ひいらぎの窓【第四回】:苦すぎる麦茶があったいつだって母は力のかぎり愛した/鳥さんの瞼
こんにちは、こんばんは。湯島はじめです。
お読みいただきありがとうございます。
「ひいらぎの窓」4 回目です。いつもありがとうございます。
コートのいらない日がすっかり増えてきました。わたしはこの冬結局、雪を一度もみませんでした。去年はどうしてか、東京よりもあたたかいはずの西方にある実家へ帰ったときに、一度だけ雪が降ったのをみたのですが。
今週も、ゆううつであかるい日曜夜に、すこしさみしい短歌を読んでいきましょう。
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本日の一首はこちらです。
一読したときから忘れられない歌です。
真夏の、クーラーのきいていない、凪のときのような蒸し暑い居間を想う。なんとなく、物が少なく整っているというよりは、今まさに人の暮らしている”生活感”のある居間。風のない夏の暑さはどこか息ぐるしい。そこには母がいて、母のつけている化粧品なのか、わからないけどいつもの母の匂いがする。
「麦茶」のパックは一年中売られているけれど、もととなる大麦は 5 月下旬~6 月が収穫時期でまさに夏の季節の飲み物である。「麦茶」は俳句においてもしっかりと夏の季語だ。この歌には季節や天気のことは直接書かれていないけど、その単語ひとつで描かれている情景の空気を感じる。
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苦すぎる麦茶と、力のかぎりの母の愛。この歌での麦茶は「母」の愛のメタファーになっている。
麦茶は、自分の生まれ育った家で母が作っていたものなのだと想像した。
苦すぎる麦茶があった / いつだって母は力のかぎり愛した
このように分けて読んでみると、ひといきに読んだときと少し印象が変わる。
「いつだって母は力のかぎり愛した」と言い切ることのできる清々しさと、確かにその愛を受け取っていたという実感。しかし、あたまから短歌を読んでみるとそれは「苦すぎる麦茶」のようであったという。
母は麦茶を作ってくれなかったわけではない。作ってくれた麦茶は飲めないわけでもない。ただ、母の力のかぎりの麦茶はいつも苦かった。
そのことに対する、今現在もうっすらと続く息ぐるしさ、母への感情、いいことばかりではないけれどたしかにある郷愁。
実際に同じことを体験したわけではなくとも、さまざまな感情と夏の空気を思い出すことができるような、濃密な一首だ。
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鳥さんの瞼さんは、短歌の投稿サイト「うたの日」など、主にインターネット上で活動されている歌人です。
本日紹介した一首もそうですが、鳥さんの瞼さんの「母」の歌や、どうぶつへのまなざしがわたしは好きです。
Twitter:@withoutSSRI
最後に何首か、好きな歌を引用させてください。
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ドンドンドン・ドンキー高校生のころ欲しいと寂しいはすごく似ていた
/鳥さんの瞼
母の推すあんまり知らん政党が母をさびしくしませんように
/同
会うことのなかった四羽の心臓が一つに刺されて完成している
/同
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