ハプワース16、1924年
p156 (ハプワース)
ぼくは何よりも、自分の書き言葉と話し言葉の大きなギャップに死ぬほどうんざりしているって!二種類の言葉を持っているということは、すごく気持ちが悪くて、不安なんだ。
p251《テディ》
しかし、仕事を離れて休暇をとっているときの声は、単なる音量を楽しむときと、舞台もどきの静かで落ち着いた物言いを楽しむときと、この二つが交互に入れ替わるのが通例であった。
p224《ド・ドーミエ=スミスの青の時代》
二人の人物の衣服の乱れが写真のような克明さをもって描かれていて、実を言うと、この絵が持つ風刺的な意味よりもむしろそこに駆使されている職人的技術にわたしは感心した。
p61(ゾーイー)
遅くならないうちに言わせてもらうけれど、いま話しているこのゾーイーについて、互いに複合したというか、重複しているというか、一つのものが二つに分裂したというか、とにかく一括すべき一件書類みたいな格好の二つの記事を、ここに挿入するのが至当であろう。
p176 (ハプワース)
あの議員と、ミスター・ハッピーの胸が悪くなるへつらいかたに腹を立てて、お腹のかわいい赤ちゃんが悪い影響を受けないようにくれぐれも注意してくださいって。本当にあの二人がくだらないことを話しているところは不愉快だった。ミセス・ハッピーは心から同意してくれた。その日、そのあとで、ぼくは彼女のために、嫌だったけどミスター・ハッピーのたっての頼みをきいて、夕食がすむと、バディとバンガローにいって、お客である、あの嫌な議員のために何曲か歌をうたったりした。だけどぼくは、腐敗臭の漂う場所にバディを連れて行く権利なんてなかった。だから心ひそかに、神様にぼくを罰してくださいと祈っている。出過ぎた真似をしたと思う。賢い弟に相談もしないで軽はずみに受けたりしちゃいけなかったんだ。ただ、招待を受けたあとふたりで相談して、タップシューズを履かないでいくことにした。ところが、これが大間違いで、ただの気休めに過ぎない事がわかった。その晩、場が盛り上がって、ぼくたちはソフトシュータップをすることになったんだ!皮肉なことに、僕たちのタップは最高の出来だった。それはミセス・ハッピーがアコーディオンを弾いてくれたからだ。美人で才能のない人が、アコーディオンで下手な伴奏をしてくれたら、そうならざるを得ない。ぼくとバディはすごく感動して、すごく楽しくなった。ぼくたちはまだ幼いけど、美人で才能のない人のためとなると、突っ込みどころ満載の、ひょうきんな引き立て役になってしまう。こういうところは直そうと思う。まったく、かなり大きな問題だよね。
p48(キャッチャーインザライ)
そのうちに、僕は、洗面台に座ってるのが飽きちゃってね。二、三フィート後ろに下がってタップダンスをやりだした。理由なんか何もあったわけじゃない、ただ、ふざけてそうしただけのことさ。本当は僕は、タップも何もできやしないんだけど、洗面所は石の床だろう、タップ・ダンスには向くんだな。僕は映画で見た奴の真似を始めた。ミュージカルで見た奴をね。僕は映画は大嫌いなんだけど、真似をするのは面白いんだな。ストラドレーターの奴は、ひげを剃りながら、鏡の中の僕の姿をじっと見てやがったよ。僕はまた、観客さえあれば何にもいらない男なんだな。なにしろ自己顕示屋なんだよ、僕は。「おれは知事のせがれでね」と、僕は言った、だんだん調子に乗ってきちゃってさ。むやみやたらとタップをふみながらだぜ。「おやじがタップ・ダンサーにならしちゃくれねえんだな。オックスフォードへ行けって言いやがる。しかし、おれの血の中に入っちまってんだな、タップ・ダンスがさ」ストラドレーターのやつは笑ったね。あいつ、ユーモアのセンスはそう悪くないんだ。
p228 (ゾーイー)
これからウェーカーといっしょに舞台に出るってときに、シーモアが靴を磨いてゆけと言ったんだよ。僕は怒っちゃってね。スタジオの観客なんかみんな低能だ、アナウンサーも低能だし、スポンサーも低能だ、だからそんなののために靴を磨くことなんかないって、僕はシーモアに言ったんだ。どっちみち、あそこに坐ってるんだから、靴なんかみんなから見えやしないってね。シーモアはとにかく磨いてゆけって言うんだな。『太っちょのオバサマ』のために磨いてゆけって言うんだよ。彼が何を言ってるんだか僕にはわからなかった。けど、いかにもシーモア風の表情を浮かべてたもんだからね、僕も言われた通りにしたんだよ。
p182 (ハプワース)
本音をいうと、冷たく、悲しいほど非人間な、ニューヨークやロンドンみたいな大都市から離れると、僕は本来の自分ではいられなくなるんだ。一方、バディはこれから先、大都市のしがらみから永遠に離れていくだろう。
p197、198 《愛らしき口もと目は緑》
とんだ無駄騒ぎさね。これは正直言ってニューヨークという町のせいだと思うぜ。だからおれは考えるんだ、万事がうまく行くようなら、コネティカットのどっかに小さな家を買ってさ。むろん遠すぎちゃ困るが、おれたちがまともな生活を遅れるぐらいに離れたとこを探すんだ。あいつは草花やなんかには目がないから。自分の庭なんてものがもてたら、きっと有頂天になって喜ぶと思うんだ。分かるだろ、おれの気持ち?つまり、その−あんたは別だけどニューヨークで俺たちの知ってる連中はみんなノイローゼみたいなもんだからさ。分かるだろ、おれのいう意味?
