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目の見えない白鳥さんとアートを見にいく 川内 有緒

毎日本を読む9/17
目の見えない白鳥さんとアートを見にいく 
川内 有緒

店の中に本棚があって、ぜんぶで16マス(表と裏に8マスずつ)ある中の1マスが読書垢の女子の選書になっています。
その中から一冊。
前から読んでみたいと思うタイトルで。

なぜこの本を手に取った???


全盲の美術鑑賞者・白鳥建二さんと美術鑑賞をしに行くドキュメンタリー。

言葉にすることで、目の解像度が上がっていく

普段私は美術館に行かない。まったく行かないことも無いけど、習慣的に行くような感じでもなく、なにか電車の中刷りや壁のポスターなどで目にして、タイトルが気になった時に、「行きたいなー」とか言いながら、結局いかない確率が70%くらいな距離感。

「自由な会話を使ったアート鑑賞」

作中に出てくる、クリスチャン・ボルタンスキーという現代美術アーティストについて、作品:心臓音のアーカイブ(クリスチャン・ボルタンスキー)は2010年の瀬戸内国際芸術祭で観ている・・・はず。
あの夏は倒れそうなくらいの暑さで、脱水症状手前の島巡り鑑賞。
もうろうとする中、豊島にはいっているのでたぶん見たはずなのです。
しかしその時の記憶はない。

白鳥さんとボルタンスキーを鑑賞しているくだりを読んでいるとき、
こみ上げてくる「ワクワク」を感じ、「行ってみたい!」という衝動が生まれ、作者の名前を検索して初めて「見ているはず」に気付いたわけです。
その時、「盲目であろうとなかろうと、行ってみたい、やってみたい」について「あぁ、そうだよなぁ」という妙な納得感を得ました。
興味を持つことには分け隔ては一切ない。

著者はドキュメンタリー作家として、白鳥さんと出会い、二年間もいろいろな美術館をめぐり、最終的には映画にするための流れがあった。

見えるとか見えないとか、違うとか違わないとか、比較や推測を使って、何かそこにある大きな真実のようなものを追い求める作業のように思えた。
差異の発見に驚き、感動する。

「目が見えないから」

白鳥さんが水戸美術館でその当時の仕事としてのマッサージ師を廃業するにあたり、「閉店セール」(本人曰く)としての20分1000円のマッサージを提供していた。作者は施術を受け「患者に触れるとすべてがわかっちゃうという鍼灸師を知っているが、あなたもそうですか?」的なことを聞き、「全然ないですね」という返事をもらうくだりがあった。

本書の最後に、ホシノマサハルさんへのインタビューで浜松を訪れた際のやり取りから、自分が川内さんだったら「あぁ!」って思うようなことがあった。

僕らはほかの誰にもなれない

人は誰かになろうとしてみても、相手に寄り添うことしかできない。
それは悲しみを伴って表現されているようにも聞こえるし、諭すようなふうにも聞こえた。
特に深い理由なんてなく、誰しもそこにただある。
目の見えない白鳥さんと「だから」アートを見に行くわけではなく、アートを見に行きたいから行く。それだけのことなんだ。

いま本の表紙の真ん中で白鳥さんが「何が見えるか教えてください」と言っているのを眺めていて、目が機能的に見えていようといまいと、人は見たいように見るし、何も見えていないともいえる。そう思った。


自分の視点、視座、思考の偏向を感じ取ることのできる一冊。
映画のほうは観る機会がまだないが、かならず観に行きたいとおもう。
有坂さんがどのように描いているのか知りたい。
映画のレポートはまたその時に。



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