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名前で運勢が変わるか?(4):名前の呪力<下>

招魂の意義を、名前の呪力ではなく、共同社会でのひとつの役割とみなす、合理的な解釈もできます。

たとえば、屋上で名前を呼ぶ行為には、近隣に「家族の健康上の危機」を伝える意味があり、近隣の人々は、この状況にできるだけ対応しようとする協力者とも考えられます。[*1] [注1]

つまり、招魂の儀式は、共同社会の結束力を強める意義があったので、名前の呪力とは無関係に、長く受け継がれてきたのかもしれません。

もちろん、そうした一面もあったでしょう。ですが、となり近所に知らせるだけなら、「病人がびっくりしたり、邪気にあったところに行って供え物をする」とか、「広々とした野外に行って名前を呼ぶ」ことの意味がわかりません。

家に戻ったあと、「腹掛けなどをすぐ子供に着せて体をしっかり包み、門や窓に鍵をかける」ことの意味も同様です。共同社会の結束力強化だけでは説明がつかない側面も多いようです。

ところが、どんなに受け入れがたくても、ひとたび名前の呪力を認めてしまえば、招魂の儀式だけでなく、次のような事例の意味も単純明快です。

●「名前の呪力」ですべての疑問は氷解する

5世紀の前半頃に作られた『女青鬼律じょせいきりつ』という天師道(初期の道教教団)の戒律書には、悪鬼や妖怪を鎮圧する方法が書かれているそうです。それによると、鬼神を意のままに操る方法は、その本当の名前を知ることなのです。[*2] [注2]

また、ケルトとアーサー王伝説で知られるイギリス南西部のコーンウォール地方には、「ファウル・ウェザー」という民話が伝わるそうです。

妖精研究で著名な井村君江氏は、この民話が日本の「大工と鬼六」の話とよく似ており、名前に特別な呪力があるという信仰は、世界各国の伝承物語のなかに数多く見いだせると指摘しています。[*3-4] [注3-4]

※「大工と鬼六」の話
 鬼が大工に「橋を一晩でかけてやる代わりに、名前を当てるか、目玉をよこせ」というが、偶然聞いた鬼の子たちの歌声で「鬼六」の名を知り、名を言い当てると、鬼は溶けて泡となる。

名前の呪力にまつわる同じような民話が、世界中に伝わるのは何故なのか? これは、おそらく誰もが抱く素朴な疑問ではないでしょうか。

仮に、この民話の原型がどこか特定の地域にあったとすれば、そこから世界中に広まったことになります。話の細部が違うのは、伝承の途中で徐々に変形していったと考えれば、一応の説明はつきます。

しかしこの話には、誰かに伝えずにはいられないほど、そんなに強烈なインパクトがあるとは思えません。

あるいはまた、それぞれの民話の起源がそれぞれの地域にあるとすれば、世界中の人々がどうして同じような民話を作り出したのか、よりいっそう謎が深まります。教訓めいた話でもなさそうですし・・・。

ところが、民話の表面的な意味そのままに、「名前の呪力」の不思議な体験談と解釈すれば、謎でもなんでもなくなります。

きっとその体験者は、黙っていられないほど興奮して、だれかれ構わず語り伝えたに違いありません。伝承の過程で失われたのは、体験者の興奮と臨場感だったのでしょう。(妖精や鬼とは何者か、という疑問が残るとしても)

そこで、ソクラテスが占いについて爆弾発言したように、こんなふうに言えないでしょうか。[注5]

「名前に呪力がなく、名前で霊魂を呼び戻したり、悪霊を支配できるといった信念が誤謬だとしたら、幾時代もの長い間、人間が名前の呪力を信じ続けたはずはない」と。

●脳ミソが転げ落ちない程度に心を開け

まあしかし、21世紀の現代に「名前の呪力」などと突拍子もない仮説を持ち出すようでは、頭がおかしいと思われるのがオチです。宇宙物理学者のカール・セーガンも、次のように書いています。[*5]

何ごとにも心を開くことは、たしかに一つの美徳である。ただし、・・・あくまでも「脳ミソが転げ落ちない程度に」開いておくことだ。

もちろん、新たな証拠が出た暁には、頭を切り替える覚悟はしておかなくてはならない。だが、その証拠は強力なものに限る。こと知識に関する限り、どんな主張も同じだけの重みをもつというわけにはいかないのだ。

『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』(カール・セーガン著)

