Razorcuts グレゴリー・ウェブスター インタビュー(前編)
C86時代の最大のバンドのひとつRazorcutsは、バーズとバズコックスに影響を受け、クリエイション・レコーズと契約した初期のバンドのひとつでもある。2部構成のインタビューの前編では、フロントマンのGregory WebsterにAnthony Struttが話を聞いた。
(オリジナル記事の公開日:2003年5月13日)
1987年7月9日、クラレンドン(現在のハマースミス・ブロードウェイ)の2階で行われたクリエイション・レコーズのイベントで、私はRazorcutsの演奏を一度だけ見たことがある。ジャスミン・ミンクスや元ストロベリー・スウィッチブレイドのジル・ブライソン(当時クリエイションと契約していたが、同レーベルからの作品はなかった)も出演していた。
Razorcutsは、1984年に長年の友人同士であるボーカル/ギターのGregory WebsterとベースのTim Vassによって結成されたバンドで、彼らは「60年代のビートバンドのガチャガチャ感とパンクスのDIY倫理を組み合わせた」と評され、C86ムーブメントのジャンルを決定づけたアーティストの1つだった。
1991年に解散するまでの間、彼らは様々なシングルをリリースしたほか、クリエイション・レコーズから「The Storyteller」(1988年)と「The World Keeps Turning」(1989年)の2枚のアルバムをリリースした。
その後Razorcutsが再結成されることはなかったが、最近(※訳注:この記事が公開されたのは2003年5月)、彼らはある種のルネッサンスを経験している。コンピレーション・アルバム「R is for Razorcuts」と、4曲入りEP「A is for Alphabet」が、アメリカのレーベル、Matinée Recordingsからリリースされ、高い評価を得たのだ。どちらもPennyBlackMusicではベストセラーとなっていて、それが今回のグレゴリー・ウェブスターへの綿密な2部構成のインタビューが行われた理由である。グレゴリーはRazorcutsの解散後、数年間カルーセル(The Carousel)でプレイし、現在はスポルティーク(Sportique)のフロントマンを務めている。
インディーズのガイド本やRazorcutsについて書かれたものは、今までかなり不正確なものだったので、私は、グレゴリーにインタビューして、彼らの7年間の歴史についての真実を探った。
— このインタビューは、Razorcutsの記録を正しくするチャンスです。あなたとティムはルートン(Luton)出身だと、いろいろなガイドに書かれていますね。
Gregory Webster(以下GW):そうだね。
— でも、お二人ともオックスフォードに縁があると思います。今はオックスフォードにお住まいですか?
GW:うん、今はオックスフォードに住んでいるよ。Razorcutsを始めたころ、僕は、後にTalulah Goshに参加することになるリズ(Elizabeth Price)と付き合っていたんだ。彼女はオックスフォード大学で勉強していたから、僕もオックスフォードでよく過ごすようになって、住むのにいい場所だったから最終的に引っ越したんだ。
それがオックスフォードでの活動のきっかけだよ。僕がオックスフォードで過ごすようになったのとほぼ同時期に、リズはアメリア・フレッチャーと出会い、一緒にバンドを組むことになったんだ。当時のオックスフォードの小さなシーンの中心だね。ティムと僕は、オックスフォードで一緒にリハーサルをするようになったけど、二人とも、もともとはルートンの出身だよ。
— お二人はどのようにして出会ったのですか? 学校や大学でですか?
GW: 地元のパブで出会ったんだ。二人とも、当時はパンクだったから。パンク・ムーブメントが起こった時、僕らはそのくらいの年齢で、地元のパブがパンク・パブだったんだ。
— 当時、ルートンには大きなパンク・コミュニティがあったのですか? 当時のロンドンでも、Wardour StreetのMarquee Clubのようなパンクのライブハウスを除けば、まだとても小さいものでしたが。
GW:大きなシーンではなかったけど、みんなお互いを知っていたね。とても社交的なシーンだったけど、それゆえにとても内輪っぽくもあったね。規模は大きくなかったよ。
— バンドはどのようにして結成されたのですか? もともとは、あなたとティム、そして最初のドラマーであるデヴィッド・スウィフト(David Swift)の3人だったんですよね?
GW:そうだよ。
— それは正しい情報ですか?
GW:そう、その通りだよ。ティムと僕は、80年代前半から一緒に演奏していたんだ。
— Razorcutsの前にもバンドをやっていましたか?
