今に続くものへの出会い。      ☆サッカー☆サーフィン☆そしてレフェリーへの道

今回は今に続くことに出会ったものについてお話ししたいなと思います。

高校時代はほぼサッカーが占めておりそこで3年生の時右膝外側靱帯損傷の大けがを負いました。そこで高校サッカーが終わってしまいました。と書きましたが自分の中ではここで終わりではありませんでした。

なぜかというと自分はケガをしてもピッチの上に居続けれることができました。それは選手としてでなく審判としてです。

先生から練習試合の審判をお願いをされるようになってからがきっかけでした。サッカーの審判といえばほぼほぼみんなやりたがらない。しかし自分はそんな嫌な役回りがポンポン回ってくるんです。

嫌といえば嫌だったかもしれませんが今ではその経験がなかったら今は100%いや120%ないと思います。

サッカー部の審判といえば基本お願いされるのが下級生、けが人、レギュラー落ちした有資格所集者でした。そこで自分はそこをリハビリと俯瞰でみるサッカーの勉強時間に当てました。

これがばっちりあたりました。

まず競技規則を覚えたりすることはサッカーをよりよく知るうえで重要でした。また競技規則上グレーな部分を裏をかくプレーもできるようになったりしました。とってもプラスになりましたしなにより各個人のメンタルケアなどマネジメントの部分で急成長できました。

そして学校の部分ではすぐにおわってしまいましたが入り口は十分でした。

その後高校卒業後サッカーをやめた途端10kgくらいふとってしまい兄から『おまえちょっと太りすぎじゃない?』と言われこりゃまずいと思いまして兄が当時やっていたサーフィンを始めました。

こう思うと審判以外は兄の影響で始めていないスポーツは一個もないことに気づきました。またこのときや10代や20代前半は兄にお世話になりっぱなしでした。なんせ自分は運転免許も持っていなかったのですから。

ドはまりしたサーフィン、週6の海通い(笑)

サーフィンを始めたきっかけは正直痩せるためでした。

さきほど書いた通り自分のなかでサーフィンは痩せるためでした。それがいつの間にかドはまりして週6で通うようになり波がほとんどなくても河口にいってとりあえず入るみたいな生活を送っていました。

ここでもかなり高校時代までやっていたサッカーが活き落ちていた体力が戻り筋肉は細マッチョになり動けるように戻りました。70kgくらいあったのが10kgおち60kgまでおち今でもその体系は変わってません。

高校時代から体系が変わっていないのも素晴らしい事です。自分でも思います。

なぜハマったかというといろんな理由があります。

①波は同じのがこないからチャンスは一度しかこない

②限界は自分で決める、だめだとおもったら帰る勇気も必要

③あの波にのる達成感はほかのスポーツでは味わえない何かがあった。

人生におけるチャンスみたいなもんですね。必ず波に乗るんだという感じでパドリング(漕ぐ)してました。

限界は自分でしっかり決めないといけません。相手にしてるのは人間ではなく自然であったのでデカ過ぎる波に対して自分の実力以上の波であれば行きたくてもさらわれてしまったら終わりです。

しっかり物事の判断(ジャッジ)をできるようになってないといけませんでした。

最後にあの波にのる達成感は代えがたいものがありました。いまでもあの感覚は忘れられません。

てんかんとのサーフィンってあんまり関係なくない?って思いの方いるかもしれません。これが結構おおありでして・・・。まずてんかんの患者はそもそもだれかいれば、体調面で万全が大前提であれば大丈夫だと思います。

水の上で発作が起きたら?

ゾッとしません?申し訳ありませんがおれおきました。

これはまた次にでも書きたいと思います。

てんかんとサーフィンの考えところってしっかりと客観視できる能力を身につけないといけないところです。また自然が相手でありてんかんもほぼ自分との見えないものとの戦いです。

限界は他人ではなくしっかり自分で見極め決め、ダメだと言う勇気を持つこと、またストレスをため込まずにしっかりと吐き出すはけ口を作っておくこと。われわれてんかんをもっているものにとってチャンスってなに?ってところですよ。

難しいですよね。本当にむずかしい。社会的にチャンスはなかなかないです。だからしっかりつかまないといけない。

このチャンスは本当になかなかこなかった。

もしかしたらチャンスはバンバン通り過ぎていただけかもしれない。気づかないだけで。こうゆうところにアンテナをたてるようになったのもサーフィンをやり始めてからです。




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