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ひいらぎの窓【第七回】:鳥籠にちゃんと名前をかいておく そうして生きてゆかなくてはね/笹井宏之

こんにちは、こんばんは。湯島はじめです。
今週もお読みいただきありがとうございます。

日曜夜にすこしさみしい短歌を読んでいく「ひいらぎの窓」です。本日は第七回目です。

いまだに春に慣れないでいるのに、容赦なく四月がやってきました。
大人なってしばらく経つので、とくに何があるというわけでもないけれど。確かにこの春に新しい生活をはじめた人や、ひとつの生活に区切りをつけた人が自分の住む街にもいるんだとぼんやりと認識して、何かをがんばるか......という気になったりもする、そういう季節です。
今年もゆるやかにがんばりましょう。

本日の一首はこちらです。

鳥籠にちゃんと名前をかいておく そうして生きてゆかなくてはね

笹井宏之「作品集『えーえんとくちから』より」

自分ごとだけど『えーえんとくちから』はわたしが短歌をはじめてすぐのころに買った歌集で、いくつも付箋をつけてこれまでに何度か読み返している。

最近、電子書籍版を買って改めてあたまから読んでいたときに、心に深く飛びこんできたのがこの一首である。
やさしく語りかける口調に、ふしぎなほどに力強さが宿っている。

「鳥籠に名前を書く」具体的な動作ではあるけれど、どこか夢のなかの出来事のような、現実感の薄さを感じる。
鳥籠に書くのはきっと鳥の名前なのだと思うのだけど、そこに鳥はいるのだろうか。

わたしは初めてこの歌を読んだとき、鳥籠にかくという名前は「もういない鳥」のものだと感じた。
いなくなった、かつてたしかにそこにいた鳥の名前を、鳥籠にちゃんとかいておく。
鳥のことをいつまでも忘れないためだろうか。鳥がその籠に暮らしたことを、印として残しておきたいという気持ちだろうか。あるいは、そこに墓標を立てるような、敬愛の気持ちだろうか。

名前を書いてどうするのか。
歌は「そうして生きてゆかなくてはね」と続く。
鳥の名前をかいたあと、この人はまだもう少し続く自分の人生を生きてゆくのだ。
鳥の一生は人にとってはあっという間で、けれども鳥の一生である。鳥一羽が生きて、いなくなるまでをなぞるように、つめたい鳥籠に名前を刻むこと。それは、その生の重さをちゃんと受けて、そして明日からもちゃんと生きてゆくために必要なことなのだ。


本日の一首の作者は、笹井宏之(ささいひろゆき 1982 年-2009 年)です。
日本、佐賀県出身の歌人です。

笹井宏之の歌は、現実にこれはどういう意味か・どのようなシーンをあらわしているかなど、あれこれ考え込まなくとも心にすっと響いてくるものがある。
今日はとくに気になった一首についていろいろと考えてみたけれど、正直に言うとわたしは普段、笹井宏之の歌をこのようにつらつらと語るように鑑賞していないと思う。たぶんもう少し、ぼーっと読んでいる。
たとえばこんな一首がある。

水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って
/笹井宏之

真冬の譜面ってなんだろう。それをイメージさせるような曲の楽譜なのだろうか。
水田があるのはふつうは夏だから、そこに季節違いの「真冬の譜面」が散らかっているのか。
それとも季節は冬で、真冬にはあるはずのない水田へ足を踏み入れているのか。
考えるほどによくわからなくなるのだけど、単語から感じる透明感・みずみずしさ、現実と幻想のさかいめのような光景がうつくしく、”よくわからないけどなんかいい”それでいいじゃないかという気持ちになる。よくわかんないけど、好きだ、いい。そういうふうに短歌を読んでもいいということを、わたしは笹井宏之の歌集でおぼえた気がしている。


一生に一度ひらくという窓のむこう あなたは靴をそろえる/笹井宏之

愛します 眼鏡 くつひも ネクターの桃味 死んだあとのくるぶし/同



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