GW:Razorcutsの前にもいくつかバンドをやっていたけど、どれもルートンを拠点にした、いわゆる地元バンドのようなものだったよ。振り返ってみると、それらはとてもひどかったね。
— 何かリリースしたものはありましたか?
GW:Razorcutsの前に、Cinematicsというバンドで1枚リリースしたんだ。「Pulsebeat Records」という自分たちのレーベルから出したんだけど、これも最悪だったよ。でも、1曲だけ良い曲が入っていたし、C-86シーンやインディー全盛期の前に出たものだから、ある意味、今持っていてもいいかもしれないね。それ以外の曲はかなりひどかった。
そのレコーディングは、僕らにとって初めてのレコーディング・スタジオでの経験だったし、想像できると思うけど、最高の時間だったんだよね。でもそのせいで、クオリティ管理がおざなりになってしまった。二人とも本物のシンガーじゃなかったし。様子を見ながら二人でやってみたんだけど、どちらも歌うことができなかったんだ。学ぶのに20年くらいかかったよ(笑)。
— 「R is for Razorcuts」のスリーブノートには、Young ScotlandやPostcard Recordsなどにハマっていたと書かれていますが?
GW:そう、ポストカード!
— しかし、ティムはジョイ・ディビジョンやバズコックスに夢中でしたね。
GW:僕らは二人ともそういったものに夢中だったよ。ティムはバズコックスにハマってたね。彼はよく彼らのツアーを見に行っていて、27回くらいは見てるんだけど、それはバズコックスの再結成後じゃなくて、解散前のことだね。バンドも観客の中でティムを見慣れていて、彼に手を振ったりして、ティムもピート・シェリーに馬鹿な顔をしたりしてたよ。
Postcardに出会ったのは、過激な体験だったね。オレンジ・ジュースの「Poor Old Soul」を初めて聴いたとき、僕の音楽の方向性が突然に、全く別の方へ向かってしまったんだ。本当に衝撃的だった。それまで僕はクラッシュやジェネレーションXに夢中で、クラッシュには失礼だけど、こういうユーモアのないパンクバンドがとても好きで、でも自分でそれをやるような可能性は全然見えてなかったんだけど、「Poor Old Soul」を聴いて突然、完全な啓示を受けたんだ。その可能性は素晴らしいと思ったし、そのことを見つけるきっかけを作ってくれたのは、オレンジ・ジュースだったかもしれないね....
— やりたいと思った?
GW:そう、自分たちでやりたいと思ったんだよ。同時期に60年代の音楽もたくさん発見していったんだ。ティムは60年代の音楽をよく知っていたので、それがきっかけなんだけど、僕にとってはザ・バーズとその周辺のバンドが、新しい発見だったね。ザ・バーズだけでなく、ラヴィン・スプーンフルやママス・アンド・パパスなんかも聴いたよ。カリフォルニアにいたからね(笑)。
— 本当にね。80年代の当時は、ザ・バーズの話をしても、みんな知らないので、まさに60年代の旅でしたね。
GW : 80年代からの音楽の発展の仕方は、ちょっと奇妙なところがあるよね。Postcardはインディーポップ・シーンのパイオニアのような存在だったし、80年代半ばには、C-86やキューティ(Cutey)など、誰もがこれらのバンドの存在を知ってたけど、60年代のバンドについての知識は皆無だったので、文字通り自分で探しに行かなければならなかったよね。自分で勉強しなければならないのに、どこにも行くところがなかった。
—「Uncut」誌(訳注:イギリスの音楽雑誌。ジャンルガイド本なども出版している。)が教えてくれるわけではなかったからね。
GW:「これだけは知っておくべきレコード」というようなものはなかったからね。自分で調べる必要があったし、みんなそうしていたよ。
— 今は、インターネットで「こういうアルバムが必要です」と言ってくれるので、もっと簡単ですよね。以前は、アルバムを探すのには苦労したけど、今は、検索エンジンをクリックすれば出てきますからね。
GW: そうだね。今はそれほど楽しくないよね。残念だけど、今では16歳になったら誰もが、何としてでも聴かなければ信用されない、というリストがあるようなものだからね。特に、僕たちが若くて、パンク・ムーブメントを経験していた頃を振り返ってみると、すごくマジカルなことだったね。あれは革命だったよ。
— レイザーカッツというバンド名は、バズコックスの「Love You More」という曲から来ているのですよね?
