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佐伯一麦『石の肺』『アスベストス』を読む 読書という通過儀礼 【a late care-worker's DRAFT 05】

◎読書という通過儀礼について

本を読むことには、通過儀礼の側面があり、ある本を読んだ(通過した)ことで、世界の見方が変わったり、幸運なことに、自分のライフワークが見つかったりすることがあります。いずれの場合も、本を読んだあとでは、読む前とは、違った生き方が目の前に開かれていて驚きます。

これから読んでゆく佐伯一麦氏は、私小説作家として有名で、自分の日常生活で体験したことや感じたこと、考えたことを題材にした小説を読者に提供し続けています。

自分の人生で手一杯なのに、そのうえ私小説なんていう他人の人生につきあって面白いことがあるのかという疑問はよくききます。ところが、実際に読み始めてみると、読んでもたらされた体験が冒頭に書いた一種の通過儀礼になり、自分の人生へそれまでとは少し違う視点が生まれたり、人生への取り組み方さえも変化してしまうことがあります。

私が、佐伯氏の著作で通過儀礼を強く享けたのは、アスベスト災害を題材にした著書からでした。

どのような通過儀礼を享けたのか?

◎アスベストにかかわる仕事

アスベスト災害を防ぐことが目的の仕事にたまたま就いたときに、それまでは、漠然と耳にしていたアスベストやアスベストがもたらす災害について、あれこれと勉強を始めました。

そして、アスベスト災害について書かれた本を読めば読むほど、関連情報に眼を通せば通すほど、アスベスト繊維が空気中に曝露する災害が自分たちの日常生活のなかでふつうに起こっており、その悪影響は生活の基盤に深くくいこんできており、生活そのものを揺さぶるほどになっていることを知らされました。

家族の特別な祝い事に通っていた、あのレストランの壁や天井板を剥がせば、そこには、防火や断熱のためにアスベストがびっしりと吹きつけられており、すでに剥離がはじまったアスベストは飛散状態となり、壁や天井板の隙間から、私たちが、食事している空間に及び、すでに私たちの肺の中にまで入り込んでいるかもしれないという現実をまざまざと知らされ、日常で利用している建物を眺める視線が変わってしまいました。

アスベスト災害の恐ろしさが日常生活に既に深く関わっていることが多少ともわかってきたときに、もっと体験者側(=被災者側)からのアスベスト災害を知りたくなってきました。
「ひとはどのようにしてアスベストの災害に遭遇あるいは巻き込まれ、その後の人生をどうやって過ごしているのか?」とでもいえばよいのでしょうか・・・
そんな漠然とした思いのままに、アスベスト災害に遭遇したことを自分のコトバで表現し捉え直し語っている本はないかとノンフィクション形式の本を探していて、たどり着いたのが、佐伯氏のとある1冊の本でした。

◎佐伯一麦『石の肺 僕のアスベスト履歴書』新潮文庫 2009年刊

佐伯一麦(さえきかずみ)という作家が、一定数の読者、小説好きと言われる人たちの支持を得て活躍している私小説作家であることを知ってはいましたが、書評を読む限り、また、立ち読みする限りでは、残念ながら、私の関心の範疇ではなく、今まで読むことはほとんどありませんでした。

重いタイトルにあるとおりの「僕のアスベスト履歴書」である本書を読み、自身の身に起きている深刻な疾患とそれが自身や周囲に引き起こす影響を真摯に書いている、その姿勢に心がうたれただけでなく、この作家の文章に人に深く語りかけてくる力を感じるようになり、その力のあり様をもっと知りたく、そして味わいたく、ほかの小説も読むようになりました。

高校を卒業して、作家を目指して上京した佐伯氏は、スナックで知り合った女性とのあいだに子供をもうけ、入籍した身で、若くして家族を背負い、生活費を手堅く稼ぎながらの文学修業となります。

生計を立てるために職業安定所の紹介で、社長1人の電気工事の会社(いわゆるひとり親方の会社)で仕事をすることになります。身分は、アルバイトのまま、電気工として、主に多摩地区にある大型団地の電気設備の故障修理をして回る生活が数年続いてゆきます。

