暇と退屈とブルーハーツと自分語り
読書とかCDとかの感想を書きたいが、あいにく全部日本に置いていっているので何も書けない。記憶の中でドロドロになったものなら別だが。
そこで思い出したのは國分功一郎「暇と退屈の倫理学」でした。何故なら今私はまさに暇と退屈の渦中にいるから。しかし、いかんせん内容が思い出せない、まして哲学書なんて余計に。ただ、環世界とかハイデガーという単語は辛うじて頭に残っている。そして、本文の中にあった「ハイデガーはもっと別の環世界を持つべきだった(うろ覚え)」という筆者による一節も、かなり曖昧ながら妙に脳裏にこびりついていた。そう、今回やんや言いつつもその一文への疑問提起をしたいというのが大きなテーマだ。
そういえば記念すべき私の1回目の投稿を読んでいただいた方、ありがとうございました。まだの方は是非。
https://note.com/tenta_kikusawa/n/n6e2b834842fc?sub_rt=share_pw
私は上記のつらつら1日を綴るだけの記事を書くにあたって、「あー環世界を幾つも横断しとるな」と心地よくなった。ベッド用品を買うこと、どのバーガー屋にするか考えること、音楽のこと…。他の動物より抜きん出てこの環世界の移行が容易いのが人間だと、確かその本には書かれていた(どこまでもうろ覚え)。しかし、この1日が何を極めうるというのか。生きるためのやりくりに駆られているが、正直一点集中はしていない。記録してないだけで、私はこの無益な繰り返しをしていた。日々経験は蓄積されているが、何かを私は掴み損ねていた。生きてる実感だけで毎日疲れ果てていた。
うろ覚え「暇と退屈の倫理学」、ハイデガーは料理とかしてもっと幸せを味わうべきだったか?
料理という環世界はある。最近は物価上昇の波にもれなく揉まれているので材料買って料理する方が安く済むというので、料理するようになった。特段味にこだわるでも無いが、友人にギリ「余り物で作ったけどいる?」と言って勧められるレベルのなんちゃって料理はできるようになった。しかし、これを生活をやりくりするためにやるのと、研究し突きつめられるかはその人の興味による。ハイデガーになんで別の環世界を筆者が求めていたのかという肝心な部分を忘れているので、もう論じるってレベルじゃねぇぞ、なんだが、幸福探求の話が確か絡んでいた気がする。しかし、哲学という軸で生きてそれに没頭できるハイデガーの幸福を私は羨む。
創作を主軸に生きてきた人生
っていうとかっけえ、憧れちゃうね。
たまたま知ったこの動画、創作愛に溢れてる。あらゐけいいち作品を、これで初めて知る私をどうかみなさん許してほしい。
大学卒業を最後に「創作を主軸にした人生」が激ムズであると気づくのは、社会に出た皆さんの前で記述するには恥ずかしいものがある。当たり前に創作一本で生きていけなかった。仕事に揉まれ生活をやりくりし、つかの間を癒す娯楽に、金を注ぐ。どこに創作する体力があるのか。なんとかして制作できたのは大学卒業後の余力で撮った短編映画「ACTOR 1」と、前職を辞めて金と時間を手にできた際に作った中編映画「帝王切開される地図」(現在期間限定で全編公開中!)である。
でも、一度創るという意思に目覚めると私の人生は煌めき出す(悪く言えばようやく重い腰を上げ出す)。経験のありとあらゆるものが映画へと全集中するのだ。散漫な環世界の輪を横断するより大きな輪、創作の輪が生まれるのだ。
通い出した教習所の経験や、散歩がてらに見つけた米軍基地、その当時あった人間関係が一気に映画の内容へと回収されていった。特に単に創作の輪の中でも視覚と聴覚、実際のローケーションから脚本までありとあらゆる総合芸術で成り立つ映画という芸術が請け負う懐の深さは偉大だ。この沼に一度落ちれば、もうそれなしじゃ生きていけない。
そう思うと、ハイデガーは料理やっぱした方がよかったのかなと思ったりする(なんやねん)。経験できうることを可能な限り広めることで、上記の環世界を横断する大きい輪はどんどん広くなっていく。重要なのはあれこれ無闇にやるというよりその大きな輪さえあればいいということかもしれない。
その大きな輪であり軸を失った今、散漫な日々の興味をとりあえず文字化するという行為も、ある意味「環世界、あらわる」な新たな章の誕生であり、曖昧な日々を生きてる中で確かに前より「今ここにあることをどう記述すべきか」という思考が生まれるようになった。note、ありがとう。もっといえば谷川俊太郎きっかけなのだが(小説家ではなく、詩人に触発されて書くのがエッセイ紛いな散文であるというのは可笑しなことだが)。ある意味人生にストーリーを欲するというごくごく平凡な思いがやっと纏まっただけに過ぎないけれど。
ブルーハーツの「イメージ」、人には人の環世界
それが答えだ。人間が他の動物より環世界を行き来できるのはわかった。しかし、それぞれが得意分野とする環世界があり、そしてそれを大きく繋げる一つの軸となる環世界がある(人もいる)。その大きな環世界を「イメージ」と呼ぼう。なんでか?それはブルーハーツの「イメージ」という楽曲が今流してるプレイリストから聞こえてきたからである。
前半の仕事への云々がとりあえず稼ぐので必死な自分には耳が痛い。
原曲の意味を捉えるなら、そんなその場凌ぎ的な生き方への痛烈な批判の歌に見える。しかし、
この一節は、かなり多義的なんじゃないか。中身のないイメージを持ってるんじゃねぇというのを皮肉を込めて歌ってるようにも取れて、逆に何も掴みとれないその場凌ぎ達に「とりあえずイメージだけでも掴んでごらん、簡単なことだ」と促すようにも聞こえる。久々に厳しさと優しさどちらにも柔軟になれる歌を聴いた気がする(この両義性が現代の芸術作品にあるかえ?)。今の私にはそれは肯定的に聞こえた。大きなイメージを構成する環世界の輪が、生きていける。その大きなイメージがカメラを持ってスタッフやキャストを従えようとあくせくする、映画「8 1/2」の主人公の姿なのはここだけに記しておく。別になれなくてもいい、それでもイメージは私を突き動かす。
P.S.
この両義性が現代の芸術作品にあるかえ?という疑問だが、受け手に都合の良い読み取りの可能性を与えて、極論に発展させられてしまうことを考えると(そしてそのレッテルとともに作品が炎上するリスクを考えると)、両義性をもたせるというのはある意味ゆとりのあった時代とも取れる。