GW : そうだったね。(笑)
— 実際の歌詞は知らないのですが、どのような歌詞ですか?
GW : そのまんま "Until the razor cuts"(カミソリで切れるまで)だよ。僕のヴォーカル・スタイルもそうだし、そういうところも含めて、バズコックスにはとてもお世話になったよ。振り返ってみると、Sportiqueのテンプレートとしてもバズコックスを使っているかもしれないね。彼らは巨大なバンドだから。バズコックスの重要性を過小評価することはできないよ。
— 彼らの場合、シングルに次ぐシングルでしたね。
GW:その通り。彼らは、60年代半ばのバーズと同じことをしてたんだ。バーズは、おそらく誰もが経験したことのないような素晴らしいシングルを連発していたからね。
— バーズの最初のCDである「Mr. Tambourine Man」のリマスター版のスリーブノートには、12曲すべてがシングルになりうると書かれていました。そのおかげで、バンドは4曲入りのアルバムや、他の曲で水増しされたアルバムを作らないバンドとして目覚めたんですね。
GW:その通りだよ。だから、この2つの大きな力(バーズとバズコックス)を合わせることで、僕らはそれに賛同したんだ。僕らはこれらの2つの要素が大好きだったんだよ。もし君がルートン出身でイギリス南部のアクセントを持っていたとしたら、アメリカの素晴らしいアクセントで歌わないだろう?
この2つの要素を一緒にしてしまったのは、本当にひどいアクシデントだったんだけど、それがうまくいったのは、素晴らしい偶然でもあったんだ。
— あなたが曲を書き、ティムが歌詞を書いていますが、あなたとティムの関係はどうでしたか? 他人の言葉を歌うことに違和感を感じたりしませんでしたか? また、当時の自分には歌詞を書く力がないと思っていたのでしょうか?
GW : 当時、僕が歌詞を書いた曲はいくつかあったけど、正直あまり良くなくて、時の試練に耐えられるようなものじゃなかったんだ。僕らが活動していた頃は、ティムの方が良い作詞家だったから、彼がやるべきだったんだよ。
今は状況が変わって、僕も歌詞の内容に自信を持てるようになったよ。当時、僕はアレンジにとても満足してたんだけど、それは本当に強いマテリアルだったからなんだ。それは僕にとって非常に効果的で、正しい音をすべて出していて、僕たちは...
— 同じ気持ちを表現していた...
GW : うん、でも、それは僕たち二人だけのことじゃなかったんだ。僕らはまた、同じくらい観客の反応も引き起こしたから。
実は今、ティムは僕の新しいソロアルバムのために歌詞を書いてくれているんだ。僕が歌詞を書くことに自信を持てなくなったので、彼に戻ってきてもらった。彼は、人間関係の問題や感情を表現するのが得意なリリシストなので、その点では決して不満はないね。
ティムが歌詞を担当し、僕が音楽を担当する、というように、二人で完全に分かれていたというのは非常に不公平な捉え方だね。傾向として、僕が曲のタイトルとメロディのアイデアを持っていて、ティムが僕と一緒に曲の構成を考えてくれるという感じだったんだ。僕が曲を作って "ここはこうするんだ" みたいなことはなかったよ。ティムは曲の構成に貢献していたから、バンドの音楽性は2人のバランスで成り立っていて、彼も僕と同じように貢献してくれてたね。ティムが作曲できなかったかのように言われるのは不公平だと思う。
— 「R is for Razorcuts」には、Flying Nun、Subway Organization、Creation Recordsの3つのレーベルに所属していたとクレジットされていますね。最初に所属したレーベルはどれですか?
GW : 最初に所属したレーベルは、サブウェイ・オーガニゼーションだった。ブリストルを拠点にしていたオーナーのMartin Whiteheadが、オックスフォードで行ったRazorcutsの初ライブを見に来てくれたんだ。それは、僕らとTalulah Goshのギグで、Talulah Goshにとっては初めてのギグだったと思う(※正確には、オックスフォードのウースター・カレッジでの1986年3月7日のライブ)。
彼がブリストルからやってきたのは、僕が彼にデモテープを送ったからで、いくつかのシングルを一緒に作ったんだ。当時は、それが正しいことのように思えたね。スープ・ドラゴンズはこのレーベルに所属していて、当時ブームになっていたし、僕がとても好きだったショップ・アシスタンツもいた。当時、みんな知り合いだったんだよ。
— C-86の時もそうでしたよね。みんな知り合いだったんですか?
