▶テニス上達メモ084.被害者意識と自己肯定感
▶テニスは「被害者意識」が生まれやすいスポーツ
「アンパイアはどこを見てるんだ」
「相手のセルフジャッジが怪しい」
「パートナーのミスにはうんざりだ」
「あの観客の態度はなってない」
テニスをプレーしていると、こういう気持ちに、なってしまいがちではないでしょうか?
他人を出しにして自分を正当化したくなる被害者意識。
もちろん、アンパイアや相手のセルフジャッジに物申すのは構わないのです。
パートナーのミスにも改善を促す提案ができればするのはいい。
観客のマナーもプレーに支障があるなら、「Quiet please, thank you」です。
▶客観的事実の確認を
ただし、そうしていいのは、具体的な対応を講じる「行動」まで。
つまり、「意識」まで被害者にならないようにします。
たとえばプロのツアーでアンパイアのジャッジが怪しいようであれば、ホークアイによるチャレンジ権を行使する客観的な事実の確認まで、ということです。
それ以上に「このアンパイアはなってない!」「どこ見てるんだ!」などと意識を被害者として昇華させません。
もちろんアマチュアで「チャレンジシステムなんてない」というならば、クレーコートなら、ボール跡を振り返る客観的事実の確認はできます(砂入り人工芝コートでも)。
とにかく、うっかり「被害者意識」に没入してしまわないようにします。
▶「眼識」が被害者「意識」へすり替わるとき
なぜかと言うと、ひとつには被害者意識が生まれると、それは「意識」ですから、ボールに「集中」できなくなりプレーに支障が及ぶ弊害が一点。
眼耳鼻舌身意( げんにびぜつしんい)。
繰り返しになりますが私たちが認識できる対象は、「一時にひとつ」が原理原則です。
見ているとき聞けないし、聞いているとき嗅げないし、嗅いでいるとき味わえないし、味わっているとき考えられないし、考えているとき見えません。
今、鳴っていたとしてもこれを読んでいる最中は、空調の「音」は聞こえなかったのですよね。
被害者意識があるとき、ボールが見えなくなるのです。
もちろん、何となくなら、意識しながら、見えてはいます。
ですがそれは、「集中」ではなく「ながら」。
文字どおり「何となく」でしか対象を認識できません。
つまりモヤモヤとした被害者「意識」があると、視界にモヤがかかったようなボールの映り方になり、打球タイミングを外す不利を招きます。
なので何かあったら、具体的な対応を講じる「行動」まで、とします。
▶「はい、そこまで」
被害者意識があると、プレーで不利を招く具体的なデメリットを確認しました。
そしてもう一点、自己肯定感が危ぶまれます。
こちらでも述べましたが、たとえば日常生活でも「ゴミの出し方がなってない(だから私は被害を被っている!)」というふうになると、自己肯定感を損ねます。
なぜなら「自己肯定感=他者肯定感」だからでしたね。
つまり、他者否定に走ると、正比例の相関なのだから自己否定的にもなります。
「ゴミの出し方がなってない!」
この場合は張り紙をする、間柄によっては自分が困っている事情を丁寧に伝えて一緒に改善案を模索する、あるいは自分で整理整頓するなどの具体的な対応を講じる「行動」までが許容されます。
客観的事実であるボールマークをお互い確認したら、「はい、そこまで」。
それ以上に意識を「被害者」へ昇華させません。
▶一切の「我慢」は不要
「そうはいっても、マナー違反のゴミ出しで困っているのは事実なんだ!」などと憤るかもしれません。
「ちゃんとジャッジしてくれれば気持ちよくプレーできるのに!」とネガティブな感情を引きずりがちです。
被害者意識を持たないとすれば、自分が「我慢する」しかないのでしょうか?
もちろん我慢すると、自己肯定感は下がります。
我慢する自分に肯定的なイメージは伴わないですからね。
こちらでお伝えしたとおり、自己肯定感を高めるにあたっては、一切の我慢を強いないのです。
▶頭ごなしの自己主張は「混ぜるな危険」
だからといって、いきなり「言いたいことを言う!」などと、自己肯定感が低いままに自己主張をすると(それは確かに、自己肯定感が高めの人がするには有効な場合もあるのだけれど)、「きちんとゴミを整理してください!」などとキレたり、「勇気を出して注意したけど、相手は怒っていないだろうか?」などと否定的な気持ちが逆なでされて、かえって自己肯定感を低めかねません。
キレたり、否定的な気持ちになったりするのと、自己肯定感は相容れません。
▶細くても頼れる「第三の道」
どうすればいいでしょうか?