p120、121 《小舟のほとりで》
「大体こんなとこに10月の末までもなんだって残るのかね、あたしにゃわけがわからないよ」サンドラは茶碗を下ろしながら苛立たしげに言った「今じゃ誰も水に近づきもしないじゃないのさ。あの変ちくりんな船までももう出さなくなっちまった。あんなものになんだって大事なお金をはたいたものやら、あたしにはわけがわからないよ」サンドラは恨めしそうな目つきで正面の壁を見据えている。「ニューヨークに帰りたいなあ。嘘じゃないよ。こんなイカレタとこなんて、あたし、大嫌いさ」
p191、192 (ハプワース)
正直に暗い側面をざっと書いてきたけど、残念ながら、もう一つ書かなきゃいけないことがある。もし父さんと母さんがまだホテルのロビーに遊びにいってないなら、いっておきたい。ふたりの子供はかなりの高い確率で、本来自分の責任ではない痛みを経験するという、残酷な資質を授かっているんだ。ときには、見ず知らずの人の代わりにそういう目にあうこともある。相手はたいがいカリフォルニアかルイジアナの怠け者で、会ったこともしゃべったこともない人間。ここにいないバディに代って、ぼくからもいっておくけど、ぼくたちは自分たちの機会を利用して義務を全うするまでは、現在のこの興味深く滑稽な体のあちこちに小さな傷を負わないわけにはいかない。残念なことに、この痛みの半分はそれを避けている人や、それをどう扱っていいかよくわかっていない人が負うべきものなんだ!だけど、母さん、父さんにいっておくけど、ぼくたちが機械を利用して義務を全うするときは、良心に恥じることなく、ちょっとした気分転換の気持ちでこの世を去ると思う。それまで感じたことのない気分でね。もうひとつ、父さんと母さんの息子バディ-もうすぐ戻ってくると思う-に代っていっておく-名誉にかけていうけど、原因はなんであれ、ぼくたちどちらかが死ぬときには、もう一人が必ずその場にいるはずだ。ぼくの知る限り、間違いない。
p173、174 (キャッチャーインザライ)
「そうですね、ぼくはロミオにもジュリエットにもそんなに心を惹かれないんです」と僕は言った。「そりゃ好きは好きですけど-なんていうかな。ときどき、あのふたりにいらいらしちゃうんですね。つまり、ロミオやジュリエットが自殺するとこよりも、マキューシオが殺されるとこの方がずっと気の毒な感じがしたんです。本当を言うと、マキューシオがあのもう一人の男に刺されてからのロミオには、僕はどうも好感が持てなかったな、あの男-ジュリエットのいとこの-なんていいましたっけ?」
「ティボルトでしょう」
「そう、そう。ティボルト」と、僕は言った-僕はいつでもあいつの名前を忘れちまうんだ。「あれはロミオの責任ですよ。つまり、僕は、あの芝居の中で、彼が1番好きだったんです、あのマキューシオが。どう言うかなあ。モンタギュウ家やキャピュレット家の連中は、あれはあれでいいですよ−ことにジュリエットはね−しかし、マキューシオは、あれは−どうも説明しにくいな。あの男は実に頭がよくて、愉快で−。実を言いますとね、僕は人が殺されたりすると、頭に来ちゃうんです−ことに頭がよくて愉快で、といった人がですね−しかも、自分のせいじゃなく、他人のせいで殺されたりしますとね。ロミオとジュリエットが死ぬのは、あれは、少なくとも自分たちのせいですから」
p196 (ハプワース)
父さんが神とか神意とか-父さんが怒ったり不快に思ったりしなければ、どう呼んでもいいけど-そういうものを信じてなくて、真剣に考えてないのは知ってる。だけど、この蒸し暑い、ぼくの人生で記念すべき日、名誉をかけてこう言いたい。煙草一本に火を付けることさえ、宇宙の芸術的許可が気前よく与えられなければ不可能なんだよ!
p218 (ハプワース)
ブーブーはこの頃「神さま」という言葉が信じられなくなったみたいだね。新しいお祈りにすれば、それが解決できるよ。「神さま」という言葉を使わなくちゃいけないという決まりはないんだ。それが「つまずきの石」だったら、使わなくていい。これからはこのお祈りにしよう。「わたしは子供です。いつものように、これから寝ます。『神さま』という言葉はいま、わたしの胸にささったとげです。この言葉をいつも使って、うやうやしく思い、おそらく心から大切に思っている人もいます。わたしの友達のロッタ・ダヴィラとマージョリー・ハーズバーグもそうです。わたしはふたりのことを、いやな、すごい嘘つきだと思っています。わたしは名前のない、あなたに呼びかけることにします。わたしの思うあなたには形がなくて、特に目立ったところもありません。そしていままでずっとやさしく、すてきで、わたしの運命を導いてくれました。わたしがこの人間の体を借りてすばらしい生を生きているときも、そうでないときも。どうか、わたしが眠っている間に、明日のための、間違いのない、理由のある教えをください。あなたの教えがどんなものか、わからなくてもかまいません。そのうちいろいろなことがわかってくると思います。でも、あなたの教えは喜んで、感謝して、しっかり守ります。いま、わたしは、あなたの教えがそのうち、効果と効能を発揮して、わたしを励まし、意志をかたく持つ助けになると考えています。でもそのためには、心を穏やかにして、心を空っぽにしておかなくてはならないそうです。なまいきなお兄ちゃんがそういってました。」しめくくりは「アーメン」でもいいし、ただ「おやすみなさい」でもいい。どちらでも好きな方を選べばいいし、自分の気持ちにぴったりするほうを選んでもいい。汽車の中でぼくが思いついたのは、これだけ。だけど、なるべく早く伝えようと頭の中にしまっておいたんだ。ただし、いやだったら、こんなお祈りはしなくていい!それから、自由に、好きなように、いいかえていいよ!もしこんなのがいやだと思ったら、さっさと忘れて平気だから。ぼくがうちに帰ったら、またほかのを考えてあげる!ぼくのいうことは絶対間違いないなんて、考えないように!ぼくは本当に、間違いばかりやってるんだから!
p202 (ハプワース)
この美しく腹立たしい世界で何かを尊重すべき確固たる事実と呼ぶという、じつに疑わしげな満足を得るためには、ぼくたちは機嫌のいい囚人のように、目や手や耳や、単純で哀れな頭脳から提供される頼りない情報を百パーセント信用する以外ない。そんなものが価値基準の確固たる基準になるんだろうか?冗談じゃない!確かにそれは間違いなく感動的なものではあるけど、確固たる基準になるわけがない。それは、哀れな人間の感覚器や頭脳を盲信することにほかならない。「仲介人」という言葉があるけど、人間の脳は有能な仲介人だ!そしてぼくは、この世の仲介人は一切信用しないよう生まれついた。たしかに、不幸なことだと思うけど、このことについての楽しい真実とやらはこれっぽっちも語る気になれない。ところが、ここで、愚かなぼくの胸のなかにいつもある不安の確信にぐっと近づくことになる。ぼくは仲介人とか、個人的見解とか、尊重すべき確固たる事実とかは全く信じてないくせに、正直いうと、どちらも度を越して好きなんだ。ぼくはどうしようもなく感動してしまうんだよ。とびきり素晴らしい人たちが、この魅力的で当てにならない情報を、人生の哀れな瞬間瞬間に受け入れているその勇気にね!ああ、人間って本当に勇敢な生き物だと思う!地上最後の哀れな卑怯者さえ、言葉では言い表せないくらい勇敢だ!人間の当てにならない感覚器や脳を、魅力的で表面的な価値そのままに受け取るんだから!そして同時に、これは間違いなく、悪循環だ。ぼくは悲しいけど、もし誰かがこの悪循環を断ち切ったら、それは全人類への親切で永続的な贈り物になると思う。だけど、人はしばしば、そんなことを急ぐ必要はないと考えてしまう。人は、このデリケートな問題を考えるときほど、自分が愛している魅力的な相手から遠ざかることはない。