GW:とても小さなシーンだったね。インディ・ポップの目指す雛形として、すごく影響力があると思うけど、当時はとても小さかったし、そのおかげでとても良いものだったと思うよ。
— NMEが「C-86」テープ(1986年に発売されたカセットのみのコンピレーション。当時のイギリスのインディーシーンの雰囲気を記録したもので、ウェディング・プレゼンツ、パステルズ、プライマル・スクリーム、マッカーシー、スープ・ドラゴンズ、クローズ・ロブスターズなどのバンドの初期の曲が収録された影響力のあるもの)を発売してから、シーンが変わったと思いますか?
GW:うーん…?
— その1年くらい前からシーンは起こってましたからね。
GW : なんだか、全体的にヘンな出来事だったな。当時は影響力があって重要だったんだろうけどね。NMEが、レコードが売れるわけでもない、希望のないインディーズ・バンドをたくさんプッシュしていたから、ちょっと不思議な感じだったんだ。今では考えられないよね、彼らもそんなことしないだろうし。それで何か変わったかって? それほど変わったとは思わないね。ただ、当時のNMEが実際にインディー・ミュージックをサポートしていたというのは奇妙なことだと思う。
— 今はそうではないですからね。
GW:今となっては、もはや漫画のような話だからね。
— でも、今はインターネットが普及し、プレイステーションやDVDのようなものがあるから、昔のように音楽を支持する人は少ないと思います。人々は他のことで時間をつぶせますし。
GW:そうだね。
— また、もしまだ音楽に興味を持っている人でも、「こんなアーティストの新しいアルバムを持っている」というのは、もはや自慢にはなりません。私が自分のファンジン「Independent Underground Sound」を書いていた頃の最初のインタビューのひとつに、プライマル・スクリームの共同創設者で元メンバーのジェームズ・ビーティーがいました。彼は、“昔は”(セックス・ピストルズの)『勝手にしやがれ!!』を買って、それを持って道を歩くだけで、ある種のステートメントになった、と言っていました。今は、CDを買ってポケットに入れてても、あなたが何かを持ってきたかなんて誰もわからないですし。
GW:それはとても核心をついてるね。ロンドンで行われたプライマル・スクリームの最初のライブで一緒に演奏したとき、アラン・マッギーやディック・グリーンから、ジェームズ・ビーティーがいかに恐ろしい野郎かということを散々聞かされて、ブーツが震えるほどだったのを覚えてるよ。彼は最高にいい奴だったよ。美しい男でね。彼らは、クリエイション・レコードの多くの作品で行ったように、彼を大きな評判に仕立て上げたんだ。
— ちょうどクリエイションの本『My Magpie Eyes are Hungry for the Prize』(David Cavanagh著/2000年)を読み終えたところなのですが、そこにはあなたのことはまったく書かれていないのですか?
GW:そうだね。
— そのことについて動揺されましたか?
GW:いや。
— 素晴らしい本ですよ。
GW:それはDavid Cavanaghの本かな?
— そうです。
GW:ティムはその本の取材を受けて、引用されているよ。ティムの話によると、David Cavanaghは、会ってみたらいい人だったけど、Razorcutsのことは嫌いだったみたい。彼はナイフを突き刺すようなことはしたくなかったので、僕らのことをわざわざ書かなかったんだね(笑)それってちょっと奇妙な話でさ、だって「Storyteller」が発売されたとき、それは当時クリエイションで最も売れた作品だったんだから。不思議な話だよね。
— C-86の黄金期は87年から91年ですね。Razorcutsはその間ずっと活動していました。全体的に見て、その経験は楽しかったですか?