あるとき、都心にあるビルでの配線工事のやり直しの現場で、天井裏にもぐったところ、綿みたいな青い繊維がびっしりと壁に張り付いている光景に遭遇します。いつもどおり、工事のためにその壁に穴を開けると、実はアスベストそのものであった青い繊維は粉塵となり天井裏の狭い空間を舞いだし、それでなくても、すでに退化して天井裏に落ちている粉じんが人間が動くだけで、もうもうと舞い上がり、立ち込める状態となっていたなかで、さらにアスベストだらけの粉塵に体全体が覆われ、胸いっぱいにその粉塵を吸ってしまうことになりました。(アスベスト繊維の太さは、人間の髪の毛の5千分の1です。)

これは、1980年代初めの頃の話で、1975年に定められた法律により、アスベストの危険性は既に公的に周知されているはずでした。ところが、佐伯氏などの下請けの職人たちには、そんな知識も情報もはいってきていませんでした。さすがに大企業である元請からきたエリートサラリーマンたちには、アスベストの危険性は十分に知らされており、青いアスベストの粉じんに気づくと、アスベストがもうもうと立ち込める現場にはまったく近づきません。しかし、下請けの職人は、アスベストが危険だという情報がないだけでなく、そもそもどのような理由であれ、いちど入った現場から撤退するという選択は難しくなっています。むしろ、現場からの撤退は不可能といえるでしょう。

なぜ、危険な現場から撤退できないのか?
仕事をしてゆく現場での職人同士の連携の中で、ひとりが自分の持分の仕事をせずにいると、仕事全体の進行が滞るだけでなく、そのあと、工事遅滞の被害者となった職人仲間からどんないじめが待ち受けているか、わからないからです。
実際の現場では、職人同士の協力し合う人間関係が重たく、どのような理由であれ、ひとりだけそこから抜け出すことは今後仲間から外され仕事が出来なくなり、これから仕事じたいを失うことに繋がりかねません。このあたりの職人同士の人間関係の無言の圧力の感触は、エッセンシャルワーカーと呼ばれる人たちの職場では頻繁にあることであり、また、日本の組織のどこにでも、ありがちなミナレた状況ともいえ、とても他人事ではありません。

では、なぜ、人間関係を別にしても、現場では、危険な対象を意識してその場で注意深くしたり、避けることができないのか?
「電気工事の現場じゃ、なんてたって下手したら感電死するんだから、いまの身を守ることに精一杯で、とても後になって病気になるかもしれないアスベストのことなんか気に掛ける余裕なんてなかったじゃないか」
30年後に、アスベストの取材をしていることをその後も親しくしていた電気工時代のひとり親方に話した時に、同意を求めるかのように言われました。
「確かにそうでしたよね」と作家は、相槌を打ち、焼酎のお湯割りの盃をかさねた、とあります。このやり取りで、親方と電気工のふたりだけでは、何とも解決の仕様のないことが、わかります。このふたりには、お互いを思いやる心情があふれているだけに沈鬱で深い会話となっています。

佐伯氏は、アスベスト粉じんがもうもうと立ち込める都心の現場を経験した直後から激しい咳き込みに襲われるようになり、苦しんだ末に病院に行っても、しばらくは原因が不明のままでした。咳き込みによる不調は、回復したかに思わせておいて、何度も何度も襲ってきました。

一般的に、アスベスト被災は「静かな爆弾」といわれ、吸引後、20~40年で肺にできた中皮腫などにより発見されます。それまでは、なかなか自覚症状がなく、体の不調を感じてはいるもののその原因はわからないまま時がすぎてゆきます。

佐伯氏のように、アスベストを吸い込んでから、時をおかず、アスベスト肺(=石の肺)が原因のせき込みや息苦しさ、体調の不調の症状が出るのは、アスベストを短期間に急激に大量に吸い込むというかなり極端な環境にいたことによります。