p234 (ハプワース)
2.人は、一般的な判断ができるくらいの頭脳を持っているのは当然。もしその程度の頭脳がないなら、皮をむいた栗でも十分に代替可能だ!しかし自分の目でみることが重要だ。とくにこの種のこと、英雄や英雄的行為に関してはそれが必要不可欠といっていい。人間の頭脳は魅力的で、好ましく、じつに分析能力に長けているだけで、人間の歴史を包括的に理解したり-英雄的なことであれ、非英雄的なことであれ-その人がその時代に愛情や良心にかられて果たした役割を理解する能力はまったく持っていない。
p209 ハプワース
父さんはお客さんの前で歌うときや、うちに暖炉の前での熱い議論で腹立たしそうにしゃべるときをのぞけば、訛りに気づかれることはない。気づくとしたらせいぜい、ぼくかバディかブーブーか、異様に敏感な呪われた耳を持った人だと思う。
p141 《エズミに捧ぐ》
1番年下の子供2人のテンポが心持ち落ちたけれど、ああいう瑕なら、あの曲を作曲した当人の母親でもなければ気づかなかったに違いない。
p213 (ハプワース)
もしブーブーが大人になったとき、人前での上品さや美しさが上部だけで、部屋でひとりきりでいるとき、誰にもみられていないときは、うすぎたないブタになってしまう、そんな人間になってしまったら、これほどいやなことはない。そういうことをしていると、少しずつ、くさっていくよ。
p227 (ゾーイー)
「あともう一つ。それでおしまいだ。約束するよ。実はだね、きみ、うちに戻ってきた時に、観客のバカさ加減をわあわあ言ってやっつけたろう。特等席から『幼稚な笑い声』が聞こえてっくるってさ。そりゃその通り、もっともなんだ-たしかに憂鬱なことだよ。そうじゃないとはぼくも言ってやしない。しかしだね、そいつはきみには関係のないことなんだな、本当言うと。きみには関係のないことなんだよ、フラニー。俳優の心掛けるべきはただ一つ、ある完璧なものを-他人がそう見るのではなく、自分が完璧だと思うものを-狙うことなんだ。観客のことなんかについて考える権利はきみにはないんだよ、絶対に。とにかく、本当の意味では、ないんだ。分かるだろ、ぼくの言う意味?」
p228 (ゾーイー)
これからウェーカーといっしょに舞台に出るってときに、シーモアが靴を磨いてゆけと言ったんだよ。僕は怒っちゃってね。スタジオの観客なんかみんな低能だ、アナウンサーも低能だし、スポンサーも低能だ、だからそんなののために靴を磨くことなんかないって、僕はシーモアに言ったんだ。どっちみち、あそこに坐ってるんだから、靴なんかみんなから見えやしないってね。シーモアはとにかく磨いてゆけって言うんだな。『太っちょのオバサマ』のために磨いてゆけって言うんだよ。彼が何を言ってるんだか僕にはわからなかった。けど、いかにもシーモア風の表情を浮かべてたもんだからね、僕も言われた通りにしたんだよ。
p215 (ハプワース)
ただ、この世界において友情は常に、見返りを求められ、個人的な利益に利用される、つまりいやなジレンマに陥っている。友情って、すごくユーモラスな側面もあるんだけどね。
p218 (ハプワース)
ブーブーはこの頃「神さま」という言葉が信じられなくなったみたいだね。新しいお祈りにすれば、それが解決できるよ。「神さま」という言葉を使わなくちゃいけないという決まりはないんだ。それが「つまずきの石」だったら、使わなくていい。これからはこのお祈りにしよう。「わたしは子供です。いつものように、これから寝ます。『神さま』という言葉はいま、わたしの胸にささったとげです。この言葉をいつも使って、うやうやしく思い、おそらく心から大切に思っている人もいます。わたしの友達のロッタ・ダヴィラとマージョリー・ハーズバーグもそうです。わたしはふたりのことを、いやな、すごい嘘つきだと思っています。わたしは名前のない、あなたに呼びかけることにします。わたしの思うあなたには形がなくて、特に目立ったところもありません。そしていままでずっとやさしく、すてきで、わたしの運命を導いてくれました。わたしがこの人間の体を借りてすばらしい生を生きているときも、そうでないときも。どうか、わたしが眠っている間に、明日のための、間違いのない、理由のある教えをください。あなたの教えがどんなものか、わからなくてもかまいません。そのうちいろいろなことがわかってくると思います。でも、あなたの教えは喜んで、感謝して、しっかり守ります。いま、わたしは、あなたの教えがそのうち、効果と効能を発揮して、わたしを励まし、意志をかたく持つ助けになると考えています。でもそのためには、心を穏やかにして、心を空っぽにしておかなくてはならないそうです。なまいきなお兄ちゃんがそういってました。」しめくくりは「アーメン」でもいいし、ただ「おやすみなさい」でもいい。どちらでも好きな方を選べばいいし、自分の気持ちにぴったりするほうを選んでもいい。汽車の中でぼくが思いついたのは、これだけ。だけど、なるべく早く伝えようと頭の中にしまっておいたんだ。ただし、いやだったら、こんなお祈りはしなくていい!それから、自由に、好きなように、いいかえていいよ!もしこんなのがいやだと思ったら、さっさと忘れて平気だから。ぼくがうちに帰ったら、またほかのを考えてあげる!ぼくのいうことは絶対間違いないなんて、考えないように!ぼくは本当に、間違いばかりやってるんだから!
p46 (フラニー)
「とにかくね」と、彼女はまた話だした「スターレッツがその巡礼に言うの、もしこの祈りを繰り返し繰り返し唱えていれば−初めは唇を動かしているだけでいいんですって−そのうち遂にはどうなるかというと、その祈りが自動性を持つようになるっていうの。だから、しばらくするうちに、何かが起こるんだな。何だかわたしにはわかんないけど、何かが起こる。そして、その言葉がその人の心臓の鼓動と一体となる。そうなれば、本当に耐えることなく祈ることになる。それが、その人の物の見方全体に、大きな、神秘的な影響を与える。そこが、肝心かなめのところだと思うんだな、だいたいにおいて。つまり全般的な物の見方を純粋にするためにこれをやれば、すべての物がどうなっているのか、まったく新しい観念が得られると思うんだ」
p48 (フラニー)
