Longshot For Your Love / The Pale Fountains ライナーノーツ 日本語訳 その4
(前編はこちら)
パトリック・ムーアによるライナーノーツ(後編)
ロンドンに戻ると、ジェフは新録音に熱狂し、エルヴィス・コステロにテープを送るつもりだと言いました。ヴァージンでは、次のペイリーズのシングルのライセンス契約について話し合い、サイモン・ドレイパーが7,000ポンドの予算を提案してきたので、私はためらいました。一方、クリスは、マイクがワインバーでソロのアコースティック・セットを演奏し、バンドのシングルがリバプールで1位になったという知らせを電話で伝えてきました。8月31日、私たちはプラトンズ・ボールルームで行われたペイリーズの故郷での凱旋コンサートに参加するため、みんなで出かけました。この日のために、荷物のラベルに特別なチケットを印刷しておいたのです。ピート・ワイリー(※12)がバンドを紹介し、彼らは明らかに緊張していました。素晴らしいセットとは言えませんでしたが、2回のアンコールがありました。バンドは私たちと一緒にロンドンに戻り、9月2日にブライトンのエクストリームズ・クラブで演奏しましたが、そのとき私たちは皆ドラッグでとても酩酊していました: マイクはステージに上がったときに倒れそうになっていましたが、素晴らしいライブでした。翌日の夜はコヴェント・ガーデンのロック・ガーデンで演奏し、それはおそらくその年最高のコンサートでした。あの暗い地下室で、熱狂的な聴衆とともに、エネルギーに満ち溢れていました。
マイクとクリスはその週も滞在し、複雑なオファーと取引の網を整理しようとしました。新しい同居人ボブ・ブライトがペトゥラ・クラークの「Downtown」を聴かせてくれて、それをきっかけに、もっと大きく、もっと60年代風のプロダクションのアイディアが浮かんだのです:バンドの夢を実現するためには、このようなプロフェッショナリズムが必要でした。9月9日、彼らはどことなく敵地であったハシエンダでライブを行いました。しかし、マンチェスターはペイリーズを愛したのです。トニー・ウィルソンは彼らを祝福するために戻ってきてくれましたし、ニュー・オーダーのマネージャー、ロブ・グレットンは『フューチュラマ』で彼のバンドの上で演奏するよう招待してくれました。私は信じられない思いでそれを録音しました。
9月11日、ペイリーズはICA(※13)で演奏しましたが、その頃、彼らのファンの中には、マイクに魅了されたパッツィ・ケンジット(※14)もいました。2日後、私たちはロンドン郊外にあるチューダー朝の王宮、ハンプトン・コートに移動し、才能あるアメリカ人写真家、クリスティーナ・ビルラーがバンドと1日セッションをしました。彼らはボートや木の上でポーズをとり、通行人の自転車を借り、川でパントを漕ぎ、そこで私たちは皆、見事に転んでずぶ濡れになって帰ってきました。翌日、ジェフ・トラヴィスがパワー・プラント・スタジオのロビン・ミラーを紹介してくれて、そこで次のシングルのレコーディングが提案されました。印象的な内容でしたが、契約の可能性があるという緊張感が漂い始めていました。私たちはすでにチャペル(※15)とファーストシングルの一回限りのライセンス契約を結んでいましたが、今度はディック・リーヒィ(※16)がバンドを、オリジナルのウォーホル作品や、と他の契約の証拠 - ザ・ジャム、ヘアカット100、ワム!など - が飾られているオフィスに招いたのです。
9月17日、バンドはパワー・プラントで「Just A Girl」「Thank You」「Meadow of Love」をフルオーケストラと伝説のハービー・フラワーズの演奏で録音しました。一方、ラフ・トレードは2枚のアルバムと4枚のシングルの契約を提案しましたが、アラン・ホーンはこの契約にサインしないようアドバイスしてきました。WEAもまた、このバンドに熱い視線を送っていました。バンドは9月23日に再びThe Venueに出演しましたが、しかし、その頃にはビッグ・ビジネスのひずみが私とバンドの間にも同じひずみをもたらしていました。ハネムーンは終わり、この関係は大きな悪の世界で生き残ることはできませんでした。ペイリーズは私に最後通牒を突きつけました:彼らのマネージャーになるか、OTのディレクターでいるか、どちらか一方になることしかできない、と。それは不可能な選択でした。彼らはパムという若くてハードな女の子(私の日記によれば)を雇い、130,000ポンドでヴァージンと契約したのです。
しかしその前に、バンドと私がブリュッセルに飛び、「Move Back Bite Harder」と名付けられたクレプスキュールのミニ・ツアーに参加したときには、昔の精神が一瞬よみがえりました。私たちは街の中心部にあるホテルに泊まり、たくさん飲んで夜通し枕投げをしました。アンテナのイザベルが「Scarborough Fair」のバッキング・ヴォーカルでバンドに参加してくれました。この曲はとてもスウィートで、キャバレー・ヴォルテールを見に来たハードコア・パンクのグループから暴力を引き起こすほどでした。10月4日、バンドはクレプスキュールの映画のサウンドトラックアルバム用に「We Have All The Time In The World」をレコーディングした後、地方にドライブして、ブノワ・ヘンネベールの田舎の家へ行きました。クレプスキュール・デザインの優しき天才であるヘンネベールは、彼の美しいアートワークと膨大なレコードコレクションを見せてくれました。バンドは田舎道を自転車で走り、ロンドンの煩わしさから解放されて、幸せそうに見えました。
イギリスに戻った後、私たちの道は永遠に別れることになりました。ペイリーズはその後もヴァージンから多くの作品をリリースしましたが、ふさわしい成功を収めることはできませんでした。そして、数年後、私はクリス・マカフリーの突然の死を聞いて動揺しました。オペレーション・トワイライトの流れ星は、フレンチ・インプレッショニスツ、ミカド、23スキドゥー、ロスト・ジョッキー、ラルフ・ドルパーのレコードをリリースした後に燃え尽きました。デイヴ・ベイカーはフィル・コリンズのスリーブデザインを担当するようになりました。レイチェル・ルーニーはオービタルのフィル・ハートノルと結婚し、バンドはロブ・ホールデンがマネージメントしています。彼とクレアは現在3人の娘とクラパムに住んでいます。そして私は、フィリップ・ホーア(※17)という名前で作家になり、スティーブン・テナント、ノエル・カワード、オスカー・ワイルドの遺産についての3冊の本を出版しました。
過去を掘り起こすのは不安なものです。クエンティン・クリスプ(※18)が忠告したように、塵は放置されるべきなのかもしれません。しかし、過去を掘り起こすことは、私たちがなぜ今ここにいるのかを理解する上で、有益で示唆に富むプロセスでもあるのです。15年後の今、マリーナは私たちに80年代初頭の楽観的な世界を振り返るよう呼びかけています。そして、その失われた10年に気まぐれで美しいポップ・サウンドトラックを提供するのに、ザ・ペイル・ファウンテンズほどふさわしいバンドはいないでしょう。
パトリック・ムーア
1998年2月 ショアディッチにて