この同じ現場に携わった仲間のふたりはすでに亡くなっていたことが取材中にわかったそうです。
ひとりは、現場での感電事故、とても職人としてはありえない不注意な事故。もうひとりは、肺が原因で心臓が苦しくなる肺性心という病気で。
このふたりの死因を直接アスベストに結びつける糸は、今となっては、わからなくなっていますが、このふたりに起きたことは、アスベスト疾患の症状に苦しむ自分に充分に起こりうる出来事であることを他の作品でも作家自身が何度も言及してきました。

一方で、作家生活を送る中で、「アスベストのことは、もう吸ってしまったのは仕方がないのだから」とアスベスト疾患の定期検査の時以外は、あまり考えないように、つまり、アスベストのことは封印するように暮らしていました。

2005年に、機械メーカー・クボタの尼崎市旧神崎工場の周辺住民にアスベスト疾患が発生していることを報道した、「クボタショック」を新聞で目にしたあとに、出版社から、アスベスト禍にあったことを手記に書いてくれないかという依頼が作家にありましたが、「すでに小説には書いてきたのだから、それ以上何をいまさらいうことがあるのだろう、と迷い続けました。」

ところが、アスベスト被害者である職人たちはことばによる説明があまりうまくなく、ことばによる説明に慣れている大企業の社員たちよりも、補償に対して不利な立場になっているという事実を知りました。そして、その現状に対して、きちんと補償を受けられるように一生懸命支援し、アスベストの危険性を世間に訴えている人たちの姿から、作家はアスベスト被害者として、泣き寝入りをしないという勇気をもらいます。

また、しばらく住んでいたノルウェーで、聞いたことのある話。悪質なインフルエンザの流行に備えて、100年近くも前に悪質インフルエンザで亡くなり、凍土になかに埋葬された人たちの遺体からウイルスのサンプルを取り出そうとする科学者たちの話から、
「過去の災厄の痕跡を表層から掘り起こしてでも、現在の危機に対応しようとする西欧の科学者の情熱を、アスベストに対して自分も持たなければ、と思いました。
 アスベスト禍は、個人を超えた、いってみれば高度成長期の日本が問題を抱えていながら、それを見まいとしてきた死角なのですから。」

作家は、アスベストへの自らの封印を解き、自らのアスベスト履歴を記し、自分の立ち位置を決め、ことばによる説明が苦手な被害者たちへの取材を始めます。

自分のアスベスト被災経験をコトバにしてゆくなかで、20代はじめの若い身で家族を抱えて生計を立てねばならなかった若者が、生活してゆく上で、心ならずもアスベスト禍に飛び込んでしまい、高度経済成長期を迎えていた戦後日本の社会構造の負の一端にいやおうもなく巻き込まれていった佐伯氏本人の過去と現在の実感のありようが容赦なく綴られてゆきます。
個人的な病厄いきます。
このあたりの読書感は、実に不気味です。ふだんの生活の表層から隠れていた、禍々しいものが地表を破って姿を現してくるようです。

このリアルな不気味さは、アスベスト禍についての話ですが、読者もまた自分自身の人生で図らずも背負ってしまい、ふだんは忘れているが宿唖のように自分のなかに住み着いているモノについての思いをめぐらせざるをえないからでしょうか。そして、それらには、個人には収まりきれない社会的な背景を原因としているモノがあるからでしょうか。

さて、『石の肺』から、14年後に、この作家は、アスベストとの遭遇を題材にした4つの短編小説を収めた『アスベストス』というタイトルの本を発表しました。

◎佐伯一麦『アスベストス』2021年12月刊

あとがきには、「四篇を書き上げるのに、十三年を費やすこととなったが、そのことも曝露してから被害が現れるまで長い歳月がかかるアスベストの反映であるように、いまは思えている。」とあり、13年以上前から始まった、アスベストに関する取材から喚起されたフィクションである本書に通底する小説作家佐伯氏の思いは、長い年月のなかで何度も何度も確認された作業であったことがうかがい知れます。

この本では、『せき』『らしゃかきぐさ』『あまもり』『うなぎや』の4つの短編で、4種類の「アスベストとの遭遇」が描かれています。どれも特殊な環境での遭遇ではなく、4篇の登場人物それぞれの日常生活の中にふいに立ち現れたアスベストという修復不可能な重大な被害をもたらすものとの遭遇体験です。