「実を言うとね、これはきちんと筋の通る話なのよ」フラニーは言った「だって、仏教の念仏宗では『ナム・アミ・ダブツ』って、繰り返し繰り返し唱えるけど−これは『仏陀はほむべきかな』とかなんとか、そんな意味でしょう-それでも、おんなじことが起こるんだ。まったく同じ−」
p 241 (ハプワース)
とくに人間の折れた骨をいやしながらくっつける作業については熟読すると思う。だって、仮骨は信じられないくらいよくできていて、いつ始めて、いつ止めるかがちゃんとわかっている。それも骨折した人の脳からまったく指令を受けないのに。これもまた、奇妙な性質を持つ「母なる自然」のたまものだ。それにしても、いわせてもらうけど、ぼくはもうずっとまえから、「母なる自然」といういかがわしい言葉にうんざりしている。
p291 《テディ》
「ぼくの身体はぼくが自分で育てたんだ。人が育ててくれたんじゃない。とすると、ぼくはその育て方を知っていたに違いない。少なくとも無意識的には。意識的な知識は、過去数十万年の間にいつしか失ってしまったんだろう。しかし、何らかの知識はまだ残ってるんだ、だって−明らかにぼくは−それを使ってるんだもの。…だが、その全体を−つまり意識的な知識を−取り戻すためには、ずいぶんと瞑想もし、頭の中のものを吐き出しもしなきゃなるまい。でも、その気になればできないことはない。思い切って開く自分を開け放せばいいんだ」
p47 (フラニー)
「でも、大事な点はね−これがすばらしいんだ−これをやり始めた当座は、自分がやってることをべつに信じてやる必要はない。つまり、そんなことをやるのにどんなに抵抗を感じながらやるにしても、そんなことは全然構わないってわけ。誰をも何をも侮辱することにはならないのよ。言いかえると、最初始めたときには、それを信じろなんて、誰もこれっぽっちも要求しないんだ。自分で唱えてることについて考える必要もないなんて、スターレッツは言うのよ。最初に必要なのは量だけ。やがて、そのうちに、量がひとりでに質になる。自分だけの力か何かで。スターレッツの言うところによると、どんな神様の名前にも−仮にも名前なら、どんな名前にだって−それぞれ、みんなこの独特の自動的な力があるっていうのよ。そして、いったんこちらで唱え始めれば、あとは自動的に動きだすっていうの」
p130、131 (ゾーイー)
「つまり、この考えによるとだな、祈りは、それ自体だけの力によって、口先や頭脳から、やがてのことに、心の臓にまで到達する。そうして、心臓の鼓動といっしょに動く自動的な機能と化する、と、こういうんだ。それからしばらくして、その祈りが心臓の鼓動と一体化を遂げた暁には、その人はいわゆる万象の本体に参入することになるという。どっちの本にも、これがこういう形で出てくるわけじゃなくて、東洋的筆法で語られるんだけど、肉体には、チャクラという七つの敏感な中心があって、中でいちばん心臓と密接な関係にあるのが、アナハータといって、ものすごく鋭敏強力だというんだな。こいつが活動させられると、今度はこいつがアジナという、眉と眉との間にあるもう一つの中心を活動させる−これはつまり、松果腺なんだな。いやむしろ松果腺のまわりの霊気というか−次がいよいよ、神秘論者のいわゆる『第三の眼』の開眼と来るわけさ。これはなにも新しいことじゃないんだけどね。というのは、つまり、この巡礼とその仲間たちをもって嚆矢とするわけじゃないってこと。インドでは、ジャパムといって、何世紀になるか分からぬほど前から知られてたことなんだ。ジャパムというのは、人間が神につけた名前を、どれでもいい、何度も繰り返すことなんだ。神につけた名前というより、神の化身−つまり権化だ、専門用語を使いたければ−神の権化を呼ぶ名称だ。これを長い間、規則的に、文字通り心の底から唱え続けていれば、いつか時満ちて必ずや応答があるというんだな。応答というのは正確じゃない。反応だ」
p221 (ハプワース)
恥ずかしいけど、ぼくは信頼できない助言に対しては、つい非人間的な態度を取ってしまう。こういうときに使える、人間的で無難な方法がないか、必死に考えているところなんだ。
p114、115 (ゾーイー)
「あんたはね、人を好きになるか嫌いになるか、どっちかなんだ。好きだとなると、自分ばっかし喋っちまって、誰にもひとことだって口を入れさせやしないし、嫌いだとなると−たいていは嫌いになるほうだけどさ−こんどはもう、自分は死んだみたいに黙りこくって、相手に喋らせるばっかし。そうしちゃ落とし穴にはまりこませる。そのでんをあたしはこの目でみてるんですからね」
ゾーイーは、くるりと振り向いて母親を見つめた。このとき彼が振り向いて母親を見つめたその態度、これとまったく同じようにして、いつかの年、何かの時に、くるりと振り向きざまに母親を見つめた経験を、彼の兄弟姉妹(ことに兄弟たち)はみな一様に持っていた。その態度には、つねづね偏見と常套的なきまり文句と型にはまった言葉とから出来上がった頑冥牢固な壁のように思っていたものの中から、断片的にしろなんにしろ、的を射たものが跳び出してきたことに対する客観的な驚嘆があるだけではない。嘆賞、愛慕、それから少なからざる感謝の念も、そこにはまじっていた。そしてまた、奇妙なことであるにしろないにしろ、グラース夫人は、彼女に対するこの「称賛の辞」が捧げられるときには、きまってこれをあざやかに受け止めるのであった。そういう表情を向ける息子や娘を、おだやかにつつましく見やるばかりなのである。このときも彼女は、そのつつましくおだやかな顔をゾーイーに向けた。「あんたって人はそうなのよ」と、彼女は言った。が、そこには相手をとがめる気持ちはこもっていない「あんたもバディも好きでない人と話をする、そのやり方を知らないのね」そう言って彼女はそのことを考え直していたが「好きでない、というよりむしろ愛してない人とよね」と、言い直した。ゾーイーは、剃る手を休めて、なおも彼女を見つめている。「困ったことだわ」わびしそうに彼女はいった「あんたはだんだん、バディがあんたの年頃だった時分とそっくりになってくる。お父さんだってそれに気がついていらした。二分ばかしで好きにならない人とは、もうそれっきりおしまいなんだものね」
p232 (ハプワース)
