大工よ、屋根の梁を高くあげよ シーモア−序章−
p9(大工よ、屋根の梁を高く上げよ)
秦の穆公が伯楽に言った「お前ももう歳をとった。お前の子供たちの中に、お前に代わって馬の目利きとして余の雇える者が、誰かおらぬか?」伯楽は答えた「良馬は体格と外観によって選ぶことができまするけれども、名馬は−埃も立てず足跡も残さぬ馬というものは、消えやすく、はかなく、微かな空気のように捕らえがたいものでございまする。わたしの倅どもは至らぬ者ばかりでございまして、良馬はこれを見せれば分かりまするけれども、名馬を見抜く力は持っておりませぬ。しかしながら、わたしには、九方皐と申す友人が一人ございまして、薪と野菜の呼び売りを生業といたしておりまするが、馬に関する事どもにおきましては、決してわたしに劣るものではございませぬ。願わくは、かの男を御引見下さいまするよう」
穆公はそのとおりにしたあげくに、馬を求めてくるようにと仰せられて、その男を急派したのである。三ヶ月の後、男は、馬が見つかった旨の報せを持って戻って来た。「その馬は目下、沙丘におりまする」と男は申し添えた。「どういう種類の馬か?」公は尋ねられた。「栗毛の牝馬でございまする」というのがその答えであった。しかしながら、それを連れに遣わされた者が見ると、馬は、なんと、漆黒の雄馬ではないか!いたく興を損じられた公は、伯楽を呼び寄せて「余が馬を探して参れと命じたお前の友人は、とんだ失態を演じおったぞ。馬の毛色はおろか、牝雄の別すらもわきまえぬ男ではないか!あれでそもそも馬の何が分かると申すのだ」伯楽は一つ大きく満足の吐息をついた。「あの男はもうそこまでも至りましたか!」彼は声を弾ませて言った。「はてさて、そこまで行けばわたしを一万人寄せただけの値打ちがございます。もはやわたしの遠く及ぶところではございませぬ。皐の目に映っているのは魂の姿でございまする。肝心かなめのものを掴むために、些細なありふれたことは忘れているのでございます。内面の特質に意を注ぐのあまり、外見の特徴を見失っているのでございます。見たいものを見、見たくないものは見ない。見なければならないものを見て、見るに及ばぬものを無視するのでございます。皐は、馬以上のものを見分けることができまするほどに、それほどに冴えた馬の目利きなのでございまする」
いよいよその馬が到着してみると、なるほど天下の名馬であることが分った。
p 269(テディ)
到来物の馬の口中は見るな
p 271(テディ)
ぼくの考えによると人生とは到来物の馬だ
p92 (大工よ、屋根の梁を高く上げよ)
『ある対象に、神が注いでいる以上の愛情を注ぐとき、これを感傷的態度と言う』
p278 《テディ》
「ええ、そりゃぼくは神を愛してる。でも感傷的に愛してるんじゃない。神を感傷的に愛さねばならぬなどとは神は一度も言ってやしない。ぼくがもし神だったら、自分を感傷的に愛してもらいたいなんて絶対に思わないな。そんな愛なんてあてにならないもの」
「きみはご両親を愛してるだろう?」
「ええ-とっても」と、テディは言った「ただしその愛という言葉だけど、あなたはぼくにもあなたが望むような意味でそれを使わせたがっている-そうでしょう?」
p128(シーモア−序章−)
あなたが鳥類に魅せられたのは「これらの鳥−平均体温華氏百二十五度の小動物−はあらゆる生き物のなかで、もっとも清純な心に近いようにみえた」からだ。
p188(ゾーイー)
もう一つきみの気に食わなかったのは-聖書のそこんとこをきみは開いてたんだが-『空の鳥を見よ』というところさ。『播かず、刈らず、倉に収めず。しかるに汝らの天の父はこれを養いたもう』(訳注「マタイ伝」六章二六節)ここまではよろしい。これは美しい。ここなら賛成できる。ところが、すぐ言葉を続けて、イエスが『汝らはこれよりも優れる者ならずや』と言うとき-ここで幼いフラニーは爆発するんだ。幼いフラニーが冷然と聖書を棄てて、まっすぐに仏陀に赴くのはここのところさ。仏陀はかわいい空の鳥たちを差別待遇しないからね。ぼくたちがレークで飼ってたかわいらしい鶏や鵞鳥もみんな。
