ヘルシーテンプル講演会

お寺の経済基盤をどうする? 「自立できないものはつぶす」には与したくない

お寺を地域の拠点、居場所にというのが私の主張であることは、拙著『「定年後」はお寺が居場所』(集英社新書)にも記した通りだ。その中でも紹介した「寺子屋ブッダ」がこのほど、ヘルシーテンプル構想というのを打ち出し、シンポジウムを都内で開いた。ヨガやマインドフルネス、認知症カフェなどを寺ですることで、寺を地域の健康拠点として活用する。それによって健康寿命を延ばすという社会課題に貢献することを目指す。時を同じくして現在、ネットでは太陽光発電やバイオマスを活用した電力販売会社をお坊さんたちが始めるというNHK報道が話題になっている。この二つの動きには、通底するものがある。お寺の経済基盤の問題だ。

ヘルシーテンプル構想は収益につながるか
まず、ヘルシーテンプル構想について。お坊さん自身が指導する場面もあるだろうが、基本は地域でヨガなどを教えている人や、認知症や食にかかわるNPOなどに場を提供する。まだ協力する寺院は少ないが、今後増えていってほしいと個人的には願う。お寺にとっては比較的、敷居の低い取り組みだと思うから。ただ、お寺の経済はどうするかという課題が残る。

少子化と都市部への人口集中によって、檀家制度の終焉は避けがたい。葬式にお寺がかかわらない形式のものは今後、ますます増えていくだろう。お寺が寄って立つ経済基盤は砂上の楼閣となりつつある。ならば、ヘルシーテンプルに集った人たちから「浄財」を得ることで経済基盤としていくのか、いけるのかといったことを真剣に考えるお寺もあるだろう。それがもしも可能ならば取り組むという寺だってあるはずだ。シンポジウムでも写真にあるように「経済的な持続可能性」として議論された点だが、「これは」というような話は出なかった。

寺の兼業は当たり前。電力販売は社会的意義がある
一方の電力販売については、販売網として檀家を活用するようで、その点と「布教が本義のお寺がモノを売るとは」といった観点での批判が多いように思える。「つぶれそうなお寺はつぶせばいいじゃないか」という声もたくさんある。まだ当の会社からの正式な発表がないまま報道が先行しているので、現段階では正確な詳細情報がない。だが、つまるところ、お寺の経済基盤の強化が目的であることは間違いなさそうだ。

私はこの取り組みは悪くないと思っている。これまでだって、地方の多くの寺院は檀家制度だけでは寺の維持が困難で、会社員や教員などとの兼職によって得た賃金を運営に充てることでかろうじてしのいできた。決して珍しい形態ではない。保育園や老人施設を運営することで経済基盤としてきたお寺も数多い。都市部には、お寺による駐車場や貸しビルだってある。電力販売は、何も反社会的な物資を販売するわけでも、流行りすたりを追いかける商品開発をするわけでもない。北海道胆振東部地震での電力ブラックアウトであらためて電力が生存に深くかかわるライフラインであることが再認識されたわけで、そこを支えると考えれば大切な取り組みだと思う。人の命と生活を脅かす原発を廃止していくためにも、再生可能エネルギーの増産は大切だ。そんな社会的意義ある活動によってお寺が維持できて、寺に集い安らぎを得ている人たち、先祖祭祀の場として大切に感じ入る人たちの「居場所」が守れるなら、それにこしたことはないではないかと思うのだ。ヘルシーテンプルのような場の提供が経済基盤になるのならそれに越したことはないだろうが、いまはまだ見通しはたたないのだから。

「生産性」がないものはダメなのか?
たぶん、批判の中心の一つである「そこまでして残す必要があるのか。つぶれそうなお寺はつぶせばいい」という点がキーポイントなのだろう。もちろん、私も7万7千もある寺のすべてが生き残るべきだなどとは、これっぽっちも考えていない。布教をするでもなく、寺の現代的存在意義とは何かに向き合う気もない、やる気のない僧侶、寺には消えていただいたほうがいいとさえ思っている。だが、当たり前のように人々のために活動しているお坊さんは実はとても多い。民生委員や教誨師を務めたり、地域のお年寄りたちの話し相手になったり。意識せずとも日常的にしていることが、実は多くの人たちを支え、時に救いになっている。報道もされず、声高に誇ることもないそうしたお坊さんたちを、資本主義の論理で簡単に切り捨ててしまってよいのか。それは、LGBTや障がい者などは「生産性」がないからと切り捨ててしまう論理に与してしまうことと同義だと考える。

お寺がただそこにあるというだけで、安らぎを感じることや、先祖から今に至る命の悠久のつながりの不思議に思いをはせるといった、「生産性」とは別の価値を見出すことはできる。お坊さんがいるだけで、心安らぎ、悩みを吐露したくなることだってある。たとえ、経済的価値を直接生み出さない「生産性」の低いものだとしても価値はある。自立的に経済的に立ち行かないものはすべてダメという価値観に私は与したくない。お寺の新たな経済基盤とはどんなものか。残された時間はそれほど多くはないが、私自身も考え続けたい。

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