それから、面白そうで、つまらない本を二冊、簡単に包んでいっしょに送ってほしい。そうすればほかの-男女を問わず、天才、秀才、卓越した控えめな学者による-本をけがさないですむからね。アルフレッド・アードンナの『アレキサンダー』とシオ・アクトン・ボームの『起源の思索』がいい。父さん母さん、あるいは図書館のぼくの友人でもいいから、無理のない程度で、なるべく速く、暇なときに郵便で送って。どちらもつまらない、ばかばかしい本なんだけど、これをバディに読んでほしいんだ。現世で初めて、来年学校に入る前にね。ばかばかしい本だからといって、はなからばかにしちゃいけない!あまり気の進まない、いやな方法だけど、バディみたいな才能豊かな子に、日常の愚かさやつまらなさを直視させるための最も手っ取り早い方法は、おもしろそうで、愚かで、つまらない本を読ませることなんだ。二冊の無価値な本をさりげなく渡せばきっと、口をつぐんだまま、悲しみや激しい怒りのにじんだ声をきかせることなく、こう伝えることができる。「いいかい、この二冊の本はどちらも、それとなく、上手に感情をおさえて、目立たないようにしてあるけど、芯まで腐りきっている。どちらも有名なにせ学者が書いたもので、ふたりとも読者を見下して、利用してやろうという野心を心密かに抱いている。この二冊を読んだときは、恥ずかしさと怒りで涙がにじんだ。あとは何も言わずに、この二冊を渡すことにする。これは神さまがくださった見本、それも腐りきった呪わしい知性と、見せかけだけの教育の見本だ。才能も人間的洞察もない駄作だ」バディには、ひと言だって余計な注釈を付け加える必要はない。この言葉もまた辛辣かな?辛辣じゃないといったら、それこそ、冗談をいうなと笑われるだろう。とても辛辣だよね。だけど、逆に言わせてもらうと、父さんはこういった連中の危険に気づいてないのかもしれない。ひとつはっきりさせるために、ざっと手短に、アルフレッド・アードンナのほうを検討してみよう。彼はイギリスの有名大学の教授で、アレキサンダー大王の評伝を、分量は多いけど、ゆったり読みやすい文章で書いた。そしてしょっちゅう言及するのが、自分の妻。彼女も有名な大学の優秀な教授だ。それからかわいい犬のアレキサンダー。あと、彼の前任者であるヒーダー教授。この人も長いことアレキサンダー大王の研究で生活していた。このふたりは長年、アレキサンダー大王をうまく利用して-金銭的な面ではどうか知らないけど-名誉と地位を得た。それなのに、アルフレッド・アードンナはアレキサンダー大王を愛犬アレキサンダーと同程度に扱っている!ぼくはアレキサンダー大王も、その他のどうしようもない軍人もあまり好きじゃないけど、アルフレッド・アードンナはひどい。だって、さりげなく、不当な印象を読者に与えようとしているんだから。要するに、自分の方がアレキサンダー大王より優れているといわんばかりなんだ!それも、自分と、妻と、ついでに愛犬が居心地のいい場所にいてアレキサンダー大王を搾取し利用しているからできることだっていうのに。アレキサンダー大王がいたということに、これっぽっちも感謝していない。いまの自分があるのは、アレキサンダー大王を好きなように、うまいこと使う特権を得られたからだというのに。ぼくがこのインチキ学者を非難するのは、彼がいわゆる英雄や英雄崇拝を嫌っていて、わざわざ一章をアレキサンダーと、彼に匹敵するナポレオンに当て、彼らが世界にどれほどの害悪と無意味な血を流してきたかを示しているからじゃない。この論点はぼくも、正直いって、大いに共感できるからね。そうじゃなく、こんな大仰で、平凡な章を書くなら、せめて次の二点はおさえておいてほしいと思うからなんだ。これはちょっと議論する価値があると思う。だから、どうか、がまんして、無償の愛情を持って、最後まで読んでほしい!いや、おさえておくべき点は三つある。
1.英雄的なことができる資質が備わっている人なら、英雄や英雄的行為をどんなに嫌っていても足元がぐらつくことはない。また、英雄的なことをする資質に欠けていても堂々と議論に入ることはできるがその場合、徹底的に注意深く理知的で、体のすべての灯りを灯すよう努力し、さらに神への熱い祈りを二倍にしなければ、安易な道に迷い込んでしまう。
2.人は、一般的な判断ができるくらいの頭脳を持っているのは当然。もしその程度の頭脳がないなら、皮をむいた栗でも十分に代替可能だ!しかし自分の目でみることが重要だ。とくにこの種のこと、英雄や英雄的行為に関してはそれが必要不可欠といっていい。人間の頭脳は魅力的で、好ましく、じつに分析能力に長けているだけで、人間の歴史を包括的に理解したり-英雄的なことであれ、非英雄的なことであれ-その人がその時代に愛情や良心にかられて果たした役割を理解する能力はまったく持っていない。
3.アルフレッド・アードンナは、アレキサンダー大王の幼い頃の家庭教師がアリストテレスだったという事実をおおらかに認めている。それなのに、嘆かわしいことに一度も、アリストテレスがアレキサンダー大王に謙虚であれと教えなかったことを非難していない!
この興味深い問題に関して、ぼくが今までに読んだ本では、アリストテレスが少なくとも、アレキサンダーが偶然手に入った王の衣だけを受け取って、その他のクソのような-失礼-王の付随物は拒否するように言ったなんて、どこにも書かれてはいなかった。
腹立たしい話はもうやめよう。神経が擦り減ってきちゃった。それにシオ・アクトン・ボームのいかがわしくて非常に危険な、才能なき、冷ややかな文学作品について語るつもりだった時間を使い果たしてしまった。ただ、繰り返しになるけど、ぼくは本当に心配でしょうがないんだ。もしバディが小学校に入学を許可されて、長く、とても複雑な正規の教育を受けたあと、こういう危険で、つけあがった、とことんありきたりの本を読むかと思うとね。
p169 (キャッチャーインザライ)
前にこんなことがあったんだ。エルクトン・ヒルズに行ってたときだけど、ディッグ・スラグルっていう同室の子が、ひどく安っぽいスーツケースを持ってたんだ。奴は、そいつを棚の上に置かないで、いつもベッドの下に押し込んでたんだな。僕のと並んでるとこを人に見られたくないわけさ。おかげで僕はすごく憂鬱な気持ちになっちゃってね、僕のを投げ捨てちまうか、さもなきゃそいつのと交換しようかと、終始思ったもんだ。僕のはマーク・クロスの製品で、本物の牛革やなんかでできてるんだ。ずいぶん高いだろうと思うよ。ところがおかしなことがあったんだ。どういうことかというとだね、しまいに僕は、僕の旅行カバンを棚からおろして、僕のベッドの下に押し込んだわけさ。そうすれば、スラグルの奴が、つまんない劣等感なんか感じなくてすむと思ってね。ところが奴はどうしたと思う?僕が自分のを僕のベッドの下に押し込んだ翌日、奴はそれを引きずり出して、また棚の上に戻したんだ。なぜ彼がそんなことをしたのか、しばらく僕には見当もつかなかったけど、それはつまり、僕のをあいつのだと人に思わせたかったからなんだな。ほんとなんだ。そんなふうに、実におかしな奴だったよ、彼は。たとえばだね、僕の旅行カバンのことで、しょっちゅういやみったらしいことをいうんだな。新しすぎるし、第一、ブルジョワくさいって言うんだ。このブルジョワってのが彼愛用の言葉なんだ。どっかで読むか聞くかしたのさ。僕の持ってるものは、なんでもすごくブルジョワくさいんだ。僕の万年筆までブルジョワくさいんだよ。しょっちゅう僕から借りるくせして、それでもやっぱりブルジョワくさいんだな。いっしょに部屋にいたのは、たったの二か月ばかしで、それから両方ともが部屋をかえてくれって学校に頼んだんだ。ところが、おかしいじゃないか、部屋が変わってみると、そいつがいないのがなんとなく寂しいんだな。そいつは実にユーモアのセンスのある男でね、いっしょにいて楽しかったことが何度もあったからなんだ。向こうだって、おそらく、同じだったんじゃないのかな。僕の持ち物がブルジョワくさいと言ってたのも、はじめのうちは冗談にそう言ってからかってただけなんだし、僕もぜんぜん気にしてなかったんだ-事実、なんとなくおもしろかったからね。ところが、しばらくたつうちに、それが冗談でなくなってきた。実際、自分のスーツケースよりもはるかに悪いスーツケースを持った奴と同室になってみたまえ、なかなかやりにくいもんだぜ−こっちのが本当に優秀で、相手のがそうでない場合にだよ。もしそれが頭のいい奴で-それがって、相手がだよ−頭のいい奴だったりして、ユーモアのセンスのある奴だったならば、どっちのスーツケースがよかろうと、そんなこと気にするはずはないと思うだろう。ところがそうじゃないんだな。ほんとなんだ。僕があんなストラドレーターみたいな馬鹿な野郎と同室になったのは、一つにはそこにわけがあったんだ。少なくともあいつのスーツケースは僕のと同じくらい優秀な奴だったんだから。