『せき』は、在来線の駅前といっても、ドーナツ化現象で商業地としての地位をすっかり奪われてしまい、今やマンションとアパートが立ち並ぶ住宅地と化したなかで、常連客相手にやきとん屋を営む老主人の視点から語られます。主人も年配ならば、常連さんたちの多くも社会人を卒業した年配です。多摩の郊外で暮らす老齢期の私には、この風景には馴染みがあります。

アスベスト被害者への取材をする記者が店を訪れ、常連のひとりがアスベストの被害者であることを主人は知ります。そういえば、あのひとは、最近せき込むことが多くなってきていた。何となく気にはなっていたけれど。日常のなかに埋もれていたことがむくっと起き上がり、その禍々しい本性を現してきます。

この常連さん自身も家族に言われてやっといった病院で、アスベスト被害者と指摘されるまで、アスベスト被害のことなどは、まったく他所の出来事だったわけで、やきとん屋の主人や同じ常連さんたちにとってもその名称は聞いたことはあるが遠い出来事でした。

毎日のように会っていた知り合いのなかに、アスベスト被害者が隠れていた、しかも、被害者本人からもアスベストは長い年月隠れていたという事実そのものからアスベスト禍の姿がリアルに伝わってきます。

次のタイトルの『らしゃかきぐさ』とは、「ラシャかきぐさ」のことで、ヨーロッパ原産の植物で、先端が鉤状に曲がっているので、高級なラシャの起毛の際に用いると辞書にあります。

佐伯氏の分身らしい作家が何度目かのロンドン訪問で、夏目漱石が訪ねたというカーライル博物館を再訪します。

前回の訪問の時に、カーライルの日用品のなかに不思議な小物が目にとまりました。それは、「精巧な針金細工のような・・・咲き終わった花序の小苞の先端が鋭い鉤状に曲がっていて、その根元の周りを総苞が美しい曲線を描いて数本取り巻いている。それも長い棘をしている。」ハリネズミのはく製かとも思われるようなもので、案内の人に聞くと、「チーゼル」だと言われます。辞書で調べて、チーゼルとは、日本語で、ラシャかきぐさのことだったことがわかります。

日本に帰った作家は、アスベスト禍の取材を重ねてゆく中で、日本で初めて国を相手取って、アスベスト被害の損害賠償の訴訟を行った大阪の泉南地区で、何十年も前から、アスベストの被害を訴えてきた民間学者の家を訪ねたときに、その書斎というよりは、資料やガリ版刷りの段ボールが積み重ねられた仕事場の横にあった机の上で、チーゼルに再会します。

カーライル博物館への再訪は、前回の時に見たものが、泉南地区の学者の机にあったものと同じチーゼルだったかを確認するためでした。

この確認後に作家は、妻が出品している展示場に向かい、そこで顔なじみになっていた英国人の焼き物作家と会話を交わし、作家がアスベストについての本を書いていることを知った焼き物作家から、自分で使っている窯にありそうなアスベストのことを相談されたりします。作家は、英国はアスベスト禍の本場と思っていたので、英国人からの初歩的ともいえる相談に戸惑いを覚えたりします。

長い棘をもつラシャかきぐさのイメージは、作家の肺の中で引っかかっているアスベスト繊維を想起させ、アスベスト被害を訴えていた学者の机に同じそれを発見したときにそのイメージの繋がりが作家のなかで強いものになったようです。カーライルも学者も机の上に置いてあるということは、おそらくは、仕事の合間に指の底で少し触ってみて、その棘々の感触から、執筆活動で苛立った心に何らかの平安を得ていたのではないだろうかと、作家は想像します。触れることのできない肺の中の刺々しいものに触感から近づいてゆく官能性を感じる1篇です

『あまもり』は、手ずから楽しみながらリフォームするために購入したマンションの台所近くの天井の雨漏りをきっかけに、その天井板はアスベストが含まれている建材ではないかと気づく夫婦の話です。