p155(シーモア−序章−)
客たちのコートはハンガーに吊るされたり、壁にかけられたり、ほうりだしてあるのもあり、狭い家の至る所、一番下の妹が眠っているベッドの上にさえ積み上げられていた。彼とわたしが個人的に知っている客は十二人ぐらいで、十人かそこいらは以前顔を合わせたとか、評判で知っていたが、それ以外の客はまるっきり、もしくはほとんど知らなかった。付言しておくが、客が来た時にわたしたちはまだ眠っていた。しかし3時間ほど客たちを眺めていたり、にっこり笑いかけたり、おそらく彼らを愛することによって、シーモアはほとんど全ての客に−あらかじめ聞くこともせず−各自のコートを一度に一着か二着ずつまったく間違えずに持ってきたし、男たちにはすべて、それぞれの帽子を一緒に持ってきたのである(婦人帽では彼もちょっとまごついた)。ところで、わたしはこうした種類の芸当が中国や日本の詩人の特徴であるとか、それが彼らを詩人たらしめるものだとか言うつもりは毛頭ない。しかし、もし中国や日本の詩作者がコートの特注を識別できなかったら、彼らの詩が成熟する可能性はきわめて少ないと信じている。そして八歳というのはこうした小さな芸当を取得し始める年齢としてはぎりぎりの限界だろうと思う。
p157(シーモア−序章−)
まさに一茶の名を口にすることは、わたしに真の詩人は素材を選ばぬという確信を与えてくれる。明らかに素材が彼を選ぶのであって、彼が素材を選ぶのではない。
p244(シーモア−序章−)
一方、シーモアはひとりですばらしくきちんとした服を選びだした。ただその際一番厄介だったのは、彼の買うものは何一つとして−背広上下、特にオーバー−彼にぴったりと合ったことがないということだった。彼は仕立て直し係が近づいてくると、おそらく服を半分着たままで決してチャコなんかつけさせずに、いつも逃げ出してしまったにちがいない。彼の上着はどれもこれも短すぎるか長すぎるかのどちらかだった。袖はたいてい拇指の第一関節までのびているか、手首の骨のところまでしかなかった。ズボンの臀はいつも一番ひどい状態だった。それは三十六インチの標準サイズの尻が、まるでゴールに入ったバスケットボールみたいに、四十二インチのロングサイズのズボンに落ち込んだかのようで、見る者に畏怖の念を起こさせることもあった。
p246(シーモア−序章−)
ところで、この大きな、難しい問題はこのくらいにしておきたい。要するに、彼の服装は、しばしば家族全員を困らせ、ほとんど絶望に落とし入れたものである。実際、わたしは、ごく通り一ぺんの説明をしたにすぎない。実際この問題は実にさまざまな形をとってあらわれたのだ。
(キャッチャーインザライ「夏休みの課題」)
「なんていうか、退学は残念だと思っています。いろんな理由で」ぼくはそういったけど、考えていることを先生に伝えるのはとても無理だと思っていた。トムスン ヒルに立って、ビューラーやジャクソンや自分のことを考えていたと話してもしょうがないだろう。「いまここで、その理由をいくつか説明するのは難しいと思います。でも、今夜、たとえば今夜、僕は荷物をトランクに詰めてスキーブーツも入れました。スキーブーツをみたとき、ここを去っていくのが悲しくなりました。母さんがあちこちのスキー用品店を回って、店員に間抜けな質問をしている姿が思い浮かんだからです。そうして母さんが買ってくれたスキーブーツはぼくの足に合わなかったんです。でも、ぼくは母さんが好きです。本当に好きなんです。僕がここを去るのが悲しいのは、母さんと足に合わないスキーブーツのせいなんです」僕に言えるのはそこまでだった。
p256〜263(シーモア−序章−)