p202 (ハプワース)
この美しく腹立たしい世界で何かを尊重すべき確固たる事実と呼ぶという、じつに疑わしげな満足を得るためには、ぼくたちは機嫌のいい囚人のように、目や手や耳や、単純で哀れな頭脳から提供される頼りない情報を百パーセント信用する以外ない。そんなものが価値基準の確固たる基準になるんだろうか?冗談じゃない!確かにそれは間違いなく感動的なものではあるけど、確固たる基準になるわけがない。それは、哀れな人間の感覚器や頭脳を盲信することにほかならない。「仲介人」という言葉があるけど、人間の脳は有能な仲介人だ!そしてぼくは、この世の仲介人は一切信用しないよう生まれついた。たしかに、不幸なことだと思うけど、このことについての楽しい真実とやらはこれっぽっちも語る気になれない。ところが、ここで、愚かなぼくの胸のなかにいつもある不安の確信にぐっと近づくことになる。ぼくは仲介人とか、個人的見解とか、尊重すべき確固たる事実とかは全く信じてないくせに、正直いうと、どちらも度を越して好きなんだ。ぼくはどうしようもなく感動してしまうんだよ。とびきり素晴らしい人たちが、この魅力的で当てにならない情報を、人生の哀れな瞬間瞬間に受け入れているその勇気にね!ああ、人間って本当に勇敢な生き物だと思う!地上最後の哀れな卑怯者さえ、言葉では言い表せないくらい勇敢だ!人間の当てにならない感覚器や脳を、魅力的で表面的な価値そのままに受け取るんだから!そして同時に、これは間違いなく、悪循環だ。ぼくは悲しいけど、もし誰かがこの悪循環を断ち切ったら、それは全人類への親切で永続的な贈り物になると思う。だけど、人はしばしば、そんなことを急ぐ必要はないと考えてしまう。人は、このデリケートな問題を考えるときほど、自分が愛している魅力的な相手から遠ざかることはない。
p56( 最後の休暇の最後の日)
「父さん、偉そうに聞こえるかもしれないけれど、父さんは先の大戦のことを話す時-父さんたちの世代はみんな同じで-ときどき、戦争は泥まみれになってやる荒っぽいスポーツみたいなもので、自分たちはそれをやって大人になったみたいな言い方をするよね。生意気に聞こえるかもしれないけれど、父さんたち、先の大戦で戦った人たちはみんな、戦争は地獄だということはわかっている、わかっているのに-なぜかわからないけど-みんな、従軍したことで少し優越感を覚えているようにみえるんだ。たぶん、先の大戦に行ったドイツ人も同じように話したり、考えたりしてるんだよ。だからヒトラーが今度の大戦を起こそうとした時、ドイツ軍の若者たちは、自分たちだって親の世代と同じくらい、いや、それ以上に立派にやれるってことを証明しようと頑張ったんじゃないかな」ベイブは気詰まりになって、言葉を切った。「もちろんこの戦いは正しいと信じているんだ。もしそうでなかったら、良心的兵役拒否をして、戦争が終わるまで収容所で斧で木を切ったりしているよ。ナチやファシストや日本人を殺すのは正しいと。だって、そう考えるしかないんだから。だけど、心から信じている事がひとつあるんだ。これほど堅く信じた事はないってほどにね。それは、いま戦ってる者も、これから戦うものも、戦いが終わったら、口をつぐみ、どんな形であれ、戦争の事を話してはならないという事だ。死者はそのまま死なせておけばいい。死者を起こしてよかったことなんて一度もなかった」ベイブはテーブルの下で左手を握りしめた。「もしアメリカ人が帰還して、ドイツ人が帰還して、イギリス人が帰還して、、日本人もフランス人もほかの国の人も帰還して、みんながしゃべったり、書いたり、絵に描いたり、映画を作ったりし始めたらどうなると思う?あいつは英雄だった、ゴキブリがいた、塹壕を掘った、血まみれになったとか。そうなったら、未来の若者はまた未来のヒトラーにのせられてしまうに決まっている。若者が戦争をばかにしたり、歴史の本に載っている兵士の写真を指差して笑ったりしたことはいままでなかった。もしドイツの若者が暴力を馬鹿にすることを覚えていたら、ヒトラーだってひとり孤独に野心を温める以外になかったと思う」
p187〜190 (ゾーイ)
「きみの歳は知ってるよ。いくつだったか、よく承知している。いいかね。ぼくがこんなことを言い出したのは、今さらきみを非難しようという了見からじゃないんだぜ-誤解されちゃ困るよ。これにはちゃんと訳があるんだ。これを言いだしたのはだな、子供の時分のきみにはイエスってものが分かってなかったし、今も分かってないと思うからなんだ。きみはイエスとほかの五人か十人ばかしの宗教家たちとを混同してると思うんだ。そして誰が誰、何が何と、はっきり区別がつけられるようにならなければ、『イエスの祈り』の修行もできまいと思うんだな。あの棄教のきっかけになったのはなんだったか、きみ、憶えているかい?……フラニー?憶えているかい?それともいないかい?」
返事はなかった。ただ、手荒く鼻をかむ音が聞こえただけである。
「ところでぼくはたまたま憶えてるんだ。『マタイ伝』第6章だよ。ぼくは実にはっきりと憶えてるんだ。そのときぼくがどこにいたかまで憶えている。ぼくは自分の部屋でホッケーのスティックに電気の絶縁テープをまいてたんだ。そこへきみが大きな音をたててとび込んできた-開いた聖書を手に持ってたいへんな騒ぎでさ。イエスなんかもう嫌いだという。陸軍の兵舎にいるシーモアに電話をかけて、このことを言ってやるわけにいかないかって、きみは訊いたろう。きみ、どうしてイエスが嫌いになったか知ってるか?ぼくが言ってやろう。第一に、イエスが会堂へ入っていって、テーブルや偶像を、そこらじゅうに投げ飛ばした(訳注「マタイ伝」十二章十二節他)のが気に入らなかったんだ。実に無作法で、必要のないことだというんだ。ソロモンか誰かだったら、そんなこと絶対しなかったはずだというんだな。もう一つきみの気に食わなかったのは-聖書のそこんとこをきみは開いてたんだが-『空の鳥を見よ』というところさ。『播かず、刈らず、倉に収めず。しかるに汝らの天の父はこれを養いたもう』(訳注「マタイ伝」六章二六節)ここまではよろしい。これは美しい。ここなら賛成できる。ところが、すぐ言葉を続けて、イエスが『汝らはこれよりも優れる者ならずや』と言うとき-ここで幼いフラニーは爆発するんだ。幼いフラニーが冷然と聖書を棄てて、まっすぐに仏陀に赴くのはここのところさ。仏陀はかわいい空の鳥たちを差別待遇しないからね。ぼくたちがレークで飼ってたかわいらしい鶏や鵞鳥もみんな。そのころは十歳だっただなんて繰り返さないでくれよ。きみの歳なんか、ぼくが今言ってることとは関係ないんだから。十歳だろうが二十歳だろうが大した違いはない-いや八十歳だって違わんな、その点じゃ。聖書に書かれている今の二つのことを言ったりやったりするようなイエスならば、きみは今でも思うように愛することができないだろう-それはきみも知ってるはずだ。テーブルを放り出すような神の子なんて、体質的にきみは、愛することも理解することもできないんだ。それからまた、神にとって、人間は、どんな人間でも-タッパー教授のような人ですら-やさしい、あわれな復活祭の鶏よりも価値があるなんていう神の子も、体質的にきみは愛することも理解することもできないのさ」