もし家の中でアスベスト含有の建材が見つかったらという具体的な成り行きがたどられます。

まさか!から始まり、さて、どうするか?隣近所の人に聞くとほとんど気にしていないし、いざ、アスベスト建材の撤去となれば、法的な規則に準じてそれなりの費用と手続き、工事現場での安全対策の実施が必要になる。この夫婦も撤去工事の実施にさんざん迷いますが、これから成長する子どものためにもと、良心的な業者を探してアスベストの撤去工事をすることとします。アスベスト建材撤去にあたっての手続きと作業、周囲への告知などが細かくきちんと描かれています。

工事終了の1年後に、クボタショックが起きますが、夫婦の周りにあるアスベスト建材への無頓着な風景はかわりなく、今のところ夫婦の住むマンションの各室にいるアスベストたちもその下で暮らす住民たちも沈黙したままのようです。

『うなぎや』は、こんな大将がいるうなぎ屋で一杯飲みたいという気持ちにさせる文章から始まります。

しかし、これは、この大将がアスベスト被害に遭わずに、計画通りにうなぎ屋を開いていたら、家族でお客さんをもてなす、あたたかい雰囲気の素晴らしいうなぎ屋になっていただろうという、佐伯氏の分身である作家の想像です。

若いころからの修行経験を活かしてうなぎ屋の大将になるはずだった松谷裕二、居心地のよいうなぎ屋で至福のときを過ごすはずだった作家の茂﨑皓二、このふたりの人生は、お互いに交わることなく平行に過ぎてゆき、やがて交差します。だが、ふたりが実際に遭遇することはありませんでした。

松谷裕二は、1956年に生まれ、掘立小屋のような古いぼろ家で育ち、少年の頃に尼崎市内神崎の新築ピカピカの市営アパートに引っ越します。アパートの部屋は、5階でエレベーターもなくたいへんだったものの、「よかった、五階でもええわ。ええ空気や。ええ風が入るわ。と親子で喜び、深呼吸」までして喜びました。「隣地は水道管などを製造する工場で、住宅地との境にフェンスなどはなく、子どもの遊び場となって」いました。
高校を卒業した裕二は、尼崎の中央市場で働き、うなぎ職人としての修行を始めます。そして、中学の頃からの趣味である映画撮影を続けながら、職人としての腕をぐんぐんあげてゆきます。そして、満を持して、家族にうなぎ屋の店を持つことを発表し、喜ばれたのが2004年5月でした。

2005年6月30日に、クボタショックが報道されました。「水道管などを製造する」大手機械メーカーのクボタが、尼崎市旧神崎工場の従業員にアスベスト原因のがん、中皮腫で死亡した従業員が78名おり、さらに、周辺住民にもアスベスト疾患が発生していることを公表したのです。その後、全国でアスベストを扱う工場の周辺住民にアスベスト疾患がみつかってゆくことが続く、いわゆる「クボタショック」の始まりの記事でした。

松谷裕二は、家族に店を持つことを発表した2004年4月の2か月後に胸に異常を覚えるようになり、胸の痛みや身体のだるさに耐えられなくなり、病院に行って検査を受けたところ、アスベストに関わる仕事についたことがありますか?と聞かれますが、アスベストという呼称自体を聞いたことがありませんでした。

クボタショックが報道された2005年6月には、裕二は、病状がかなり悪化しており、寝たきりとなり、面がわりして、すっかり年寄りのようになっていました。

2005年6月に、松谷裕二は亡くなりました。

生前に行われた病床での松谷裕二へのインタビューをテレビで観ていた作家は、「裕二の無念の表情に背中を押されるようにして、アスベスト禍をテーマとしたノンフィクションを書く決心」をします。

うなぎ屋の大将の人生と作家の人生は、実際には遭遇することはありませんでしたが、このときに交差したのではないでしょうか。二つの人生が人知れず触れあい激しくスパークしたのです。

この最後の短編は、佐伯氏の分身である作家や『石の肺』に登場したひとがモデルになっていることもあり、アスベスト被災が人間にもたらした現象を凝縮して密度濃く描いている印象です。

