17年前、精神科病棟入院中にかかわった医学生さん
現在、書く仕事がきっかけで、地元の大学の学生さんとかかわる機会を得ることが増えた。さまざまな形で学生と触れあえ、多くの刺激や喜びをもらっている。私は、大学を卒業後に海外で高校の教員として働いていた。しかし、難病を悪化させ、最悪の状況で職を辞し、教員としての仕事を全うできなかった後悔がずっとある。そんな経緯もあるから、今、当時叶わなかった思いを違った形で昇華しようとしているのかもしれない。
2度目の精神科入院で出会った医学生さん
私はSLE(全身性エリテマトーデス)という自己免疫疾患の難病で、時にCNSループスといった精神症状を伴う。現在50歳の私は29歳(2004年8月)の夏と32歳(2007年4月)の春にCNSループス症状を出し、躁状態になって精神科病棟に入院した経験をもつ。2度目の入院中に出会った3組の医学生さんとの思い出は忘れがたく、15年以上も前に書いたエッセイ「医学生さん」を今日はお届けしたい。
エッセイ「医学生さん」
精神科への2度目(2007年4月から)の入院中、たくさんの人とのかかわりの中で、医大生との交流があった。医学部で5年生は、患者とのかかわりを通し勉強する機会BLS(5年時の病院実習)を持つようだ。私は、入院中、大部屋に移ってから3組の学生さんの担当患者になった。当時は、躁の精神症状を起こしていたので、相当多弁であった。私は学生さんに、様々な課題を課した。心理テストをしたり、自己紹介表をつくらせたり、ピーさん(その人には内緒で心配りをする)をやらせたり、自分の病状を調べさせたり、服用している薬の種類を説明させたり、結構、無理難題を投げかけていた。長い入院生活の中で、患者さん以外の人たちと関われる時間は当時の私にとって待ち遠しいものであった。授業を終えて私のところにやってきてくれる学生さんを夕方になると、まだかまだかと待っていた。
1組目の医学生さんは女の子2人だった。私が依頼した自己紹介の紙には、丁寧に細かく様々なことが記されていた。名前の由来、好きな花や木、言葉、絵、趣味などである。また、家族構成についても分かりやすく説明してくれた。
そのうち1人は、真に美しい子になるように、稲穂のように、力強い忍耐力のなる人であるようにと、「美穂」という名であった。5人兄弟。お父さんはお医者さんで、お母さんは元看護師さん。沖縄が好きな彼女はでいごの花を好きな花だと言っていた。沖縄の人は何度も足を運びたくなるほどあたたかいということだった。好きな木は、桜と楓。夏に緑がきれいな木が好みだと記されていた。好きな言葉は、「千里の道も一歩から」。まず、何事も一歩を踏みださなければ始まらない、何事もあきらめず、前向きに進むことの大切さを表しており、その一歩が長い道のりの一つで先は長くとも(地道に)頑張ることの大切さを教えてくれるからだとその言葉が好きな理由を教えてくれた。
趣味は映画と旅行。映画はショートシネマ系のものが好きだとあった。恋愛系はあまり観ることはなく、アクション系のものが多いとのこと。旅行は主に、国内。特に沖縄が好きで、その年に一人で宮古島に行ったと言っていた。夢は、まずは医者になること。そして、結婚して子どもを持つことだとあった。出産後も医者の仕事は続けていきたいと考えていて、今は、産婦人科・救急に興味がある。何にせよ、顔をみに来たくなるような人間になりたいと思うと熱く記されていた。やるからにはとことんつきとめたいとのこと。