フラニーは今、ゾーイーの声のする方をまっすぐに向いて、丸めたクリーネックスを片手に握りしめたまま、固く身を起こして坐っていた。膝の上にはもはやブルームバーグの姿はない「あなたにはできるって言うのね」悲鳴に近い声で彼女は言った。「ぼくにできる、できないは、問題じゃないよ。しかし、そうだな、ぼくにはできるな、実を言うと。今はこの問題に入りたくないんだが、しかし、少なくともぼくは、意識的にせよ、無意識的にせよ、イエスをもっと『愛すべき』人間にしようとして、彼をアッシジの聖フランシスに変貌させようとしたことは一度もなかったな-キリスト教世界の九八パーセントまでは、まさにそれをやろうとしてずっと頑張ってきたわけだけどさ。といっても、それはぼくの名誉でもなんでもない。ぼくがたまたま、アッシジの聖フランシスのようなタイプに惹かれる人間じゃないというだけのことさ。ところがきみは惹かれるんだ。そして、それが、ぼくの考えでは、きみがこんな神経衰弱にかかる理由の一つなんだ。しかも、よりによって自家でそいつにかかる理由は、まさにそこにあると思うな。ここのうちはきみにはおあつらえ向きにできてるよ。サービスはいいし、簡単に水もお湯も亡霊も出る。これ以上好都合な所ってありゃしまい。ここでならきみはお祈りを唱えながら、イエスと聖フランシスとシーモアとハイジのじいさん(訳注ヨハンナ・スピリの『ハイジ』参照)とをみんな丸めて一つにしちゃうことができる」ゾーイーの声はほんのしばらくとだえたが、また「そいつがきみにわからんかな?いいかい、きみはなにも最低の人間なんかじゃ絶対にないのに、今この瞬間にも最低の物の考え方に首まで浸かってるじゃないか。きみのお祈りの唱え方が最低の宗教なだけじゃない。自分で知ってるかどうか知らないけど、きみの神経衰弱も最低だよ。ぼくはこれまで、本物の神経衰弱を二つほど見たことがあるが、そいつにかかった奴は、わざわざ場所を選んだりせずに-」
「やめて、ゾーイー!やめて!」フラニーはすすり泣きながら言った。
p191 、192(ゾーイー)
「お願いだからやめてちょうだい!」甲高い声でフラニーは叫んだ。
「あと一秒、たったの一秒だ。きみはいつもエゴをうんぬんするけど、いいか、何がエゴで何がエゴでないか これは、キリストを待たなければ決められないことなんだぜ。この宇宙は神の宇宙であって、きみの宇宙じゃないんだ。何がエゴで何がエゴでないかについては、神が最終的決定権を持ってるんだ。きみの愛するエピクテタスはどうだ?あるいはきみの愛するエミリ・ディキンスンは?彼女が詩を書きたいという衝迫を感じるたんびに、きみはきみのエミリに、そのいやらしいエゴの衝迫がおさまるまで、坐ってお祈りを唱えていてもらいたいと思うのかね?むろん、そうじゃあるまい!ところが、きみの友人タッパー教授のエゴは、これを取り去ってもらいたい。これは違うんだから、と、きみは言うだろう。そうかもしれない。おそらくそうだろう。しかし、エゴ全般についてきゃあきゃあ言うのはやめてもらいたいな。本当にきみが知りたいのなら言うけれど、ぼくの考えでは、この世の汚なさの半分までは、本当のエゴを発揮しない人たちによって生み出されているんだ。たとえば、タッパー教授だが、きみの言うところから判断して、教授が発揮してるもの、きみが教授のエゴだと考えているものは、エゴでもなんでもなくて、何かほかの、ずっと汚ない、はるかに表面的な能力だな。きみの学校生活もいい加減長いんだから、もう実情が分かってもいいころじゃないかね。無能な小学校の先生を一皮むいてみたまえ-その点じゃ、大学教授も同じだが-自動車修理工としては、あるいは石工としては第一級の人間が、働き場所を間違えてるんだという例に、二度に一度はぶつかるぜ。たとえば、ルサージを見ろよ-わが友人にして雇主なる、かの〈マジソン街の薔薇の花〉をさ。彼をしてテレビ界にせしめたものは彼のエゴであると思うだろう。ところが、さにあらず!彼はもはやエゴなんてものは持ってないよ-昔だってあやしいもんだ。彼はエゴを分割して趣味にしてしまったんだ。彼には、ぼくの知ってるところでは、少なくとも三つの趣味がある-そしてそれがみんな、動力工具や万力や、何やかやがいっぱいつまった地階の大きな1万ドルの作業室に関係がある。自分のエゴを、自分の本当のエゴを実際に発揮している人間には、趣味なんてものに向ける時間なんかありゃしないんだ」ゾーイーは不意に口をつぐんだ。相変わらず、目をつぶり、指を固く胸に、ワイシャツの胸に組んで寝転んでいる。が、いま彼はその顔をゆがめて意識的に苦しげな表情を浮かべた-どうやら、自己批判の表情と見受けられる。「趣味か」と、彼は言った「どうして趣味の話なんかに脱線しちまったのかな?」それからしばらく、彼は黙って転がっていた。
p193 (ゾーイー)
「何をしゃべっても、まるできみの『イエスの祈りを』を突き崩そうとしているように聞こえる。ところが実際はそうじゃないんだ。本当は、きみがその祈りを、なぜ、どこで、どんなふうに使うかという、それに反対してるだけだよ。人生におけるきみの義務、あるいは単なるきみの日常の義務、それを果たす代わりの替え玉として、きみがそれを使ってるんではないということを、ぼくは確信したいんだ−確信したくてたまらないんだ。だがもっとひどいことを言うと、君が理解してもいないイエスに向かって、どうして祈ることができるのか、ぼくには分からないんだよ−神に誓って分からんな。しかし、本当に許し難いと思うのはだね、きみもぼくとおなじくらいの分量の宗教哲学を漏斗で注ぎ込むようにして食わされてきた身であってみれば−本当に許し難く思うのは、きみがイエスを理解しようとしない点だよ。もしきみが、あの巡礼のように非常に素朴な人間であるか、あるいはまったくすてばちな人間であるのなら、あるいは弁明の余地があるかもしれない−しかしきみは素朴な人間じゃない。それにそんなにすてばちな人間でもない」そのとき、先ほど寝転んでから初めて、ゾーイーは、目は依然として閉じたままで、唇を硬く噛みしめた−それは(実を言うと)と括弧に入れて言うけれど、彼の母親がよくやる格好にそっくりであった。