相手へ頭ごなしに文句も言わない。
自分も一切我慢しない。
その間に、細くても頼れる第三の道があります。
それが、「罪は罪でも人は憎まず」です。
人は憎みません。
憎むと、ブーメランが返ってきます。
それは相手からの仕返しではなく(それもあるかもしれませんけれども)、もっとダイレクトに返ってくるのが、自己肯定感を損なう特大ブーメランです。
▶「温情」ではない
「悪いのは相手なのに、どうしてそんな温情を?」という被害者意識が、自己肯定感を損ねるのです。
罪には、具体的な対応を取る「行動」までを行使。
テニスで言えば、イモジャッジにはボールマークをお互い確認する。
相手の声援がインプレー中まで騒がしいなら、ロービングアンパイアに事情を伝えて静粛を促す、といったところでしょうか?
「うるさい!」といってキレたり、「こっちはプレー中だぞ!」などと頭ごなしの自己主張をしたりするのは、「混ぜるな危険」です。
それは自分を大切にする自己肯定感とは相容れず、自分の心身を危険にさらす可能性がある、自他に対するディスリスペクトとなりかねません。
▶かけがえのない経験を
テニスはミスするスポーツだから自己否定に向かいやすいきらいがあり、だからこそ逆手に取れば、自己肯定感を育むエッセンスが凝縮されているとお伝えしています。
そしてミス以外にも、このようにテニスでは生まれやすい「被害者意識」を上手く逆手に取れば、自己肯定感を高める「かけがえのない経験」になるというわけです。
ですから、被害者「意識」が拡大する前に、「行動」は迅速に。
我慢していると被害者意識がみるみる拡大し、怪しいジャッジが続くと「またやられた!」と感じて他者否定=自己否定の「引き下げ合戦」に取り込まれてしまいます。
「今のショットもそうだけど、さっきのポイントも入っていたぞ!」などと蒸し返すと、相手にしてみれば「どうしてそのときに言ってくれなかったの?」などと言い換えされて、逆にこちらが「加害者扱い」されてしまいかねません。
▶日常生活にも溢れる「被害者意識の種」
日常生活でも、日常茶飯事にあると思います。
「相手が時間を守らなかった」
「長話につき合わされる」
「仕事で振り回されてばかりだ」
「カスタマーセンターはいつまで待たせる気だ」
「裏切られた」
繰り返しになりますが、テニスは自己肯定感を損ねやすいファクターがぎっしり詰まっています。
テニスはミスするスポーツですから、自分のミスはもちろんのこと、見てきたように「被害者意識」も生まれやすいシビアなスポーツといえるでしょう。
▶「リスペクト」の交換が人々を魅了する
確かに見た目は、ただネットを挟んでボールを打ち合うだけの単純な競技です。
だけどなぜ、これほどまでにテニスが人を魅了するのかといえば、プレーする側も観ている側も、1球1ポイントに、人情の機微が反映されているからだと思います。
不甲斐ないミスをした選手を見た観客は、「あぁ、自分も日常生活でよくやらかすよ」などと受け入れ合うリスペクトを交わしているのかもしれません。
ですからそのエッセンスを日常生活にも取り入れ、幸せな人生を送る戦略のための合理的な戦術として、楽しいばかりではないテニスだけれど、だからこそ自己肯定感を高めるためのトレーニングとして、いざ精進せん!
▶追伸・そして今朝、飛び込んできたニュース
2024年フレンチオープン男子シングルス決勝戦、死闘の末に敗れたにも関わらず、こう言ったのだとか。
「審判だってミスをする。彼らも人間だからね」。
最終セットで迎えた第4ゲーム、カルロス・アルカラスのフォールトをアンパイアがコレクション(訂正)します。
インにして、試合の行方を左右する重要な局面のアレクサンダー・スベレフによるブレークバックはなくなりました。
ところがその後テレビ中継で流れたビデオ映像では、わずかにアウト。
つまり実際はアルカラスのフォールトであったにも関わらず試合はそのまま続行されました。
記者会見後、スベレフはサラリと上記の言葉を口にしたというのです。
うっかり、「被害者意識」がうずきそうです。
「言い訳」したくは、ならないでしょうか。
彼にとっては初のグランドスラムタイトル戴冠となったかもしれません。
ズベレフの自己肯定感の高さが窺い知れたエピソードだと思います。
即効テニス上達のコツ TENNIS ZERO
(テニスゼロ)
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