Sがめずらしくフットボールのチームに加わるときは、彼のチームメートにとって彼が頼もしい存在となるかお荷物になるか予測しようがなかった。2組にわかれてやるゲームでは、彼は、たいてい最初に指名された。彼は断然、くねくねと尻を振って進む、生まれながらのボール運びだったからだ。もし彼がグラウンドの真ん中でボールを抱えて走っているときに、とつぜんタックルしてくる相手に親切にしてやろうというような気をおこさなければ、彼はチームにとってまぎれもない財産となった。しかしわたしが言ったように、彼が助けとなるか、妨げとなるか、実際わからなかった。かつて、わたしのチームメートが不承不詳にも、僕にボールをまわしてくれて、ウイングを迂回させるという大変めずらしく、しかも、気持ちの良い時に、相手方にいたシーモアはわたしが彼の方向に攻めていくのをみると、まるで思いもよらぬ、途方もない、摂理による巡り合いとでも言うように嬉しくてたまらない様子をして見せたのでわたしはまごついた。わたしははたと立ちつくしてしまったが、当然のことながら、誰かがわたしを、近所の連中によると、1トンもの煉瓦のように引きずり倒したのである。この話は、この先まだまだ続くことになりそうだが、実際今やめるわけにはいかぬ。今まで言ってきたとおり、彼はまだゲームによっては目をみはるほど上手だったのである。実際、許しがたいほど上手だった。つまりわたしが言いたいのはゲームやスポーツにおいてすばらしいということにはある限界があり、非正統派の相手、ある種の理屈抜きに「嫌な奴」が−形を踏まない奴やスタンドプレイをする奴、あるいはまさに百パーセントアメリカ的な野郎が、すばらしくなるのをみるといっそう腹立たしくなるということである。そうしたすばらしさは、我々に対して安っぽい劣悪な用具を用いて、大成功をおさめるものから、はるばるずっと不必要なまでに幸福そうな、気分のいい顔をしている勝者におよんでいるのだ。シーモアがゲームで特に出来のいい場合、唯一の罪は形を踏まないことだったが、これは大きな罪だった。わたしは特に三つのゲームを思い出している。ストゥープ・ボールとビー玉ころがし、そしてポケット玉突きだ(ポケット玉突きについては別の機会に論じなければならないだろう。これはわたしたちにとって単なるゲームではない。まさに宗教改革といってもいいほどのものだった。わたしたちは青年時代に重大な危機の前後にはほとんどいつも玉を突いたものだ)。地方の読者の参考までにいうと、ストゥープ・ボールというのは褐色砂岩の階段やアパートの正面を利用してやるゲームだ。わたしたちが遊んだ頃は、ゴムのボールをアパートの正面についている、花崗岩建築の意匠を凝らした装飾−ギリシャのイオニア式と、ローマ風のコリント式を折衷したマンハッタンでよくみかけるもの−に向って腰ぐらいの高さに投げたものだ。もし、はね返ってくるボールが相手方のチームの誰にもフライでとられずに、表通りに飛び出したり、通りを越えて反対側の歩道まで行ってしまったりすると、野球の場合と同じように、ヒットということになる。もしボールがとられてしまったら−このほうがずっと多いのだが−バッターはアウトになるのだ。ホームランが記録されるのはボールが通りの向こう側のビルの壁にあたるくらい勢いよく高く飛んで、はね返ってきたところをとられないときだけである。わたしたちがこのゲームをした頃には、かなり多くのボールが直接向かいのビルの壁に当たったものだが、フライでとれないほど速く、低く、うまいコースに飛ぶボールはごく少なかった。シーモアは打順がまわってくれば必ずと言っていいほど、ホームランを打った。他の連中がホームランを打つとまぐれ当たりだと言われたが−どのチームに属しているかで、そのまぐれが嬉しかったり、不愉快だったりするものだ。−シーモアの場合には、ホームランが出ないほうがまぐれのように見えたものだ。もっと奇妙で、もっとこの話の核心にふれることを言えば、彼は近所では類のないようなボールの投げ方をした。彼以外の連中は、まあ普通に右利きなら、といっても彼も右利きなのだが、波形模様がついたストライクゾーンの少し左よりに立ってサイドスローで強烈なボールを投げるものである。ところがシーモアは難しい場所に向きあって、それに向かってまっすぐにボールを投げおろすのだ。