「お願いだから、フラニー」と、彼は言った「もしも「イエスの祈り」を唱えるのなら、それは少なくともイエスに向かって唱えることだ。聖フランシスとシーモアとハイジのじいさんを、みんなひとまとめにまとめたものに向かって唱えたってだめだ。唱えるのなら、イエスを念頭に置いて唱えるんだ?イエスだけを。ありのままのイエスを、きみがこうあってほしかったと思うイエスではなくだ。きみは事実にまっこうから立ち向かうということをしない。最初にきみを心の混乱に陥れたのもやはり、事実にまっこうから立ち向かわないという、この態度だったんだ。そんな態度では、そこから抜け出すこともおそらく出来ない相談だぜ」ゾーイーは、すっかり汗ばんでしまった顔を、いきなり両手で覆うと、ちょっとそのままでいて、それから放して、また手を組み合わせた。そして再び喋りだした。打ちとけて面と向かって言うような口調である「ぼくが当惑する点はだね、本当に当惑しちまうんだけどさ、どうして人が−子供でも、天使でも、あの巡礼のように幸運な単純家でもないのに−新約聖書から感じられるのとは少々違ったイエスというものに祈りを捧げたい気になるのか、そこがわからないことなんだ。いいかい!彼は、ただバイブルの中でいちばん聡明な人間というだけだよ、それだけだよ!誰とくらべったって、彼は一頭地を抜いてるじゃないか。そうだろう?旧約ににも新薬にも、学者や、予言者や、使徒たちや、秘蔵息子や、ソロモンや、イザヤや、ダビデや、パウロなど、いっぱいいるけど、事の本質を本当に知ってるのは、イエスの他に一体誰がいる?誰もいやしない。モーゼもだめだ。モーゼなどと言わないでくれよ。彼はいい人だし、自分の神と美しい接触を保っていたし、いろいろあるけれども−しかし、そこがまさに問題なんだな。モーゼは接触を保たなければならなかった。しかし、イエスは神と離れてないというとことを合点してたんだよ」そう言ってゾーイーはぴたりと両手を打ち合わせた−ただ一度だけ、高い音も立てずに、おそらくはわれにもなく打ち合わされた両の手であった。が、その手は、いわば音が出る前に、再び胸の上に組み合わされていた。「ああ、まったくなんという頭なんだろう!」と、彼は言った「たとえば、ピラトから釈明を求められたときに、彼を除いて誰が口をつぐみ続けただろうか?ソロモンではだめだ。ソロモンなどとは言わないでくれ。ソロモンだったら、その場にふさわしい簡潔な言葉をいくつか口にしたんじゃないか。その点では、ソクラテスも口を開かないとは保証できない。クリトンか誰かがなんとかして彼をわきへ引っぱり出して、適切な名言を二言三言記録にとりそうな気がする。しかし、とりわけ、何をさておいても、神の国はわれわれと共にある、われわれの中にある。ただわれわれがあまりにも愚かでセンチメンタルで想像力に欠けるものだから見えないだけだということを、聖書の中の人物でイエス以外に知っていた者があっただろうか?それをちゃんと知ってた者がさ。そういうことを知るには神の子でなければいけないんだよ。どうしてきみはこういうことが思いつかないのかな?ぼくは本気で言ってんだぜ、フラニー、ぼくは真剣なんだ。きみの目にイエスのありのままの姿がその通りに見えていなければだな、きみは『イエスの祈り』の勘所をそっくりそのまま掴みそこなうことになるんだぜ。もしもイエスを理解していなかったら、彼の祈りを理解することもできないだろう−きみの獲得するものは祈りでもなんでもない、組織的に並べられたしかつめらしい言葉の羅列にすぎないよ。イエスはすごく重大な使命を帯びた最高の達人だったんだ。これは聖フランシスなんかと違って、いくつかの歌をものしたり、鳥に向かって説教したり、そのほか、フラニー・グラースの胸にぴったりくるようなかわいらしいことは何一つやってる暇がなかったんだよ。ぼくはいま真剣に言ってんだぜ、チキショウメ。きみはどうしていま言ったようなことを見落とすのかな?神がもし、新約聖書にあるように仕事をするために、聖フランシスのような、終始一貫して人好きのする人格を持った人物を必要としたのだったら、そういう人物を選んだに違いないよ。事実は神の選びえた中でおそらく最もすぐれた、最も頭の切れる、最も慈愛に満ちた、最もセンチメンタルでない、最も人の真似をしない達人を選んだんだ。そういうことを見落としたら、断言してもいいけれど、きみは『イエスの祈り』の要点をきれいに掴み落としてることになる。『イエスの祈り』の目的は一つあって、ただ一つに限るんだ。それを唱える人にキリストの意識を与えることさ。きみを両腕に掻き抱いて、きみの義務をすべて解除し、きみの薄汚ない憂鬱病とタッパー教授を追い出して二度ともどってこなくしてくれるような、べとついた、ほれぼれするような、神々しい人物と密会する、居心地のよい、いかにも清浄めかした場所を設定するためじゃないんだ。きみにもしそれを見る明があるならば-『ならば』じゃない、きみにはあるんだが−しかもそれを見ることを拒むとすれば、これはきみがその祈りの使い方を誤っていることになる。お人形と聖者とがいっぱいいて、タッパー教授が一人もいない世界、それを求めるために祈ってることになってしまうじゃないか」
p246 (ハプワース)
これはまだバディとじっくり話し合ってないんだけど、あの中くらいのウサギちゃんを送ってくれるとバディはすごく喜ぶと思う。あの大きいウサギちゃんを、汽車で朝、掃除係の人がベッド直しにきたときになくしちゃったんだ。だけど、それについては手紙も何も書かないで、中くらいのウサギちゃんをこっそり靴箱みたいなものに入れて送ってくれればいいから。
p180 (ゾーイー)
「幸いにしてぼくには、それがきみの本心でないことが分かってるんだ。胸の奥では違うんだな。心の奥底では、僕たち二人とも、ここがこのお化け屋敷の中で神聖に浄められた唯一の場所だってことを承知してるんだ。ここはたまたまぼくがむかし兎を飼ってた場所でもあるぜ。あの兎たちは聖者だったよ、両方とも。実を言うと、あいつらだけが独身の兎で-」
「ああ、もうやめて!」苛立たしそうにフラニーが言った。
p80 (ゾーイー)
Sの自殺を怒っているのは君だけだ。そしてそれを本当に許してるのも君だけだって、あいつはそう言ったんだ。君以外の僕たちは、みんな、外面では怒らず、内面では許していないんだってね。
p146 (ゾーイー)
「あの夢の中でわけがわかるのはたった一人、タッパー教授だけよ。つまり、あそこに出てきた人の中で、わたしを本当に嫌ってるということをわたしが自分で知ってるのは、タッパー教授だけなの」
p197 (ゾーイー)
それは、動物ならばどんな動物でもメチャクチャにかわいがる動物好きな男の子が、彼の愛する兎の好きな妹に誕生日祝いを贈ったとき、プレゼントの入った箱を開けた妹が、そこに、へたな格好の蝶々結びに結んだ赤いリボンを首につけた、つかまえられたばかりのコブラの子を発見して浮かべる表情、その妹の表情を目にしたとたんに男の子の顔から血の気がさっとひいてゆく−そういうときの男の子の蒼白な顔色によく似ていた。
ハプワース16、1924年 完