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創作のために情報源を切っていくこと


こんにちは、アマチュア伝記作家のバイオグラファーです。


近頃Twitterでは何かと、芸能人や思想的なバックグラウンドを持つクラスターがハッシュタグをつけて政権を非難していますね。

日本に住む人々が広く政治に関心を持つきっかけとしては、良い事だと思います。

しかし政治に関する議論はことにヒートアップしやすく、中には見ていられないほどひどい言葉遣いも見受けられます。


Twitterユーザーの拡大に伴って議論できる人の幅が広がり、

議論すること自体に慣れていない人が参加するようになったのも原因の一つでしょう。

議論に慣れていないうちはどうしても、「批判」と「侮辱」のラインが見極めるのが難しく、仕方ない側面もあると思います。


たとえば私の場合、学校教育の中できちんとした「議論」をした経験は、高校を卒業するまでほとんどありませんでした。

私は都内まで電車で約2時間という中途半端な田舎の地域で小学校から高校まで過ごしたのですが、

一度だけ、小学校5年生の時に道徳の時間にクラスを二つに分けてみんなで討論会をしようと先生が言い出し、

「うさぎとかめ」の「うさぎ」と「かめ」、どちらが速いのか?

というテーマで討論をしたことがあります。


「うさぎとかめ」内容を忘れた方:ウサギが亀に「かけっこをしよう」ともちかけ、早々に亀に大差をつけたウサギが途中で気を抜いて居眠りをし、その間に亀が先にゴールをするという童話です。


私はクラスの大多数が付いた「かめ派」に行くのもつまらないと思い、「うさぎ派」に回ったわけですが、

「うさぎとかめ」のウサギってどうしても擁護しがたいんですよね。

結果として亀がレースには勝っているわけですから、普通に考えれば亀が速かったわけです。


そこで私は亀の倫理観を非難することを思いつきます。

小学生なので実際にはもっと簡単に自分の言葉で言った記憶がありますが、要するに、

「亀は卑怯にもフェアプレーの精神を忘れ、眠っているウサギを放置して抜き去った。これは公平なレースではないため、このレースは無効。よってウサギと亀のどちらが速いかはポテンシャルで判断すべきで、その場合、ウサギの方が速いと言える」

という旨を述べたところ、かめ派からは非難轟轟で、

「ウサギは亀を舐めている」「そもそもウサギは意地が悪い」「居眠りはフェアプレーなのか」「丸焼きにするべきだ」

など、的確な反論もありましたが、最終的にウサギが丸焼きにするべきという意見まで出て、

その後はうさぎ派が何を言っても「丸焼きにしよう」と言われてしまうことになりました。


討論会をニコニコしながら見ていた先生が「で、結局どちらが速いのかな?」と聞いたのに対して、明確に答えられる人がいなかったのをよく覚えています。


かめ派が「丸焼き」と言い出したのは、うさぎ派の私が亀のことを「卑怯」と侮辱したことで、

ウサギと亀の個人的な人格を責めるのがOKなのかと認識され、

この討論会のルールが曲がり、冷静に議論をしている人たちにまでとばっちりが行き、結論が出なかったのです。

約20年が経とうとしているいまでも、たまにこのことを思い出します。


いまTwitterの一角で行われている応酬もこれに近いと思います。

SNSですから、討論会のように理路整然としている必要もないですし、

それこそ便所の張り紙のように本音を好きに吐き出すことができる場として使っている人もいますから、

それはそれで使い方として間違っていないと思っています。


しかし、本気で冷静な意見を発信している人に対して、意見になっていないいわゆる「クソリプ」が返されているのは、見ていられませんでした。

そういうことで、私は最近、政治に関するアカウントは自分の意見に近かろうと遠かろうと、すべてフォローを外しました。

ややもすると頭に血が上って「クソリプ返し」をしてしまいそうだったからです。


これは実は危険なことでもあると思います。

そこに情報があるのに、自分にとって不快だから見ないというのは、

アマチュアとはいえ伝記作家として、独善的な価値観を持ってしまうきっかけになります。

偏った価値観を持てば、それが作品に影響してきます。


伝記というのは、私の場合、基本的にはご本人に対してほんのりとした好意を持っていないと書けません。

私は、直接会ったことのある人に対しては、

誰に対しても「この人、いい人だな」となんとなく思う、能天気な心を持っています。


これは恥でもあり自慢でもあるのですが、

私は英語を喋れるにもかかわらず、海外に行くとよく騙されてお金を取られます。

そして大体の場合は「お金を稼がないと生きていけないんだろう、つらいだろうに」と最初に思うのです。


しかし、Twitterのように相手の顔が見えない世界で、真剣に話している人の邪魔をしている人がいると、

ただそこに悪意だけが存在しているような気がして心が穏やかでいられないのです。

心が穏やかでないと、伝記を書いている対象のご本人にたいして、なかなか好意をいだけなくなってくるような気がしているのです。


そこで、伝記を書くために必要であれば、情報源を切っていきたいと思っています。

多少自身の価値観が偏ってしまうのも仕方がないと思っています。


価値観が偏ることよりも、書けることの方がまずは優先。

そのうち私が成熟してきて、無分別な意見も微笑みながら受け流せるようになったら、またその情報源を取り戻したいと思っています。


さてそれはいつ頃になるのか...

もしかしたら、ルイ・アームストロングが"What a wonderful world"を歌ったころの歳になってしまうかもしれません。


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