GW:Razorcutsとしてスタートしたのは84年で、形成期だね。その頃は、自分たちが何をしているのかを把握するために、ごく初期のテンプレートをやっていたんだと思う。あの頃はとても楽しい思い出ばかりで、素晴らしかったね。イギリスの違う町(Razorcutsは海外で演奏することはなかった)に行って、そこでみんなが僕らを気に入ってくれているというのは、最高だったよ。自分たちのことを説明しなくていいんだから。自然に理解してくれるんだ。当時は、人々の間にすぐ共感が得られたし、大きなシーンではなかったので、とても良かったと思う。音楽の文脈の中に溶け込んでいたんだ。
—ちょっとしたクラブシーンのような感じでしたね。
GW:音楽とシーンが見事に調和してたよね。また、本物のアンダーグラウンド・ムーブメントでもあった。この種のものは、主要メディアのレーダーからほとんど外れている場合にだけうまくいくんだ。レーダーを超えてしまうと、魔法が効かなくなってしまう。僕らは、ずっとそのレーダーの下にいられたんだ(笑)。
プライマル・スクリームとはロンドンの同じ場所でリハーサルをしてたし、やっていることも似ているところがたくさんあったね。僕たちよりも彼らの方が、サウンドをより明確にすることができたと思う。僕らはまだ手探り状態だったから。悪い意味じゃないけどね。僕らは甘いもののショーに参加する子供のように、食べられるものは何でも食べていたし、彼らは一歩下がって、僕らよりも少しだけ自分たちのサウンドを発展させてたんだ。そう、プライマル・スクリームがロックンロールにのめり込むまでは、我々と明らかな共通点があったと思う。
—「Sonic Flower Groove」の後の時期(※最終的にセカンド・アルバム「Primal Scream」を生むことになる時期)ということですか?
GW:そう。87年の終わりから88年の初めにかけて、Aylesburyの郊外に彼らを見に行ったよ。アランは、プライマル・スクリームが陽気なポップスから離れていったので、代わりにRazorcutsがクリエイションでその座を占める、と考えていたんだ。僕たちは彼らの後にクリエイションと契約したんだけど、アランは、僕らがぴらぴらしたフリンジをつけている60年代風バンドで、プライマル・スクリームは次の活動に移っていくと見てたんだ。
でも、そうならなかったのは、そういうクリエイションの仲間たちとの付き合いに飽きちゃったからなんだ。80年代初期にはそれが大好きだったんだけどね。「リヴィング・ルーム」(訳注:アラン・マッギーがクリエイション設立前に主催していたイベント)があった頃は夢中になっていたけど、その魅力がなくなって。あのシーンで自分の存在をアピールできなくなった時点で、すぐ歴史のひとつになってしまったんだ。
— あなたは決してパワフルな歌声の持ち主ではありませんでしたが、ボビー・ギレスピーもそうでしたね。
GW:(笑)。
— しかし、プライマル・スクリームは、別の方向に進みました。彼らは、ロックの後、ソウルなどにも興味を持ち、ブリクストン・アカデミーで演奏するようになりましたが、あなた達は同じ規模の会場で演奏し続けたのですか? Razorcutsの進む方向には満足していましたか?
GW:そうだね。
— あなたは、自分もそうすればよかったと思ったことはありますか? それとも自分のやっていることに満足しているのでしょうか?
GW:不思議だけど、そうしない方が信頼性が保たれるんだよ。
— 私の友人の一人が、ボビー・ギレスピーは人生で一度も独創的な考えを持ったことがない、と言っています(これは少し可哀想だと思いますが...)。彼は、すべての本を読み、すべてのレコードを聴き、特定の人々から少しずつ学んできました。それが彼を豊かにしてきたのですが、そのために一般的な信頼性を失ってしまったのです。
GW:難しいね。プライマル・スクリームがやってきたことに文句はないよ。ただ、名声や富を得るためには、妥協しなければならないからね。
僕は20年間演奏してきたけど、自分たちの作品や、活動の基準には満足しているんだ。僕は音楽ビジネスが好きじゃないし、むしろ、音楽業界のアウトサイダーとして評価されたいと思っているんだよ。それが、僕らが世界制覇を目指しさなかった大きな理由の一つかな。そうするには、音楽業界に大きく関わらなきゃいけないし、そこにはただお金を稼ぎたいだけのろくでなしがたくさんいる。僕はそんなにお金を稼ぎたいとは思ってないからね。それより、自分の作る音楽の方が好きなんだ。
— Sportiqueは趣味のようなもので、本業があるのではないですか?
GW:実は、本業はないんだ。昼間の仕事を辞めたのは、Sportiqueのためではないけどね。音楽を作ることを「趣味」という言葉で言いたくないのは、それは非常に時間がかかるものだし、現実のことだからね。そこに不自然さはないよ。でも、正直に言うと、近い将来それで大金を稼げるという幻想は抱いていないんだ。