もう1人は、真奈美さん。「真」は善意をまっすぐ見つめて欲しい。「奈」は両親が奈良が好き。「美」は心の美しい子に育って欲しい。そんな由来があった。なぜか、当時の私は、名前の由来に興味があった。彼女のお父さんもお医者さん。お母さんは主婦で、お姉さんがいるとあった。彼女はハワイが好きで、好きな花は、ハイビスカス。好きな木は、椰子の木ということだった。ハワイは癒される場所なのだそうだ。この2人のペアは、南国を好んでいた。そして、好きな言葉は、「優しくされたかったら、人に優しくしなさい」というものだった。「本当に優しくすると、たいてい優しくしてもらえるかなぁ、と思いまして」と理由が記されていた。彼女の夢は、大学病院で10年くらい働いた後、町医者になって、患者さん一人ひとりを診ていきたい、とあった。できれば、結婚して、子供が2人くらい欲しいとのこと。老後は、海の見える所(できれば南国)に住んで、毎日海を眺めたり、友達とバーベキューなどしたりしながら過ごしたいと、記されていた。
2人とも、本当に熱心に私のところに来てくれた。躁でハイテンションだった私の話を、真剣によく聞いてくれた、というより、よく付き合ってくれたと思う。この二人は私に最後に手紙を書いてくれた。
2人とも選んでくれた便箋は、青空色のものだった。当時の私は、自分で作詞作曲した歌を歌っていた。「この大空に 命の限り~」というフレーズで始まる歌だった。私は二人に歌詞を書いて渡していた。
そういえば、私の妄想日記も2人には読んでもらった。当時思いを寄せていた人に対する日記だったり、家族宛ての手紙だったり、研修医の先生への手紙だったり、自分の病状のことだったり、仕事のことだったり、誰かの生まれ変わりのことだったり、とにかく、ノートが何冊にもわたるのだ。これを真剣に読んでくれたかどうかは分からないが、たった2週間だったけれど、私は彼女たちからたくさんの愛をもらった。こんなにも熱く医者になることを志している学生がいることに胸を打たれた。
当時の私は、自分のことばかりで、2人の学生さんが一生懸命書いてくれたものを熟読できる集中力は無かった。これは、病気によるものと、薬の副作用によるものだと思うのだが。とにかく、その時の私は彼女たちと話すことが楽しくて仕方なかったのだ。教師になったような気持ちで、彼女たちと接していたと思う
彼女たちとの時間はたった2週間だった。けれども、私は2人の姿が鮮明に脳裏に残っている。外来で病院に行く度に、彼女たちの姿を探している自分がいる。一期一会という言葉があるが、本当に彼女たちとはこの先二度と会うことができないかもしれない。とっても寂しい気がする。けれど、私は彼女たちのことを忘れないし、彼女たちも私のことを覚えていてくれて、たまに思い出してくれるのではないかと思う。人と人とのつながりとは不思議だと思う。今の世の中、メールや電話ですぐに他人と交信できる。でも、私は彼女たちのアドレスも電話番号も知らない。手紙を大学に出せば届くかもしれない。でも、このままがいいのかなぁあ~と思う。連絡はしないけれど、どこかでつながっていて、思いを馳せている関係。
5カ月間の入院は長かったけれど、その中の一日一日はやはり、貴重だったと思う。美穂ちゃんと真奈美ちゃんが、語ってくれた夢。その夢が叶うように、私は、患者として優等生にならなければならない、と思う。入院しなければ出会えなかった2人。神様は、いつだって私に素敵な人たちと出会わせてくれる。
あれから17年
当時医学生だった女子学生2人は今一線で活躍する医師になっているのではないかと思う。あの頃私が語っていた夢がどのくらい叶ったかは分からない。けれど、自作の歌は今年完成したし、素敵な彼もいる。そして、やりたい仕事ができて、今度は地元の大学生とのかかわりがもてている。入院中にある意味暇を持て余していた私の話を真剣に聴き、向き合ってくれた医学生さん。そして、今、かかわれている大学生たち。人間対人間のかかわりのなかで生まれるもの、そういうものを大切にしてきたのだと思う。
エッセイにも書いたように素敵な人たちとの出会いが繰り返され今がある。そんなエッセンスが詰まったエピソードとして、医学生さんとのかかわりが届いたらうれしい。