−卓球やテニスのときの、嫌になるほど下手くそな、上からたたきつけるようなスマッシュによく似ているのだが−するとボールは最小限度身をかがめた彼の頭上をビューンととび越え、そのまま、いわば外野の観覧席にとび込んだものだ。もし彼のやり方をまねたら(こっそり独りでやるにせよ、彼のとても熱心な個人コーチを受けるにせよ、どちらにしろ)簡単にアウトになるか、そうでなければ(いまいましい)、跳ね返ってきたボールを顔にまともにぶつけるかのどちらかだ。それで、ついに彼とは誰も−このわたしでさえストゥープ・ボールをしたがらなくなった。それからは彼はよくこのゲームの面白い点を妹の1人に説明したり、このゲームをボールが向かい側のビルに当たってゆっくり戻ってくるときに足の位置を変えなくとも捕れるようにして、非常に有効な一人遊びのゲームに変えたりした(そう、そのとおりだ。わたしはこんな事をいまいましいほど大事にしすぎている。だが、三十年近くも昔のことで、何もかも抑えることができなくなっているのだ)。シーモアはビー玉遊びも達人だった。このビー玉遊びでは、最初の番の者が、ビー玉つまり自分の玉を転がすか、投げるかして車が駐車していない歩道のふちに沿って二十フィートか二十五フィート離れた所の歩道の縁石の近くに置いておく。それから、二番目の者がそのビー玉を最初の者が始めたのと同じ場所からねらい打つ。が、ほとんどの場合当りはしない。と言うのも、この歩道のふちに沿ってまっすぐにビー玉が転がるということはないからである。通りそのものがでこぼこだし、歩道のふちに当たったビー玉のはねかえり方が悪かったり、チューインガムのかたまりがくっついてたり、またいわゆるニューヨークの歩道特有の多種多様の糞もある−単に月並みなけちな狙い方ではいうまでもない。もし2番目の者が、最初の狙い打ちに失敗すると、ビー玉は普通、最初の番の者がその次に打つとき、とてもねらい打ちしやすい近い位置に転がって来て止る。シーモアは先に打とうが最後に打とうが、百回やって八十回か九十回は不敗だった。遠くから狙うときには、シーモアは相手のビー玉に向かって大きな弧を描くように転がした。そう、ちょうどボーリングのときにファウル・ラインのずっと右からピンめがけてボールを転がすようなものである。この場合も、彼の構えやフォームは頭に来るほど変わっていた。同じブロックの連中はだれでも、ロングショットのときは下手投げで投げていたが、シーモアはビー玉を横手投げ−というよりは横手首投げ−で投げるのである。どことなく池に平たい石を投げて水を切るのに似ている。ここでもまた、彼のまねをしようものなら、ひどいことになる。彼の方法では、ビー玉を少しでも効果的にコントロールすることはまったく不可能だった。
どうも、わたしの心の片隅には卑俗にも、次のようなことを言おうと待ちかまえていたところがあるようだ。こんなことは実に長い年月の間、おもいもよらなかったことだ。
ある日の午後ニューヨークの街灯がともり、車の駐車燈がともり始める−ある車は燈をつけ、ある車はまだつけていないといった頃−そんな午後のかすかに感傷的な十五分間、わたしはアイラ・ヤンカウァーという少年と我が家のアパートのカンバス地の日除けの向いの歩道の端でビー玉遊びをしていた。わたしは八つだった。シーモアの技術を使って、と言うよりは使おうとして−彼の例の横手首投げ、あのビー玉に大きくカーブをつけて、相手にぶつける彼のやり方−わたしはたえず負けていた。たえず負けていたが、くやしさはなかった。と言うのも、あの時刻にはニューヨークの子供も、ちょうど最後の牛が牛小屋に追い込まれるとき、遠くに汽車の汽笛を聞くオハイオ州テイフィンの子供とあまり変わらないのだ。あの魔法のような十五分間にはビー玉遊びで負けても、それはただビー玉をなくしたというだけのことなのだ。アイラもまた、思うに、しかるべく時が一時停止したようだったが、そうであれば彼がこのゲームに勝ったとしても、しょせんビー玉をとったというだけのことであろう。この静けさの中から、静けさとまったく調子を合わせたように、シーモアがわたしに声をかけてきた。