって生きようとするのが人間です」と記している。苦しみぬいた日々の中で、今は少しずつ、心境に変化が起こっている。

 自分を解ってもらおうという独り善がりな思いから、まずは自分自身をまるごと受け容れようという気持ちになりつつある。自分を大切にし、愛するということ。それは他者を受け容れ、他者への愛へとつながることにもなるのではないだろうか。そういった、心持ちで、人生を歩んでゆく過程で、何かを伝えられたら、と強く願う自分がいる。
                               (完)

「モノ書き」そして「語り人」として伝えるとは?

 50歳の今、30年弱前から「伝える」ことに重きを置いた生き方をしていたと感じる。明日は出身小学校で読み聞かせのボランティアに行く。細々と15年前から続けている。昨日は、地域の昔ばなしを語り部として語ってきた。

お客様に向けて昔ばなしを語る様子

 地域では地元のことを中心に記者として発信する仕事をしている。また自身の会社では、地元の学生のインタビュー記事やお店の記事などを書いて、人やお店、商品などの魅力を伝える仕事をしている。

家族にパラサイトしながら、生活を送る日々の中で、大きな引け目と、自分の中にある、ある種の思いをなんとかして伝えたかった。その思いのやり場を求めていた。一体、私は、何を伝えたいのだろう。教師をしていた頃、私は何を生徒たちに伝えたかったのか。なんだか、遠い昔のような気がしてくる。そして、こうして、文章を綴ることで何を伝えたいのか。ただ、自分を誰かに理解してもらいたいだけなのだろうか。

エッセイ「蔦」からの引用

 こんな風にもがいていたかつての私が、今「伝える」仕事や活動を通し、伝えるという意味について改めて問う日々を送っている。昔の私から問われいるのかもしれない。

自分を解ってもらおうという独り善がりな思いから、まずは自分自身をまるごと受け容れようという気持ちになりつつある。自分を大切にし、愛するということ。それは他者を受け容れ、他者への愛へとつながることにもなるのではないだろうか。そういった、心持ちで、人生を歩んでゆく過程で、何かを伝えられたら、と強く願う自分がいる。

エッセイ「蔦」からの引用

伝える前に大事なこと

 「伝える」前に大事なこと。それは「聴く」ことだと考える。ちゃんと聴く耳をもち、人にモノにそして自然と対峙すること。そういった態度で臨むことで伝えることが何なのかが次第にわかってくるのではないかと思う。

 そこのバランスはとても大事だと思うのだ。

 そういっても、聴いて欲しい思いが強く、伝えたい情報量が多くなってしまう。

 noteでは伝えるいう側面が大きいかもしれない。だから、どこかで共感してもらえる何かがあればうれしく思う。

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