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笙野頼子はどうしてトランス排除なのか

 笙野頼子は「発禁小説集」で終わったと思っている。「質屋七回ワクチン二回」は笙野の最後の傑作だと思っている。それは、トランスジェンダーに対する妄想にとりつかれた女性を主人公とした作品として、距離を置いて読むことができる。
 でも、実際には笙野自身が妄想にとりつかれており、後に「女肉男食」というヘイト本を出すにいたる。
 だからといって、それまで文壇で女性として戦ってきた笙野の作品が色あせることはない。

 ぼくにとって興味深いのは、「母の発達」など、女性が落とし込まれていた状況に対して告発する作品を書き、あるいはTPP反対を象徴として日本という国にすまう妖怪について書いてきた。どこか妄想的でありつつも、どこか現実的でもあった。
 その笙野が、まったくヘイトとしかいえない、トランス排除に向かった理由である。
 もっといえば、トランス排除をめぐって、それまで家父長制を守ってきた、選択制夫婦別姓に反対してきた、自民党の日本会議にいる国会議員に同意し、選挙では山谷えり子に投票してしまう、何がそんな行動に走らせているのか、ということだ。

 結局のところそれって、第二波フェミニズムが残してしまった課題なのだろうと思う。

 フェミニズムの大きな流れをざっと書いておく。だいたい戦前の第一波フェミニズムというのは、婦人参政権など法的な権利を求める思想であり運動だった。
 戦後、ウーマンリブに代表される第二波フェミニズムは、法的なだけではなく、社会的な価値観も含めた平等を求める思想であり、運動であった。
 もうちょっと言うと、例えば日本は強制的夫婦同姓なのだが、法的には男性でも女性でもどちらの姓でもいい。でも結果としては90%以上が男性の姓を選んでいる。そういうギャップを解消していくということだ。

 ところが、米国では第二波フェミニズムに対し、さまざまな批判がなされる。結局のところ、それは裕福なシスジェンダーでヘテロセクシュアルな白人女性だけのものではないか、と。
 黒人女性もレズビアンも、あるいは高齢の女性もフェミニズムの外におかれる。黒人女性はフェミニズムの前に黒人解放運動がある、などなど。貧困世帯の女性の問題も外に置かれる。高齢の女性の経験は若い世代のフェミニストに一方的に利用される。

 ということでそこから、ブラック・フェミニズムやレズビアン・フェミニズムが出てくる。でもそれはいったんおいておこう。

 第二波フェミニズムの次にやってきたのがポスト・フェミニズムである。第一波・第二波フェミニズムはそれでも、そこそこの成果をあげたし、だから女性が政治家になることも経営者になることもできた。経済的に豊かになる道も出てきた。そしてそこでは、女性ならではの力を発揮することもできる。それは多少、男性にこびることも含まれる。
 上野千鶴子がときどきフェミニストから批判されるのも、第二波フェミニズムを土台におきつつ、ポスト・フェミニスト的な生き方についても語っていることによる。
 上野は若い世代に対し、第二波フェミニズムの成果を待っていたら、おばあさんになってしまうので、その前に得られるものは得た方がいい、という見方をしているのだと思う。それが東大入学式の祝辞にもよく表れている。
 それは人が幸福を追求する上で、大切なことだとは思う。
 けれども、それは思想ではない。代表的なものが、しぇりる・サンドバーグの「リーン・イン」なのだと思う(読んでいないので)。IT企業で成功し、取締役までのぼりつめた女性の著作だ。ある意味、ポスト・フェミニズムの到達点なのかもしれない。わからないけれど。

 そしてポスト・フェミニズムの背後で起きていたのがバックラッシュだ。女性は女性らしく、おとなしくしていればいい、といったようなことだ。それぞれに役割があるのだから、と。

 第二波フェミニズムの特徴の1つは、二元論に立脚したものだったこと。ジェンダーにしてもセクシュアリティにしてもセックスにしても二元論だった。レズビアン・フェミニズムに対してすら、その男役と女役という役割を再生産しているという批判を行っていたこともある。
 でも、そのレズビアンは、多様なセクシュアリティの姿の一部でしかないし、ジェンダーもまた多様なものだった。
 そしてその先にクイア理論があり、それを踏まえた形で第三波フェミニズムがやってくる。そこでは、二元論は排される。ジェンダーで線を引くことはないし、セクシュアリティも同様。トランスジェンダーにも多様な人がいるし、同様にシスジェンダーも多様だ。それらを包摂する形で、LGBTQという言葉ができてくる。

 第四波フェミニズムについては、どう定義したらいいのかよくわからない。そのことに意味があるのかどうかもわからない。ただ、第三波フェミニズムを通じて、フェミニズムは女性だけのためのものでなくなったとはいえる。

 第二波フェミニズムと第三波フェミニズムの間で起きた論争についても、書いておく。それは、セックスワーカーとポルノをめぐる論争だ。
 ざっくり言えば、第二波のフェミニストたちは、セックスワークは男性優位社会から疎外された女性が行わされているものであり、なくすべきだ、というもの。ポルノもまた、男性の暴力性を再生産するものだ、と。
 一方、第三波のフェミニストたちは、そもそもセックスワークを安易に排除すべきではなく、排除してもなくならないどころか、セックスワーカーにスティグマを与えるという。そしてポルノについても、それを受けとるそれぞれの個人に対し、豊かなファンタジーを与えてくれる、というものだ。