それはこの宇宙に三人目の人間がいるというようなとても快いショックだったし、こうした感じに、それがシーモアであるのは正当だと言うことも加わっていた。わたしは後ろを振り返った。そう、アイラもそう感じたにちがいない。電球のような明るい光が、我が家の張り出しの下にともった。シーモアは家を背に歩道の端に立って、わたしたちの方を向き、羊皮で裏打ちしたコートの切り込みポケットに手を突っ込んで、前こごみの姿勢で土ふまずのあたりでバランスをとっていた。玄関燈を背にしていたので、彼の顔は影になってぼんやりしていた。彼は十歳だった。彼が歩道のふちに立ってバランスをとっている様子、手の位置から−それに加えるに未知数Xから、わたしには当時でも、今と同じように、彼があの魔法にかけられたような時間をものすごく意識していたことがわかっていた。「そうむきにならないで狙ってごらんよ」と彼はそこにまだ立ったまま言った。「狙って相手のビー玉に当てたって、それは単なる運だよ」彼はわたしに話しかけ、語りかけていたのだが、魔法のようなあの時刻の雰囲気をこわすようなことはなかった。が、わたしがそれを破った。しかもわざと「狙えば、運じゃないじゃないか」わたしは後ろにいる彼に向かって言った。何もそんなに大きな声を出したわけではなかったが(傍点をつけたにもかかわらず)、どちらかというと、わたしの声は実際に感じている以上にいらいらしていた。ほんの少しの間、彼は何も言わず、ただ歩道のふちに立ってバランスをとりながら、わたしにも何となく感じとれる愛情のこもったまなざしでわたしを見ていた。「だって、そうなんだもの」と彼は言った。「相手のビー玉に−アイラのビー玉に−ぶつけたら、嬉しいだろう。もし、うまく相手のビー玉にぶつけて嬉しいなら、こっちの玉がうまく相手のビー玉に当たるなんてことを心の中ではそんなに期待してなかったからだよ。だからそこには何がしか運というものがはたらいているはずなんだ。そうさ。そこには偶然というものが多分になきゃならないんだ」
p271(シーモア−序章−)
しばらく縁石ビー玉遊びに話を戻せば−シーモアは自分の投げたビー玉がカチンとガラスにぶつかる音がすると、満面の笑みをたたえたものだが、しかし、それはどっちが勝った音かシーモアには皆目わからないようだった。それからまた、誰かがいつも、彼が射止めた玉を拾って彼に手渡してやらなければならなかったということも事実である。
p162(シーモア 序章)
詩人の役目は書かねばならぬものを書くのではなく、むしろ書かねばならぬことを年老いた司書たちを人間的に可能な限り一人でも多く引きつけるように意図した文体で書くという責務を果たすか否かに生命がかかっている場合に、書くであろうと思われることを書くことだと、信じている、もしくはただ情熱的にそう憶測している人間と議論することはできない。
p224《ド・ドーミエ=スミスの青の時代》
二人の人物の衣服の乱れが写真のような克明さをもって描かれていて、実を言うと、この絵が持つ風刺的な意味よりもむしろそこに駆使されている職人的技術にわたしは感心した。
大工よ、屋根の梁を高く上げよ
シーモア−序章− 完
サリンジャーの持ってる本の中で僕の読み込みが一番あまい本なので増える可能性アリですけどひとまずは完結です
次のフラニーとゾーイーでやっとラスト!感動のクライマックスです。ざっと印つけてたりした時一番量多い&詰まってると思ったんで最後にしたんだけど、こん前のそうでもないと思ってたキャッチャーインザライでさえ結構な量あったんで、フラニーとゾーイーはどうなるんだと今のうちから震えています。今日はどちらかというとあまり馴染みのない新鮮な文でそれほど量もないっていう最後ラストスパートに向けての息継ぎ回でした。西川くんにならないようにちゃんと体調面も慮って構成考えてっから!でもフラニーゾーイーは多分1日じゃ終わらないと思うんで気長にお待ち下せえ٩( ᐛ )و
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