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体験は絶対か 逆に共感をなくす危険も

体験は絶対か。たしかに、体験した人の言葉は重い。だが、時にはその体験を水戸黄門の印籠のように振りかざすことで、周囲からの理解や共感を失ってしまうことがある。しかも、ともすると体験の中での「より深い体験をした」「こちらのほうが大変だった」といった意味不明な優劣競争にさえ突っ走り、周囲を興ざめさせる。

例えば介護や病気の体験
これは、介護体験や病気の経験を思い出してもらうとわかりやすい。「うちは10年間も自宅で両親を介護した」「わたしはこんなに大変な入院生活だった」から始まり、「いや、そちらは老衰だけでしょ。うちなんか認知症もあったからもっと大変」「あなたの病気は痛いかもしれないけど、動けたでしょ。わたしなんか動いたらいけなかったんだから」など、なんの争いをしているのやら、というふうに。

最初のうちは、それは大変ですね、と思う。だが、それが延々と続くと「大変な体験をしているのは、なにもあなただけじゃあないんだよ」と心の声が騒ぎ出し、共感は一気にしぼんでいく。たぶん、共感や理解が得たいから周囲に訴えているはずなのに、逆にひかれてしまう。これは本人的にもマイナスだろうし、社会的にももったいないと感じる。

共感から始まる、一緒に解決へという道のり
個人が体験した大変な状況には、なにか社会問題・課題とつながることが根っこにあることが多い。自宅介護が大変だったら、そこからマンパワーを増やす必要性や施設の充実といった課題解決という方向に進むことができる。そうした方向に向かう前提には、体験への理解と共感があるはずだ。「それは大変」という思いが、いたわりと同時に「何か」があるという問題への触角を働かせ、一緒になんとかしていきましょう、と輪が広がる。

体験を絶対視すればそもそも、体験したことがない人以外には発言権さえないことになりかねない。「あの痛みや大変さを経験したこともないくせに、黙ってろ!」「しょせん机上の空論。これだから体験したことがない者は」と。これでは、個人の問題はあくまでも個人が自身でなんとかしろ、という段階から次のステップに踏み出せない。ぜんぶ自己責任。まさにベックやバウマンの指摘する社会の「個人化」的状況から抜け出すことはできない。

個人の問題は社会の問題
個人の問題は社会の問題なのだという、言い古された言い回しだが、とても大切なことを忘れたくない。体験はとても大切でそこからしかみえない風景がある。体験できることなら体験したほうが共感度は高まる。でも、もともと他者の体験を完全に同一的に体験することなど論理的にもありえない。あくまで類似体験でしかない。個人の体験は永遠にその個人個別のものだ。でも、それでも共感しあえるのが人という動物の特殊な能力なのだと思う。自省をこめて、体験絶対主義には陥らないようにしたいと思う。

#共感 #体験 #介護 #個人化 #つながり #社会問題


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