 そしてもう少しいうと、トランスジェンダーの人たちが、セックスワークやポルノに救われている部分があることは否定できない。だから第三波フェミニズムでは、安易にセックスワークが否定されるということにはならない。
 しかし一方、第二波フェミニズムにおいては、いずれも男性優位な社会を反映したものとなる。
 もう少し別の言い方をすると、第二波フェミニストは性の商品化を問題にするけれども、第三波フェミニストは性の商品化を否定しない。そしてその間にいるポスト・フェミニストは性を多少なりとも商品化することで生き残ることを肯定する。

 もちろん現代のフェミニストのほとんどは、第二波も第三波も理解している。今でもジェンダーギャップの問題は第二波にかかわるものだし、そうでなくとも女性が不利益を受けている場面は少なくない。学校という現場で、出席簿で男性が先で女性があとということが男性優位を刷り込んでいることは否定できない一方で、それでも家庭科の男女共修という形でギャップが解消されたとこともある。
 同時に、個人が抱えるジェンダーやセクシュアリティが多様なものであるということも理解している。
 でも、中には男女の二元論から脱却できない人たちもいる。男性嫌悪をこじらせてしまった人たちもいる。そこには、第二波フェミニズムが十分な成果を出せていないということへのいら立ちがあるのだと思う。そして、嫌悪の対象はシスジェンダーの男性だけではなく、トランスジェンダーの女性にも向かう。それは、女性ではなく男性なのではないか、と。

 つまりは、トランス排除ラディカルフェミニストというのは、男女二元論から脱却できず、そこでの女性という存在を守ろうというものではないか。

 ということで笙野頼子である。
 そもそも、笙野をフェミニストということにためらいを感じる。なんといっても「女肉男食」の副題は「ジェンダーの怖い話」である。いや、それ、そもそもジェンダーの意味について誤解しているんじゃないか? ジェンダーというものそのものを批判するフェミニストはいない。セックスそのもの、セクシュアリティそのものを批判するフェミニストがいないように。だってそれって、性の見方に関する定義でしかないのだから。
 もっとも、一般の人がジェンダーをどれだけ理解しているのかというのはあって、良く知らないひとが「あの人、ジェンダーだから」って意味不明な会話をしている、とか。ここでのジェンダーって、トランスジェンダーかトランスセクシュアリティの人のことをさしているのだろうけれど。
「あの人、男性だから」だったら意味がわかるけど、男の方を省略して「あの人、性だから」といったら意味不明。でもまあ、ジェンダーという言葉は笙野も理解していないくらいなのかもしれない。

 でも、笙野の小説をずっと読んでいると、確かにジェンダーがないことがわかる。あるのは、アセクシュアリティとセックスだ。つまり、性的指向は中性で、生物学的性は女性ということになる。そして、ジェンダーレスということになる。
 そして、笙野はずっと生物学的女性というのを抱え、その不平等さに対して戦ってきた、ということになる。そしてその文脈で、フェミニストと思われてきたし、フェミニストは笙野の作品を評価してきた。
 そして、その文脈で笙野の作品が価値あるものだとも思う。

 結局のところ、笙野は生物学的性における二元論に立ち、生物学的女性が受ける不利益と戦ってきた。守りたいものは猫とのささやかな生活。その小さな世界から見たら、自分の生物学的女性というアイデンティティを無効化しようとするトランスジェンダーの存在というのは、受け入れられないものなのかもしれない。

 第二波フェミニストが二元論に固執するかぎりは、その二元論を秩序として明確に守ろうとする保守的な人たちに取り込まれかねない。
 そして、結果として、よりマイノリティである人たちを排除しようとする。そのために、銭湯やトイレをめぐるデマを信じてしまう、そういうことなのだろうと思う。

 ウーマンリブは女性が男性と同等の権利を持つことを目指してきた。それは実際にはまだ道半ばだ。同時に、女性が男性と同等の権利を持てばいい、というわけではないということもわかってきた。男性並みに働いてお金を稼げるようになればいい、という話ではない。
 第二波フェミニズムもアップデートされている。その1つは、ケアを取り巻く論考だ。岡野八代、河野真太郎、小川公代などが論じている。
 第二波フェミニズムを政治学の文脈で研究対象としている岡野が、それこそ第三波フェミニストに入ると考えていい竹村和子の著作である「フェミニズム」の解説を書いていることには大きな意味がある。
 ケアというものを取り出し、それが政治的に女性に押し付けられてきたものを見直し、きちんと評価し、社会の中に位置づけなおすことで、もっと豊かな社会にできるはずだ。それは、二元論でくくられていたものの1つを見直し、それを別の文脈で再配分することでもある。そのことが、ジェンダーやセクシュアリティを豊かなものにするだろう。二元論に根差す部分を再定義することもできるだろう。

 という文脈から考えていくと、笙野はそもそもケアから疎外されてしまっている、そのことが現在の笙野を作り出してしまっているのかもしれない。

 ということをずっと書こうと思っていて、書いていなかったのだけれど、李琴峰の「言霊の幸う国で」を読んだら、そのことを思い出して書いてみたのであった。

 

 

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