うなぎ屋の大将松谷裕二、作家茂﨑皓二。

この二人の名前に、「二」があるのは、偶然なのだろうか、とふと思います。

ふたりに共通の印(「二」)がある以上、この二人が同じ側の人間、アスベスト被害を被っている同じ側の人間であることを示しているようです。

しかも、この「ニ」には、ふたつの人生という意味があるような気がします。

アスベスト被害に遭遇した人生と遭遇しなかった人生、この二つの人生が、この短い小説の中に流れている気がして仕方ないからです。そして、アスベストに遭遇しなかった人生を想像し、そのなかに立ち入るのは、アスベスト被害を被ったことへのやりきれない思いを抱いたままできる鎮魂の儀礼のひとつかもしれないとも思ったりします。

作家は、アスベスト被害に遭遇しなかった人生のなかで、うなぎ屋の大将の店で居心地の良い時間を何度も過ごしています。

今の人生とは別のそうなったかもしれない人生を思うことは、今さら変えようのない人生を確認し、今の人生をさらに重たく辛いものにすることもありますが、あり得たかもしれない人生は、今の人生を鎮めてくれる力を静かに苦い思いとともにもたらしてくれるのかもしれません。この短い小説を読み、深い痛みに触れ、どうしてよいかわからないままそんなことへ、思いがいってしまいました。

アスベスト被害は、自分や自分の近くで今すぐ発見されてもおかしくないだけに、自分の内外でアスベスト被害に遭遇する人生について考えさせられるのでした。

佐伯一麦の本を読むことで、僕もアスベストをめぐる二つの人生への思いを抱えるようになったのでしょうか。

読書がひとつの通過儀礼ならば、佐伯一麦氏の『石の肺』『アスベストス』を読むことで、ひとは、アスベスト被害に遭遇する人生と遭遇しなかった人生の二つの人生のどちら側にいてもおかしくない自分、二つの自分を抱えることになっていることでしょう。

【了】


《註》アスベスト(石綿)被害とは?

2005年6月29日に、大手機械メーカーのクボタから、アスベストを扱う自社工場で働いていた従業員や周辺住民に、アスベスト関連疾患の患者が多数発生し、死亡者も出ていることが発表されました。これは、全国にあったアスベストを扱う工場にも波及し、「クボタ・ショック」と言われる社会現象を起こし、アスベスト被害が直接アスベストに接していた人たちに起きるだけでなく、アスベストの粉塵がまき散らされた工場周辺にも起きていることで、日常生活に入り込んだアスベスト繊維を吸飲したことで起きるアスベスト被害を世間に知らしめ、今までアスベストとは関係ないと思われていた普通の人々にも被害者が発生してるという事実に多くの人が震撼しました。

そもそも・・・アスベスト(石綿)とは・・・ 天然に産する鉱物繊維で、耐火性や断熱性、防音性、耐摩耗性等に優れ、古来からいろんな用途で利用されてきました。20世紀にはいると「奇跡の鉱物」ともてはやされ、建築資材として大量に消費されるようになりましたが、1970年代に入ると、人体や環境への有害性が問題となり、日本でも法的な規制が始まりました。

アスベストの人体への危険性は、 毛髪の1/5000という細さで、空中に浮遊し、人間が吸引すると肺細胞等に突き刺さり、そのままある程度悪化するまでは自覚症状はないまま、平均20~40年の潜伏期間を経て、「中皮腫」等の 悪性のがんを発病することであり、そのことから「静かな爆弾(サイレント・キラー)」とも呼ばれています。

日本での法的規制は、1975年以降に本格的に始まっています。

1975年(昭和50年) アスベスト含有率5%を超える吹付け 作業の原則禁止
1995年(平成7年) アスベスト含有率1%を超える吹付け 作業の原則禁止 
2005年(平成17年) 石綿障害予防規則が新設施行
2006年(平成18年) アスベスト含有率が0.1%を超える 製品の製造、輸入、使用などを禁止。

日本でのアスベストの供給は輸入でまかなわれているため、輸入量の推移グラフを見ると毎年のアスベストの消費量がわかります。下記のグラフによると、法的規制が始まった1975年以降もアスベスト輸入量は高い数字を継続し、バブル期には、74年に次ぐ、大量の輸入=消費がなされています。

<参考資料>日本における石綿(アスベスト)輸入量の推移 (厚労省労働基準局資料より)


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