なるほど、「名前の呪力」や「名前と霊魂との密接な関連性」については、強力な証拠どころか、貧弱な証拠すら、まだ見つかっていません。迂闊うかつにも心を開きすぎたようです。あやうく脳ミソが転げ出るところでした。

●より現実的な仮説

そこで考えたのが、次の仮説です。

たとえば、公務員の親が、わが子にも同じ職業に就いて欲しくて(よくありますよね)、名前に「敬」の漢字を使ったとする。

一方、子供の方も親の職業には関心を持ちやすく(これも、よくありますよね)、希望する職種では公務員が優位となった。その結果、名前に「敬」を持つ人がより多く公務員になった。

この仮説は「名前の呪力」に比べてはるかに現実的です。ただし、「敬」の文字に公務員のイメージが伴わない限り、この仮説は成り立ちません。

こうして、結局は振り出しに戻ってきます。それは、「漢字には特定のイメージが付随するのか?」という疑問です。

実はこの問題を調べていくうちに、わかってきたことがあります。どうやら漢字には何かしらイメージが結びついているらしいのです。いや、文字としての「漢字」だけでなく、「名前」にもイメージがあるらしいのです。

=========<参考文献>========
[*1] 『魂呼び儀礼の研究』(鈴木慶一著、『東アジア文化研究 第1号』所収)
[*2] 『中国の呪術』(松本浩一著、大修館)
[*3] 『ケルトの妖精』(井村君江著、あんず堂)
[*4] 『日本昔話通観 研究編2』(同朋舎)
[*5] 『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』(カール・セーガン著、新潮社)

=========<注記>========
[注1] 招魂の儀式はなぜ受け継がれたか?[*1]
 日本の「魂呼び儀礼」を研究された鈴木慶一氏は、どのような状況の時、どのような作法で、誰が、何を目的に行い、その社会的意義は何なのか、各事例を子細に分析された。そして、「魂呼び」には、地域社会の中での共同性が認められることなどから、「当該地域での結束力を強める統合機能がある」と結論づけている。

 ただし、氏の研究はあくまで日本の「魂呼び儀礼」であり、中国の「招魂」を含めた結論ではない。したがって、氏の結論で中国の「招魂」を説明し尽くせるかどうかは、また別の問題である。

ここでは、日本の「魂呼び儀礼」を分析した結果と類似の推論ができるのではないかと考え、参考にさせていただいた。

[注2] 名前の呪術
 『中国の呪術』(松本浩一著)によると、『女青鬼律』には次のように書いてあるという。

「道男・道女でこの秘経を見て、鬼の姓名を知れば、万鬼は犯さず、千神は律にあるように従う。・・・鬼の名前を知れば邪はあえて進まず、三度鬼の名前を呼べば鬼気は絶える。・・・すべて鬼にはみな姓名があり、三台の鬼名を知れば、万鬼に指図することができる。」

[注3] 「ファウル・ウェザー」のあらすじ[*3]
 ある領主が、大聖堂を建設中に資金が底をつき、途方にくれていた。そこに小人の老人(妖精)が現れ、「大聖堂を建ててやる代わりに、名前を当てるか、心臓をよこせ」と言う。領主は、大聖堂が完成する頃には、とっくに自分はこの世にいないだろうと考えて、妖精の提案を受け入れる。

 ところが、おびただしい数の毛むくじゃらの妖精たちが現れ、ものすごい勢いで石を運び、槌をふるい、瞬く間に大聖堂が出来上がっていく。困った領主は、森に出かけて、思案していると、泣きわめく赤ん坊の声と、これをあやす母親の歌声が聞こえてくる。歌の内容は、「泣きやんだら、お前の父さんファウル・ウェザーが、領主の心臓をお土産に持って帰る」というものだった。

 これを聞いた領主は、すっ飛んで町に戻り、大聖堂のてっぺんで仕上げの作業をしている小人の老人(妖精)に向かって、「ファウル・ウェザー」の名を叫ぶ。すると、妖精は転落して、ガラスのように砕けてしまう。

[注4] 名前の呪力をテーマとする世界の民話[*4]
 『日本昔話通観 研究編2』(同朋舎)には、「大工と鬼六」の類話として、「ルムペルシュティルツヒェン」(『グリム昔話集』)、「トム・ティット・トット」(ジェイコブズ 『イギリス民話集』)、「カルンドボルグ教会」(J・M・ティーレ 『デンマーク民話伝承集』)などを紹介している。

[注5] 神々の実在と占いを信じたソクラテス
 詳しくはこちら ⇒ 『名前で運勢が変わるか?(2):ソクラテスと占い

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